失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

大栗川右岸散策2 (緑の小道探し)

2008年10月25日 | 残ってほしい風景

<八王子市東中野>

 大栗川右岸に残る石仏や古墳、寺社を訪ねると、途中のところどこに生け垣の小道があらわれたりして、たどってみたくなります。

 想定したコースは京王線聖蹟桜ヶ丘駅出発、京王堀之内駅または多摩センター駅着です。
 聖蹟桜ヶ丘駅からまず大栗川に出てしばらく川沿いに進みます。東寺方橋のところで「お化け坂」を登って、「山神社」に寄り、「和田古墳群」を巡って、多摩ニュータウンの鹿島団地・松が谷団地の北側を進みます。
 京王堀之内駅までだいたい8km、多摩センター駅までだいたい9kmくらいです。
 写真説明の地点番号は下の地図を参照してください。
 
<地点①、② 東寺方>
 
<地点③ 送電線の右の樹木の下に祠が>
     


  
<地点④>
 
 
<地点⑤ 地蔵堂 交差点を3方向から>

<地点⑥> 
      


 
<地点⑦ 大塚公園>
 
<地点⑧、⑨>
 
<地点⑨、⑩>

<地点⑩>
  
<地点⑪>
 
<地点⑫大栗川、地点⑩付近>
     

使用した地図は国土地理院1:25000地形図「武蔵府中」


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焼餅坂  横浜市戸塚区

2008年10月20日 | 幕末写真

<焼餅坂を見上げる。横断歩道の位置が坂の底。2008年10月19日撮影。以下に記す『ベアト写真集』69.に対応>

<焼餅坂の途中、品濃一里塚方向を。横断歩道は上の写真と同じもの。『ベアト写真集』70.に対応>

『F・ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)p.69に「69.東海道の一風景。横浜-藤沢間」「70.東海道の一風景。横浜-藤沢間」という写真が載っています。70は69を逆方向から写したものとの説明がついています。

これらの写真はネット上では
・69に相当するものとして
「東海道分間延絵図を歩く」
http://kentaza.hp.infoseek.co.jp/YAKIMOCHI/YAKIMOCHIZAKA.HTM
(このページの中段中央部にある白黒写真)
「ELPH」
http://www.elph-studio.com/gengi/baku16.html
など

・70に相当するものとして
「厚木市」のページ
http://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/data/images/1165_0000004609_2.jpg
などでみられます。

 この写真70には特徴のある坂道が写っています。このため、『ベアト写真集』のそのほかの東海道の写真よりも場所が特定しやすいのではないかと密かに思っておりました。撮影場所も「横浜-藤沢間」と書かれていますので、ことによったら旧東海道を歩けば撮影場所がわかるかもしれない。しかし、「横浜市内の東海道が昔の写真のままに残っているはずもないだろうから、歩いただけではさすがにわからないだろう」と95%くらいは思っていました。ともかく考えてわかるものでなし、実際に行ってみるのが一番です。
 現地に行っても旧東海道の道筋がわからないと話になりませんので、それだけは事前に準備しないといけません。幸い、昔買った本に旧道を記したものがありましたし、坂の名前もチェックし準備終了。権太坂あたりが有力候補かな、など想像しつつ、相鉄線の天王町駅を出発点とし、藤沢を目指しました(結果としては戸塚までで切り上げました)。
 結論としては、現地を1日歩くことでこの写真がどこのものかがわかりました。答えは表題の「焼餅坂」です。ただし「歩いたからわかった」のではなく現地の案内版にベアトの写真が載っていたおかげでした。

<坂道のくねり具合に昔の感じが残っている>
 
 現地の案内板がなかったとしたら、自力でこのポイントを探し出せたかは微妙です。あるいは断言はできなくとも「有力候補」くらいの表現で取り上げることができたかもしれません。それはともかく、現地の案内版に記載があったということは、以前から、この写真の撮影場所はわかっていたわけですね。探せば言及している文献が必ずみつかるでしょう。写真69を参照した上記の「東海道分間延絵図を歩く」のページにも、ちゃんと記載されていました。

 満足して家に帰り、ネットで「焼餅坂」で検索してみると、マンション建設にともなって坂の片側(写真69でいうと左側)がけずられたことなどが出ています。
 マンション建設以前の焼餅坂の様子は、「東海道分間延絵図を歩く」ほか横浜国道事務所の「東海道ルネッサンス」
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/14index.htm
などに写真がありました。


 地図については同じく「東海道ルネッサンス」に旧道のコース図があります。(この図では境木地蔵と品濃一里塚の間に焼餅坂があります)
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/01_aruku/0300.htm
また、「宿場マップ」というのを配布しているとのことです。http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/06_map/index.htm


旧東海道を歩くというのはとても人気のあるテーマですね。
ネット上に豊富に情報があります。
実際私も十分楽しめました。

最後にコースタイムを
相鉄線天王町駅 出発 10:40
焼餅坂     昼食休憩 12:30
JR戸塚駅   到着 14:35

<左:天王町駅前の帷子橋。右:品濃一里塚を過ぎて狭い道がつづく>

(2009.3.21 対比写真追加、文章手直し)
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大栗川右岸丘陵部散策1(和田古墳群めぐり)

