失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

土浦-行方 自転車走行日誌風

2007年02月23日 | 残ってほしい風景
 9:25 上野発土浦ゆき常磐線に乗車

10:44 土浦駅着

土浦市観光協会 まちかど「蔵」で自転車を借りる
 


霞ヶ浦に出て、沖宿、崎浜、牛渡、田伏の集落を抜ける。交通量も少なく快適。
 
                     <崎浜横穴古墳群>
 
  <冬枯れの蓮田の風景>                    <牛渡牛塚古墳>
 

 
     <田伏のあたり>                 <霞ヶ浦大橋より見る筑波山>

12:15 霞ヶ浦大橋着、食事をして、夜刀の神の泉(椎井の池)をめざす
 
<谷戸の入り口>

夜刀の神の泉の前を通り過ぎ、谷戸を上り詰める。
 
     <登って来た谷戸を振り返る>             <台地の上の道>

鳥名木の杜(鳥名木館跡)
 
大木に囲まれている。名札をみると、ヤブツバキ、モチノキ、ムクノキ、スダジイ、タブノキ、エノキなど。
 
            <館跡>                  <ヤブツバキの花>
 
         <スダジイの大木のあるところに土塁のような遺構がある>
 
   <玉造町 泉の集落>

15:45 玉清の井
 
<常陸国風土記に記述のある「玉清の井」 標高約3mの位置にあり霞ヶ浦とあまり高さが変わらない>

17:30 土浦まちかど蔵に自転車を返す
  
  <てんぷら屋さん「ほたて」 夕暮れて、泉鏡花の小説の中にでも出てきそうな雰囲気>

16:03 土浦発上野ゆきに乗車

(以上のコースタイムは実際に走ったものですが、写真は別の日に撮影したものを一部使っています。)


地図 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社,2004年)より
   国土地理院 20万分の1地勢図「水戸」図幅
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひだる神

2007年02月17日 | 民俗
 柳田國男の『妖怪談義』に「ひだる神のこと」という項目があります。
 「夜刀の神」で神様の話を書いたので、今回は神様つながりで「ひだる神」をとりあげてみます。といっても、この神は、お社に祀られるような神ではないのですが。

(引用開始)
山路をあるいている者が、突然と烈しい飢渇疲労を感じて、一足も進めなくなってしまう。誰かが来合わせて救助せぬと、そのまま倒れて死んでしまう者さえある。何か僅かな食物を口に入れると、始めて人心地がついて次第に元に復する。普通はその原因をダルという目に見えぬ悪い霊の所為と解していたらしい。どうしてこういう生理的の現象が、ある山路に限って起こるのかという問題を考えてみるために、先ずなるべく広く各地の実例を集めてみたいと思う。
柳田國男『柳田國男全集6』ちくま文庫 p.113
(引用終わり)

 このあと、「伊勢から伊賀へ越えるある峠」、大和の「宇陀郡室生寺の参詣路」「仏隆寺阪の北表登り路中ほど」「長崎県の温泉岳の麓」などで、餓鬼あるいはひだる神に取り憑かれる例をあげ、最後に、読者に他の事例の報告を求めて終っています。

(引用開始)
少しでもこれに近い他の府県の実験談と、もしこの問題を記載した文献があるならば報告を受けたい。理由又は原因に関しても意見のある方は公表せられたい。これだけはすでに世に現れた材料であって、自分はまだ特別の研究を始めたわけではない。
柳田國男『柳田國男全集6』ちくま文庫 p.116
(引用終わり)

 南方熊楠は、雑誌『民族』で「ひだる神」について論じており、自らの「ガキに付かれた」体験を記して、この状態を「脳貧血」と表現しています。
『南方熊楠コレクションⅡ 南方民俗学』河出文庫 pp.311-317

 さて、柳田の求めた「ひだる神」の原因ですが、私は、この現象を、今日ではハンガーノックとして知られる生理現象であると考えます。
 長距離走やサイクリング、登山など、持久力を要するスポーツを空腹の状態で続けると、ある時点で足などに力が入らなくなり、ふらふらの状態になることがありますが、これはハンガーノックとして知られています。
 私は、昔、サイクリング中に、空腹のため、急激に足に力が入らなくなったことがあります。かろうじで食事をとれる場所にたどりつき、食事をとると、何事もなかったかのように元どおりになるということを経験したことがあります。
 今でも、空腹でサイクリングを続ければ、ふらふらになり、立っているのが精一杯という状態になります。(街中ではコンビニがいくらもあるので、空腹で走れなくなるようなことはまずならないのですが)

 山道などで、空腹のため、急に力が抜け、また食べ物を口にすれば何事もなかったかのように元気になるため、昔の人はこれを、何か憑き物がついたのだと考えたとしても不思議はないと思います。
 流通も発達しておらず、コンビニも自販機もなかった時代にあって、山道に入ってから食糧が乏しくなって、同じ難所でへたり込む人が多くいたとすれば、憑き物つきと特定の場所と結びつくことにつながったとも考えられます。

