失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

国分寺市 恋ヶ窪

2007年03月18日 | 江戸名所図会
江戸名所図会に「恋が窪」という絵があります。

ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.372-373

今回もこの絵に近い視点を探してみました。


<中央線の南側にある某住宅建物の7階から。中央付近に国分寺市清掃センターの煙突。左端に西国分寺駅のホーム。>


細部を拡大して見てみます。

●熊野神社
  
<中央やや左に熊野神社の社殿があるはずなのですが。中段の樹林は恋ヶ窪用水(空掘り)の東側>
 
<右:熊野神社の西側より撮影。都市計画道路建設の整地が進んでいる>

●阿弥陀堂
  
 阿弥陀堂は現在ありませんが、「阿弥陀堂霊園」という墓地として名前を留めています。
「江戸名所図会」本文に「(延享四年[一七四七]、鶴心という僧、この草庵の廃れたるを興す)」(『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.370)とあります。写真の石仏の台座には「延享四 丁卯 年 雲相鶴心行者 十月十五」と刻まれています。

●東福寺
  
<右:横長の屋根のあたりが東福寺の建物(のはず)>

●恋ヶ窪用水
 私は、見落としていましたが、川田壽『近郊散策 江戸名所図会を歩く』東京堂出版をみると、「道沿いの流れは、明暦三年(一六五七)に開かれた恋ヶ窪用水である。」(p141)とあります。
 現地の案内板によると、昭和三十年代頃まで用水として使われていたとのことです。

<熊野神社の北側に恋ヶ窪用水(現在は水が流れていません)が残っています。>
 
 
<左:橋が描かれているので、確かに水路である。右:一部復活した恋ヶ窪用水>

 この復活用水の散策路をたどってゆくと「姿見の池」に出ます。現地案内板には、「姿見の池は、昭和四十年代に埋め立てられましたが、平成十年度、環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業補助費を受け、昔の池をイメージして整備しました。」とあります。

<姿見の池>

 同じ現地の案内板によると、図会の挿絵には、「姿見の池」らしきものが描かれているとのことなのですが、私には、どう見ても池のようなものが描かれているとは思えませんでした。

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立川市 普済寺

2007年03月17日 | 江戸名所図会
 江戸名所図会に「芝崎普済寺(しばさきふさいじ)」という絵があります。

ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.436-437

 この絵も例によって、鳥瞰図的に描かれており、このように見える地点は、付近にありません。当時だったら火の見櫓のような高い場所にでも登らないと不可能のように思えるのですが、長谷川雪旦は、頭の中に眺望図作成ソフトのようなものをもっていたのでしょうか。(毎回思うのですが)
 それはともかく、現在のまちから、富士山と普済寺の位置関係がそれらしく見える場所探しをしてみました。

 一つ目は、立川南駅前の某商業ビルの屋内階段(一般の立ち入り可)からのものです。富士山が見える日を待ちました。すこし雲がかかっているのが残念です。ガラス窓越しです。



<中央の赤白の塔の下、送電線鉄塔の下に、普済寺の本堂の屋根が写っています>

 次は、多摩モノレールの車窓から。これもガラス窓越しです。この日は、富士山が隠れてます。撮影地点は、京王ストアの看板が写っているので、奥多摩街道付近です。赤い楕円で囲ったところが普済寺です。


 こう比べてみると、図会の富士山の左の山は「大室山」ということになります。今ひとつ写実的でないように思いますが、どうでしょうか。
 この絵も遠景を含めて全体を描いた絵に、別角度から描いた普済寺を組み合わせたもののように思えます。


 普済寺は、現地案内板(東京都教育委員会)によると、立川氏の居城跡に建てられたとのことで、そうしてみると「立川」の地名ともゆかりの深い場所です。

<写真左:普済寺の正面;写真右:本堂>

 図会には、もう一枚絵があります。六面石幢。

ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.440-441

 これは、現在、境内の保護用建屋の中にあります。

<右の写真は、図会の一番左に描かれている広目天>

<建屋の南は立川崖線で、下に残堀川が流れている>

 普済寺ちかくの立川崖線周辺には美しい風景が見られます。

<写真左:崖線下;写真右:崖線上、普済寺の北側。奥多摩街道の南側の屋敷林>

<写真左:崖線の坂道;写真右:この先、普済寺の裏門?に出ます。>

<冬枯れのけやきの枝が青空を背景に映える>

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国分尼寺

2007年03月11日 | 残ってほしい風景
 武蔵国分寺の項で、尼寺地区は公園として整備されていると書きましたので、今回は国分尼寺跡と、その北側の旧鎌倉街道と中世の寺院の遺跡について取り上げてみます。

 はじめに、歴史公園としてどのように整備されているかの現状(2007年3月)です。

<金堂基壇 土盛があって、その手前の柱は、「幢竿」>
(幢竿跡:現地説明板によると「のぼり旗を吊るした高竿の跡と考えられる掘建て様式の柱穴。」とあります。)


<金堂基壇断面標本表示:上の写真の土盛の反対側に設置されている>

 北面塀は、柱跡に木柱が立てられ間が生垣になっています。板塀は、現地説明板によると、土塀から板塀か不明であるが参考として説明板を兼ねて板塀をここに表示した、とのことです。奈良の平城京跡の整備で、ところどころこうした手法(一部復元し、柱跡には木柱をたて、間に植栽を施す)がとられました。 