2008年10月05日 | Weblog

<稲荷塚古墳付近 南西側から>


 大栗川右岸の丘陵部は寺社、古墳、農家の屋敷林、生け垣の小道、石仏などが点在していて、結構いい散策コースです。でも風景がどんどん変わりつつある場所でもあります。
 和田・百草遺跡群は、聖蹟桜ヶ丘駅から直線で約1.5kmくらいのところ、大栗川の右岸丘陵地にあります。大栗川がすぐ近くを流れていて、丘陵の傾斜も緩やかで、大昔の人にとっては住みやすい場所だったのだろうと思います。

 これまでに行われている遺跡調査は開発に伴って行われたものが大半のようです。現地に行って目でみて分かる遺跡は、古墳数基しかなさそうです。特に現地に案内版が設置されているのは「稲荷塚古墳」と「庚申塚古墳」だけでした。

 遺跡の位置は一般の地図にはのっていないと思いますので、文末に遺跡のポイントを落としたものをつけておきます。1/25000地形図なので少々小さいです。ネット上では、東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスhttp://www.syougai.metro.tokyo.jp/iseki0/iseki/index.htm
で1/10000の地図が見られます。
 もうすこし大縮尺の地図は、『多摩市埋蔵文化財調査報告書』「和田・百草遺跡群」関係の分冊(例えば『多摩市埋蔵文化財調査報告書43 東京都多摩市 和田・百草遺跡群、塚原古墳群』)の調査箇所図が1/4500です。これらの報告書は多摩市の図書館にあります。図書館は聖蹟桜ヶ丘駅、永山駅のすぐ近くにもあるので、散策前に寄っていくのも一計かと思います(開館は朝10時から)。


●塚原(つかっぱら)古墳群●

<左:西側から 右:南側から>

 場所は多摩第二小学校の南側あたり。送電線の鉄塔のたっているあたり一帯です。
 『多摩市埋蔵文化財調査報告書43 東京都多摩市 和田・百草遺跡群、塚原古墳群』(多摩市遺跡調査会 1998)の第4図(p.9)をみると、現在までに確認されている古墳は10基、そのうち現存のものは2基になっています。ただし、上記の東京都遺跡地図(2007年3月刊行版)では、現存5基(リストは9号墳まで)になっています。なにをもって「現存」というのかわかりませんが、墳丘の残っているものだけでなく、発掘調査後主体部を埋め戻したものも含めて指しているのかもしれません。
 『多摩市埋蔵文化財調査報告書16 東京都多摩市 塚原古墳群―5号墳の調査(昭和62年度)―』(多摩市教育委員会 1988)には、昭和62年(1987年)の「8月27日、玄室内から大刀3本が発見された・・・9月5日に多摩市役所で新聞発表が行われ、テレビの取材も受けた。翌6日の日曜日には現地説明会を実施したが、これらの報道も手伝って300名以上の見学者が訪れ盛況であった。」とあります。21年前の話ですが、私はまったく覚えていません。
 ビデオ『稲荷塚古墳 ―八角形墳の謎に迫る―』に発掘調査時の映像があります。
 現地にいって墳丘がわかったのは個人のお宅の中にある1号墳だけでした。
 
<1号墳。建物右側の緑の墳丘がわかりますでしょうか>


●庚申塚古墳●
 
庚申塚古墳については「多摩市史」にも、現地の案内説明にもあまり詳しい記述がありません。
「現在まで残っている=開発を免れてきた=発掘調査されていない=詳しいことはわからない」ということでしょうか。

<横から>


●稲荷塚古墳●
  
 『多摩市史』によると「この古墳の築造年代は七世紀前半と推定されており、東京都内の七世紀古墳としては最大級のものである」(p.365)。とあります。
 石室は平成10年ころに埋め戻し保存されました。
 ビデオ『稲荷塚古墳 ―八角形墳の謎に迫る―』があります。
 
<東側から。中央の送電線鉄塔奥の木立のあたりが古墳>


●臼井塚古墳●
『多摩市史』によると「稲荷塚古墳の西方約50メートル、臼井千秋氏の宅地内には臼井塚古墳があるが、墳丘は残っておらず、横穴式石室の下部が地下に眠っている。」(p.365)。
 したがって外からはなにもわかりません。

<臼井塚古墳周辺。右の木立の奥に恋路稲荷神社社殿の屋根が小さく赤く見えている>

 
この他、大栗川対岸の「万蔵院台古墳群」「中和田横穴墓群」も和田古墳群に含まれますが、いずれ取り上げたいと思います。



                   ◇◇◇ 地  図 ◇◇◇
          
   <1塚原古墳群 2庚申塚古墳 3稲荷塚古墳 4臼井塚古墳 (5地蔵堂)> 
             国土地理院1:25,000地形図 武蔵府中 
             杉本智彦『カシミール3D』実業之日本社 使用

5地蔵堂は古墳ではありません。ついでにここでとりあげようとおもったのですが長くなったので大栗川右岸丘陵部散策2として次の機会に回します。
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