 今回のテーマと結び付く写真として、確か、「遠野」に、飢饉の際の餓死者供養塔があったように記憶しています。あいにくと手元に写真がありませんので、写真添付は、これも後日の宿題にしておきます。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜刀の神

2007年02月12日 | 民俗
このブログでも今まで「谷戸」「谷地」という言葉を何度か使ってきました。
「谷(やつ)」は、広辞苑によると「アイヌ語から」の言葉だそうです。
常陸国風土記にその名も「夜刀の神(やとのかみ)」という話があります。


                     <茨城県行方市>

『鎮守の森は甦る-社叢学事始』上田正昭、上田篤編 思文閣出版 p10-11に、この「夜刀の神」について興味深い解釈が載っています。
(引用開始)
三 縄文文化の名残り
 アマツカミといい、クニツカミというものは、いったい何であろうか。
 何千年もの昔、日本列島の山野は深い森で覆われていた。そこに小動物や魚を獲り、木の実や貝を拾う人々がいた。わたしたちの祖先の縄文人である。しかし、縄文末期から弥生時代にかけて、この国に稲作が普及するにつれ、日本列島の様相は一変した。平地部の森林がつぎつぎに切り倒され、あるいは焼き払われて田畑となっていったからである。とりわけ、古墳時代の初期に、大陸からやってきたとおもわれる天照大神を奉祭する「天孫族」がこの国土を支配するようになると、その勢いは決定的となった。アマツカミとは、これら 「天孫族」あるいはその子孫をいい、クニツカミとは、それ以前に日本列島に居住していた人々をいう。
 ただし、クニツカミといっても、古くからこの日本列島に居住していた縄文人と、紀元前三世紀ごろを起点として大陸からやってきた早期の弥生人とがいる。そして縄文人は一口に「森の民」といっていいが、弥生人はいずれも「稲の民」である。すると両者の生産方法は大きく異なり、したがってその文化もまた違ってくることが予想される。
 ところが、社叢が「土地の神の坐ます森」である、というなら、それは縄文人の文化に近い、と考えられるのではないか。なぜなら、縄文人の文化は森を基盤とするが、弥生人の文化は、その生業からいって、基盤とする自然は「森」ではなく「川」とか「泉」とか「稲」とかでなければならないからだ。では、どうして弥生人もみな「森」を奉祭したのだろうか。
 『常陸国風土記』に、そのヒントになるような話がある。継体天皇のころというから、すでにアマツカミの治世下の六世妃の始めのことであるが、縄文人と弥生人の関係を知るうえでの参考にはなろう。

 箭栝(やはず)の氏(うじ)の麻多智(またち)、郡(こおり)より西の谷の葦原(あしはら)を截(きりはら)ひ、墾開(ひら)きて新に田に治(は)りき。此の時、夜刀(やつ)の神、相群れ引率(ひきい)て、悉盡(ことごと)に到来(き)たり、左右(かにかく)に防障(さまたげて)、耕佃(たつく)らしむることなし。是に、麻多智、大きに怒の情(こころ)を起こし、甲鎧(よろい)を着被(つ)て、自身(みずから)杖(ほこ)を執り、打殺し駈逐(おひや)らひき。乃ち、山口に至り、標(しるし)の枴(つえ)を堺の堀に置て、夜刀の神に告げていひしく、「此より上は神の地と爲すことを聽(ゆるさ)む。此より下は人の田と作(な)すべし。今より後、吾、神の祝(はふり)と為りて、永代(とこしえ)に敬(うやま)ひ祭らむ。冀(ねが)はくは、な祟(たた)りそ、な恨みそ」といひて、社を設けて、初めて祭りき・・・。
(引用者注:常陸の風土記の一部について、岩波文庫「風土記」で補った)

このヤツノカミには蛇という注釈があるが、前後の状況から推して、縄文人と考えることができる。そして縄文人の住む山地と弥生人の住む平地とのあいだの山口に社をつくった、というのである。神社の成立を知る一つの話である。

(引用終わり)

 常陸国風土記には「夜刀の神」について「俗にいふ、蛇を謂ひて夜刀の神と爲す。その形、蛇の身にして頭に角あり。・・・」と註が付されているので、一般には「夜刀の神」は蛇とみなされ、人間が自然を開墾する際の摩擦、あるいはその後の住み分けの話のように考えられているようです。
 
 常陸国風土記には、この後に、後の時代のもう一つの「夜刀の神」の話が載っています。

(引用開始)
其の後、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知らしめしし天皇の世に至りて、壬生連麻呂、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。時に夜刀の神、池の辺の椎の樹に昇り集ひ、時を経れども去らざりき。ここに麻呂、声を挙げて大に言ひしく、「此の池を修めしむるゆゑは、民を活かすにあり、何の神、誰の祇ぞも、風化(ことむけ)に従はざる」といひて、すなわち役の民に令して曰ひしく、「目に見ゆる雑の物、魚蟲の類は、憚り懼るる所無く、隨盡に打ち殺せ」と言ひ了れば、応時、神蛇、避け隠れき。いわゆる其の池は、今椎の井と號く。池の面に椎の株ありて、清き泉の出づる所なれば、井を取りて池に名づく。
『風土記』武田祐吉編 岩波文庫 p.59
(引用終わり)