<尼坊跡(礎石の部分)と北面塀>

 現地の説明版はポイントごとに配置されていてありがたいのですが、文字部分が剥落して、さびが出ていたり、ひびが入っていたりするものもありました。せっかく整備しているのですから、このような部分の保守にも気を配って欲しい(劣化しにくい材料で作り変えるなど)と思います。
(追記:説明板の文字・図の部分は、詳しい材質はわかりませんが、プラスチック製のようで、文字の剥落部分はさびではありませんでした。通常では部分的に剥落するとは思えませんので、いたずらなどで石などをぶつけられて、破損し欠け落ちたのかもしれません。)


 続いて、尼寺跡の北側(国分寺崖線上)の旧鎌倉街道と、中世寺院跡です。

 
<旧鎌倉街道(北方向を撮影)> <崖線を登り雑木林の中から尼寺の方向(南方向)を振り返る>
 
旧鎌倉街道の切通しの東側に塚があります。古墳のように見えましたが、中世の寺院の修法基壇とのこと。現地案内板には「中世(14・15世紀)において種々の祈願の成就を得るために作法に則り本尊に対し祈祷するために築かれた修法壇跡で、伝祥応寺との関係を有するものと推考される。(国分寺市教育委員会)」とありました。伝祥応寺跡は、切通しの反対側(西側)にあり、雑木林に囲まれた中に礎石がいくつか残っています。
  
<写真左:塚(画面の奥で、鎌倉街道の左側の高くなっている場所に、さらに盛り上がって、藪に覆われている部分)。崖線上から南方向を写したもの。画面左端のフェンスの向こうには武蔵野線の線路が通っている。;写真右:祥応寺の跡、階段の上の平らな部分。塚の側から鎌倉街道をはさんで反対側を写した。>
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武蔵国分寺

2007年03月04日 | 江戸名所図会
昔の写真についての情報を追記しました。(3/6)

江戸名所図会 巻之三 天璣之部に「国分寺」および「国分寺伽藍旧跡」という絵があります。

ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.360-361

左の絵の、下の階段を登ったところにあるのが「仁王門」です。現地の案内板(国分寺市教育委員会)によると「宝暦年間(1751-1763)に建立された入母屋造の八脚門」とあります。



<仁王門を南から>
(『アルバム国分寺』国分寺市発行 平成6年 p.150に「中門跡/昭和40年ごろ 西元町三丁目」という写真がある。この写真のよりもっと南から撮ったもののようであるが、撮影方向はだいたい同じと思われる。)

そこから階段を2つ上がって、右の絵の一番上に描かれているお堂が「薬師堂」です。これも現地案内板によれば、「建武二年(1335)に新田義貞の寄進により国分僧寺の金堂跡付近に建立されたと伝えられているもので、その後、享保元年(1716)に修復されましたが、宝暦年間(1751-1763)に現在地で再建されたものです。」とあります。
 
(同じく『アルバム国分寺』p.149に「薬師堂/大正10年ごろ 西元町一丁目」という写真がある。)

右の絵の右下に「弁天」と書かれていて、池と中島が描かれている部分がありますが、これが「真姿の池」のようです。実際の真姿の池はこの絵の位置よりも、もうすこし本堂から距離があるように思います。絵の中の「たなびく雲(霞)」は、あるいは距離を縮めて書いているという記号なのかもしれません。
 



<お鷹の道>

<お鷹の道>

絵に描かれている各部分は、現地で大体確認できましたが、この絵が描かれた(と想定される)方向からは、現在は、地上から全体を見通せるポイントがありませんでした(住宅や樹木で視界が遮られるため)。すこし離れた場所にある高層住宅の上層階から望遠で撮ればあるいは近い雰囲気の絵になるかなと思う場所がありましたが、勝手に立ち入るわけにもいかないので今回は断念です。



ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.362-363

鳥よけの鳴子のようなものが吊ってあり、右側の絵の女性二人と、左の絵の奥の人物は稲刈りをしているようです。



(金堂跡付近の写真は『アルバム国分寺』p.147-149に昭和33年ごろのものと昭和36年のものが、『写真集 目でみる多摩の一世紀』多摩百年史研究会編 けやき出版 平成5年pp.26-27に昭和38年2月のものが載っています。)

この絵には大きな礎石が一つ描かれていますが、現地にある礎石のうちで、もっともそれらしそうなものを写してみました。

(同じく『アルバム国分寺』p.148に「礎石/大正10年ごろ 西元町二丁目」という写真がある。上の写真とは違う場所であるが、礎石の間には作物(麦?)が整然と植えられている。)

このあたり、歴史公園として整備する計画があるそうです。どんな風な整備が行われるのかは、ここの西にある「国分尼寺」の整備状況を見ればだいたいの想像ができそうです。ともあれ、この周辺は、国分寺崖線沿いの緑を背景にして、平地部にも、まだいくらか畑や樹林なども残っています。平地でまとまったスペースが残っているところは、多摩地区では本当に貴重ですので、公園化には期待しています。

<西側から>
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