失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

武蔵野考(ふじみの市大井武蔵野) その2

2007年05月28日 | 武蔵野

<亀久保の歩道橋から、川越街道(南東方向)を。右が旧道>


ふじみの市の「武蔵野」周辺についての補足です。

●武蔵野圖
まずはじめに、『新編 武蔵風土記稿』の「武蔵野圖」ですが、ふじみの市のページに小さい図が載っていましたので、紹介しておきます。http://www.city.fujimino.saitama.jp/profile/introduction/history/10.html
この図は、ふじみの市の「大井郷土資料館」(大井中央2-19-5)の常設展示でもパネル展示されており、また事務所入り口脇には拡大複製したものが掲げられていました。
さらに、販売されている図書「図説大井の歴史」のカバーもこの図です。
これらをみると、富士山の下に「下富村」、右に「下赤坂村」、下に「亀窪村」、左に「上富邑」「木宮地蔵堂」と書かれており、萱場の周囲には松が植えられています。
 現代の地図上にこれらの位置を印してみました。

杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)からコピーし加工。

 この地図の説明です。
1.亀窪村の位置を川越街道の亀窪歩道橋付近とし赤丸で囲み、富士山の頂上付近と結んだ線を青で引きました。
2.「木宮地蔵堂」の位置は赤の楕円で囲みました。
3.「下赤坂」「上富」「下富」「亀窪」「武蔵野」の地名を赤四角で囲いました。
4.東西15町、南北八町を黄緑の四角で示しました。位置は、「武蔵野」の地名になるべくかかるようにしました。ここが絵の武蔵野の範囲というわけではありません。1町=109mとしています。
5.明治期の地図を見た記憶を基に、「下赤坂」と「下富(十四軒)」の集落を赤の直線で引いて見ました。


●武蔵野原之全図
 三芳町立歴史民俗資料館・三芳町教育委員会編集のパンフレット「三富新田の開拓」(同資料館で無料で配布されている)をみると、文化15年「川越松山巡覧図誌」所収の「武蔵野原之全図」というのが載っています。こちらは上富あたりから日光や秩父の方向を描いています。

 
<三芳町立歴史民俗資料館 ちょうど良いタイミングで企画展 「地図にみる明治の三芳」(7月15日まで)をやっていた。>
三芳町立歴史民俗資料館http://www.jade.dti.ne.jp/~miyoshir/

●くぬぎ山
 前回の写真の背景に写っているのは、ダイオキシンで話題になった「くぬぎ山」だった。(このあたりだったとは知らなかった)
 「くぬぎ山」について私はほとんど知らないので、検索結果から、いくつかのサイトを紹介してみます。

1.埼玉西部・土と水と空気を守る会 (さいたま西部・ダイオキシン公害調停をすすめる会) 所沢ダイオキシン報告
http://www3.airnet.ne.jp/dioxin/index.html

2.埼玉県 くぬぎ山自然再生事業
くぬぎ山地区の概要
http://www.pref.saitama.lg.jp/A09/BD00/kunugiyama/chikugaiyou.html
くぬぎ山地区の歴史
http://www.pref.saitama.lg.jp/A09/BD00/kunugiyama/kyougikai/zentaikousou/z1-2.pdf

3.おおたかの森トラスト News くぬぎ山関連
http://www2.tba.t-com.ne.jp/ootakanomori/kunugi.htm

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武蔵野の俤は今纔に入間郡に残れり

2007年05月26日 | 武蔵野

<大井武蔵野、下赤坂、上富の境界あたり。撮影地点は下赤坂>

「「武蔵野の俤(おもかげ)は今纔(わずか)に入間(いるま)郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。」
と国木田独歩の『武蔵野』ははじまります。
 この文政年間の地図がどんなものなのか、ネットで「文政年間に出来た地図」で検索してみると、
「文学の中の武蔵野の面影」(http://www.h7.dion.ne.jp/~musashi/musashino.html)というサイトに記述がありましたので引用させてもらいます。

(引用開始)
独歩が見たという「文政年間に出来た地図」は現存する。
この地図は、「「武蔵野 平凡」 明治の古典7」( 篠田一士編、学研、1982年)などに掲載されていますので、興味のある方はごらん下さい。
(引用おわり)

 これにしたがって「「武蔵野 平凡」 明治の古典7」( 篠田一士編、学研、1982年)を見てみると、

「武蔵野」冒頭にでてくる文政年間発行の地図「東都図」(部分)。文政八年乙酉上梓、同十三年庚寅改正とある。(国立国会図書館蔵)

という解説文のついた地図がカラーで載っており、独歩が引用した文も読むことができます。
(ただし「文学の中の武蔵野の面影」に指摘があるとおり、地図の書き込みの文言は「武蔵野の跡は今纔に入間郡に残れり」です。)

 ここで言われている、「わずかに残っている武蔵野の風景」は、「更科日記」や、「新古今集」の歌などに描写されている、広漠とした萱原の風景のことです。
地図の書き込みにも、「玉川上水ができて、田畑の開発が行われ、あるいは雑木林に変わってしまい、今は入間郡にわずかに昔をしのぶことができる場所が残っている」といった意味のことが書かれていますし、独歩も、「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以って絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。」と書いています。

 入間郡といっただけでは結構範囲は広いのですが、堀兼の井からさほど遠くないところに現在も「武蔵野」という地名が残っていて(現「ふじみの市大井武蔵野」)、『新編武蔵風土記稿』を見ると、文政年間の地図が言う「武蔵野」はあるいはここのことを言っているのかもしれないと思える記述があります。

(引用開始)
武蔵野   村(引用者注:亀窪村)の西南につづきたる地なり、其の野の廣さは大様東西の徑り十五町、南北八町許にして、南の方上富村に限り、北は當村(引用者注:亀窪村)及び下赤坂村にさかひ、東も當村にて、西は下富村に及べり、此地は當村の百姓正左衛門が家にて預かり申し野銭といへるものも納め、又河越城へ年ごとに薪萱料をも納むといへり、・・・此頃より残りし武蔵野の限りは、その四邊へ松の並木を植て境とせしとて今もしかなり、されど古に比すれば百分の一とも云うべけれど、かかる名高き所のわずかにも存して、今見ることをうるは當國にとりては美事とも云うべければ、そのさまを圖してここにのせぬ

蘆田伊人校訂・根本誠二補訂『新編 武蔵風土記稿 第八巻』雄山閣 p.267
(引用おわり)


 上の引用文と同じページに「武蔵野圖」という挿絵がついています。絵の中心部に、民家や畑・林に取り囲まれて萱原が、描かれ、奥に富士山(右の方に武甲山?)が描かれています。これは是非とも、オリジナルの図を見てみたいものです。
現在、ここの「武蔵野」には、萱原の風景はもうありませんが、雑木林と畑の風景はまだ残っています。秋に富士山を撮りにまた来てみたいです。


<丹沢から奥多摩あたりの山が見える>
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多摩川清掃

2007年05月23日 | 雑記

 5月20日の日曜日の午前、府中市の「多摩川清掃」に行ってみました。
この催し、(確か)年に1回行われていますが、この日は天気がよいこともあってか、結構たくさんの人が参加していました。それでかどうか、私が行った時には、目につくような大きなゴミはほとんど落ちていませんでした。
おかしなもので、さあゴミを拾うぞというときに、ゴミが落ちていないと物足りない気になります。実際に、もらったゴミ袋の容量の5分の1も拾えなかったので、ゴミ袋自体がゴミを増やしてしまわなかったか、なんだか申し訳ない気分でした。
もう一点、大勢がいっせいに歩くので、川原の生き物(特に鳥)は大丈夫かな、などとちょっとだけ気になりました。(杞憂であることを祈りますが)

 午後に埼玉県某所を自転車で走りますと、道路脇の林の中に、たくさんのゴミがすててあるのが目に入り、午前の「ものたりなさ」が「がっかり」感に変わり、複雑な気分になりました。



<青空がきれいだったのでもう一枚。京王線 中河原-聖蹟桜ヶ丘間の多摩川にかかる鉄橋の上流側より、百草、高幡の丘陵をのぞむ>

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堀兼の井

2007年05月19日 | 古井戸

                 <堀兼神社(浅間神社)>

 「枕草子」に「井は ほりかねの井」(百六十一段)とあると聞いて、どうしても行ってみたくなった場所ですが、当「失なわれゆく風景」としましては、このあたり周辺(堀兼、上富、中富、下富、上赤坂、下赤坂あたり)、よくこの風景が残ったものだと、やはり驚きます。まだ広い農地と雑木林の風景が広がっていて写真におさめきれない感じです。

ここは武蔵野探訪者にとって昔から有名な場所で、江戸時代の地誌の記述が簡潔で要を得ている(「必要にして十分」と言いたいところですが、あと私としては、このあたりの地質学的な解説がほしいところです。後日ネット上で探してみます。)ので引用してみます。



●『江戸名所図会』 天保五・七年(1834・36)

市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房pp.368-369

<「図会」「武蔵野話」の挿絵と同じ方向から>

 左側の絵の下の方にある井戸の部分をとりだしてみます。

市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房pp.368-369



(引用開始)  漢字のあとの( )はふりがな、[ ]内は校訂者注

堀兼の井 河越(かわごえ)の南二里余りを隔てて堀兼村(ほりかねむら)にあり。浅間(せんげん)の宮(みや)の傍らにあるゆゑに、これを浅間堀兼と号せり(この社前は古(いにし)への鎌倉街道にして、上州・信州への往還の行路なり。いまの宮は慶安[1648-52]中、松平豆州(まつだいらずしゅう)候[松平信綱、1596-1662。老中]建立なしたまへり。別当を慈雲庵(じうんあん)と号す。河越高林院(こうりんいん)の持ちなり)。浅間の祠(やしろ)の左に凹(くぼ)かなる地ありて、中に方六尺ばかりに石をもって井桁(いげた)とし、半ば土中に埋(うず)もれたるものあるを、堀兼の井と称せり。傍らに往古(そのかみ)川越秋元(あきもと)候の家士岩田某(いわたそれがし)建つるところの碑あり。高さ五尺余。その文、左のごとし。

この凹形の地、いはゆる堀兼の井の蹟なり。久しうしてつひにそのところを失はんことを恐れ、よって石の井欄を拗中(おうちゅう)に置き、碑を削りてその傍らに建て、併せてもって後監に備ふ。
 里語、掘って水を得難し。ゆゑにしかいふ。兼難に通ず。いまだ知らず、ただ俗に従ふのみ。
 宝永戊子年[1708]三月朔

(引用終り) 市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房 p.366から


 名所図会の挿絵では、神社の前の道が大きく曲がった先、中遠景の山の下あたり(左側の絵の上の方)に、四角囲みで「はけ下堀兼」と書かれています。神社前の道は、まっすぐなので、この描画は見開き一枚に全体を収めるための方便だと思いますが、それはともかく、この「はけ」の部分現在でも神社より高くなっています。

<「はけ下堀兼」の方向。パノラマ合成>

<同上写真の中央部付近>



●『武蔵野話』  文化十二年(1815年)
(引用開始)

堀兼の井は堀兼村に在(あり)。其地の鎮守浅間の祠ありて側に埋井(うもれゐ)あり、是を堀兼の井といふ。側に石碑あり。さはあれど往古(いにしへ)の井は今浅間の祠の在所にして井を埋め鎮守と崇(まつり)、其井を埋る為に土を穿(ほり)出せし跡を今堀兼井といふよし、土人(ところのもの)の話なり。祠の前の街道は信濃上野より鎌倉往返の行路にして、是を古の鎌倉道といふ。元和十三年春の比(ころ)、光廣卿の記行に「廿三日は山の端しらぬむさし野にわけいらせ給(たまひ)、草より出る月のみかはあかねさす日もおなじ萱生(かやを)より影のどかに霞(かすみ)てもるる春の詠(ながめ)えもいはず 中略 堀かねの井は右に見てとをる、決定知近水(ちきんすい)心にうかぶべし、けふは仙波大堂にとどまらせ給て 下略」と。かくあれば此地(ところ)なる事うたがひなし。

(引用終り)斉藤鶴磯『武蔵野話』有峰書店 p.56から


 挿絵は、例によって龍谷大学図書館の貴重書データベースのものを紹介しておきます。http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/cont_02/pages_02/0206L/02060019.html



●『新編 武蔵風土記稿』 天保元年(1830年)
(引用開始)

堀兼井跡  村の東南浅間塚の邊にあり、圓径四間深さ一丈許の穴なり、近き頃其中に石を以五尺四方の井筒を組、側に寶永五年秋元但馬守喬知が、家人岩田彦助なるものに命じて立たる碑あり、其文もあれど考へと成べきものにあらざれば、略して載せず、按に此井の名は古くは【枕草紙】に井は堀かねの井と見えたり、されど何れの國なることは載せず、ただ【千載集】に藤原俊成卿の歌をのせて、武蔵野の堀かねの井もあるものをうれしや水の近づきにけり、とあるのをみれば當國にて名だたる物なることしらる、かく俊成卿の詠に入しより、後は全く當國の名所と定りて、世々の歌人も其詠多くして徧く人の知る所なれど、其舊跡は詳ならず、今傳ふるは當郡は元よりなり、他の郡にも堀兼の井跡と称する井餘たありて、何れを實跡とも定めがたし、・・・

(引用終り)蘆田伊人校訂・根本誠二補訂『新編 武蔵風土記稿 第八巻』雄山閣 p.263から



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恋ヶ窪 その3

2007年05月13日 | 残ってほしい風景
 
 <恋ヶ窪樹林地 左2月17日 右4月22日撮影。角度がけっこう違いますがご勘弁を>
 
 恋ヶ窪については、「江戸名所図会」だけでなく「武蔵野話」(斎藤鶴磯著)にも挿絵があります。書籍としては、有峰書店版「武蔵野話」がありますが、この絵をネット上でも公開しているサイトがありますので、そちらのものを参照させていただきます。

 オリジナルの「武蔵野話」をそのまま画像にしたものとして龍谷大学図書館のものがあります。この中の「恋ヶ窪村」の絵の部分がこれ(http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/cont_02/pages_02/0206L/02060059.html)です

 また、安藤勇氏の「WEBギャラリー 江戸時代の隠れた名作たち」は、オリジナルを加工してあると断ってありますが、大変きれいでみやすいです。「WEBギャラリー 江戸時代の隠れた名作たち」の「武蔵名勝図会」 「国分寺 立川 昭島」に進むと見られます。http://homepage2.nifty.com/tisiruinoe/musasimeisyouzuekokubunji.html
この挿絵は鈴木南嶺作となっています。

 江戸名所図会のものと比べると、視点が地上に近いこともあるのでしょうが、特に地形描写が「武蔵野話」の方が写実的であるように思います。(私としては、江戸名所図会「恋ヶ窪」の丘陵の描き方にはかなり不満があります。)
 他に、江戸名所図会の挿絵にない特徴として文字で、絵に方角がかかれていることです。
 挿絵中の四角で囲った文字は、北と書かれている側から「八マン」「クメカハ トコロ沢 道」「シンゴン ブヤ山 東フクジ」(雄山閣『新編武蔵風土記稿』第四巻p358をみると「武野山と号す」となっていますので「ブヤ」と読んでいるのでしょう。)「フチウミチ」「アミダサカ」のようです。
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