「長柄の豊前の大宮に天の下知らしめしし天皇」というのは孝徳天皇だそうです。

 私は、『鎮守の森は甦る-社叢学事始』の「神社の成立を知る一つの話である」という部分に大変興味を覚え、行方市(合併前の行方郡玉造町)の泉というところに、この「椎の井」と伝えられている場所があると聞いて、是非行ってみたいと思っていました。
多摩地区ではもう少なくなってしまった、風景が広がっていました。

 
             <椎の井>                     <壬生連麻呂の像>

     
       <湧出量も豊富>                  <底の砂が湧き踊る>

      
            <泉の上に愛宕神社があり椎の大木がそびえる>

この辺りには、中世の居館跡など興味深い史跡があり、後日もうすこし紹介してみます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小規模湿原

2007年02月04日 | 失われた風景

<尾瀬ヶ原からの至仏山>
 
   <ナガバノモウセンゴケ>                <ハッチョウトンボ>
湿原というと、尾瀬などの大規模なものを頭に浮かべると思いますが、ある種の条件があると、小規模な谷戸のようなところにも、モウセンゴケなどの湿原植生が現れるそうです。
岡山理科大学の波田善夫先生は、湿原が成立する条件を研究されています。(波田先生は、研究だけでなく、開発で消えていく湿原植物の移植も行っています。)
この中で、供給される水が貧栄養であることが挙げられていますが、この水の栄養の度合いをはかる尺度として、波田先生は電気伝導率(上記参照ページ中の表)を使っています。

電気伝導率については、波多先生のページでも解説されていますが、私の言葉で簡単に説明すると、その水がどれだけ電気を通しやすいか(イオン量が全部でどれだけあるか)の尺度ということになります。植物の生育に関係する窒素、リン、カリなどといったものを個別に測定せずに、全部まとめて表してしまおうという考え方です。ここで対象にしている湧水は、「貧栄養」と言われているように、水にあまり多くの物質が溶けていませんので、微妙な差を測るには、電気伝導率という一見大ざっぱな感じのする水質指標が、手ごろで有効だったというわけです。

私は多摩丘陵周辺では、このような小規模湿原を見たことはないのですが、本でみると、多摩ニュータウン開発前の永山にあったようです。また、八王子の鑓水の大谷戸?にもあった可能性があります。
・『大栗川・乞田川 流域の水と文化』小林宏一(2003)p.100
(引用開始)
「永山にあった湿地岩入りの池は、一部の人には重要性が認識されていたが、ニュータウン工事初期の昭和43年、保護意識がまだ高くなかった頃で、きちんとした調査が行われないまま、あっという間に埋め立てられてしまった。トキソウ、サギスゲ、モウセンゴケなどがあった。「ふるさと多摩 一号」」
(引用終わり)

・『絹の道 やり水に生きて』小林栄一 かたくら書店(1992)p.12-14
(引用開始)
「多摩丘陵の中の小さな村落である鑓水の、いたる所にある谷間や沢は、それぞれ異なった地質、地層があって、好奇心の強い少年時代の私は、よく一人で山の中や谷川沿いを歩きまわった。・・・
 その中で、一番不思議だと思う所が一ヶ所あった。それは大谷戸の沢の奥で、雑林の生えている約六畳か八畳間ほどの広さがある平坦地で、いつもこの地に足を入れると、心持ち足元がぐらつく様な感じがする。そこは楢やえごの木が生えていて、一見その周辺の山肌と何の変わっているところでもない。だが、その場所へ来て、両足をしっかりと踏んばって腰に力を入れて振って見ると、大地がユラユラと揺れ動く。・・・
 戦後、尾瀬の湿原の記事が新聞や雑誌の紙面を賑しテレビでも時々紹介されるようになったが、尾瀬の記事を読み、画面を凝視していると、あの少年の日に、行ってはゆすぶって見た、あの沢の雑木林の土地は、湿原に近い小規模のものでなかったとも想像して見る。」
(引用終わり)


以下は、10年近く前の古いデータですが、私が実測した電気伝導率の値です。波田先生の指標と比べてみると面白いと思います。尾瀬の水は私が今まで測った中では最小値です。

尾瀬(牛首ちかくの池塘1997.8.2)   5μS/cm pH 5.1
雨水(東京都府中市1997.12.31)   10μS/cm 
水道水(東京都府中市)     220-230μS/cm
静岡県柿田川最下流(1997.8.10)    170μS/cm 
国立市ママ下湧水(1997.8.10)     300μS/cm 
下水処理水(北多摩2号1999.12.26) 520μS/cm
(単位μS/cmの読み方:マイクロジーメンス毎センチメートル)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする