失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

日野市 黒川清流公園

2006年12月31日 | 流末探訪
穏やかな天気が続き、年末で交通量も少ないため、街中はずいぶん静かな感じがします。
さて、12月29日にとりあげた、梵天山につづいて、日野台地の南東部にある黒川清流公園をとりあげてみます。といっても、黒川清流公園自体の紹介ではなく、ここの湧水はどこに消えてしまうのかという、ふと抱いた疑問への自答です。

中央線豊田駅北口から東北方向に向かうと、すぐ下りになって、そこから清水谷公園をはじめとして、段丘の下に多くの湧水が見られます。湧水は次第に集まって水量を増してゆき、段丘斜面の雑木林とともに、清流公園の名前に相応しい景観をつくっています。(地図の地点1)
 

この黒川清流公園は、東端で中央線に遮られて終わっており(地点2)、豊富な湧水は、排水口に吸い込まれて行きます。
 

中央線を越えて、東側に回っても、地上に水路は見当たりません(地点3)。


段丘沿いにしばらく行き、道路の下をくぐると、12月29日にとりあげた、神明第10緑地の横に出ます。


さらに東に進むと、日野市役所前から下ってくる道にぶつかります。ここで、黒川の水は、ふたたび地上に姿を現しました(地点4)。
  
<左の写真の電柱の後ろに水路があらわれる>

黒川清流公園の湧水は、どこへ行くのかの答えは、これで解決なのですが、この先、どこまで流れて行くのか、たどってみることにしました。
地上に出た水路は、これも12月29日にとりあげた、川辺堀之内に下ってゆく谷(新道が北側をかすめて通る)の南縁を流れていきます。

日野台地を下りきった流れは、南に向きを変えて、農業用水に合流します(地点5)。


しばらく、東進したのち、北野天神の辺りで南に向いて、再び農業用水に合流します(地点6)。


川崎街道を越えると、南北に、東西に屈曲しながら流れ、宮の「別府社」の南の交差点あたりで、一端暗渠になりますが、ここから東に100mくらい行くと、再び現れます。(地点7:万願寺3-20)。ちなみにこのあたり地名の飛び地が多く複雑です。ここから先は、農業用水としての役割を終えてしまったのでしょうか、車道脇の、そっけないコンクリート水路が続きます。


<道路右側の青色のガードフェンスにはさまれたところが水路>

モノレールの万願寺駅の北西を流れて、数百m行くと、根川橋で、根川に合流します。(地点8)


根川は、日野クリーンセンターの北側を流れて(地点9)、多摩川に合流します。




地図 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)よりコピーした。
国土地理院 2万5千分の1地形図「武蔵府中」「立川」の一部(縮小)
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日野市 神明 梵天山

2006年12月29日 | 雑記
すこし遅い報告になりますが、12月3日に、「日野の自然を守る会」の『梵天山の下草刈り』という行事に参加しました。梵天山は、日野市の神明第10緑地周辺(地図の地点1)の昔の地名だそうです。当日の作業は、増えすぎたヤマブキの刈り込みを中心とする下草刈と、常緑樹の伐採でした。

<下草刈前と後:作業エリアは写真の右半分>

ここは、クヌギ・コナラなどの林として存続させるため、常緑樹の一部は伐採するとのことでした。私もアラカシの木をノコギリで切り倒しました。ここの常緑樹は、緑地を整備したときに植栽したものとのことで、切り株の年輪を数えてみると、20数本まで数えられました。

<アラカシの切り株>

帰りに、川辺堀之内に下りる道をゆくと、道路建設が始まっていました。(地図の地点2あたり、下の写真は、地点2よりさらに東)

<上写真:道路は谷の小道の北側をかすめて通ります。下写真:地図よりさらに東の万願寺方面から伸びてきた道路が日野台地に上ります>

写真はすべて2006年12月3日撮影です。


地図 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)よりコピーした。
国土地理院 2万5千分の1地形図「武蔵府中」の一部

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府中市 分倍河原

2006年12月22日 | 江戸名所図会
江戸名所図会巻之三に分倍河原 陣街道という絵があります。


ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房p.415

この絵には中央付近に「天王森」、右に「首塚」、左に「胴塚」、下の方に「小之宮村」と文字が入れてあります。
私ははじめ、この絵は府中崖線の上から南に向いて、多摩丘陵の方向を描いたのだろうと思っていました。
この絵がどのあたりを描いたものかは、すでに知られていますが、私もここで順番に説明していきましょう。

まず陣街道ですが、京王線の中河原駅の下あたりから、都道の大通りと分かれて「旧鎌倉街道」を北上し、中央道の下を通過すると、府中崖線にぶつかります。崖を登ってさらに北上し、南武線の踏切を越えると、左に神社があり、ここが八雲神社です。このあたりに、府中市が設置した街道の案内板があり、ここが陣街道と言われていたことがわかります。

<陣街道 北方向>


<八雲神社>

八雲神社の脇には、道路に面して元応の板碑が残っています。名所図会でも、「天王森」の文字の下に、板碑が描かれています。ちなみにこの板碑についてはネット上でも多くの方が取り上げていますが、現地の説明板の内容の一部をここにも載せておきます。
「元応元年(1319年)十一月八日に「大蔵近之」なる人物が亡き父親の「道仏」の十七年忌の供養のために建てたもの、と解釈されています。平成4年3月 府中市教育委員会」


<元応の板碑>

「天王」の森が、なぜ今は八雲神社といわれているのか、はじめは分らなかったのですが、『府中市史資料集第十四集 府中市の寺社史料及び府中市史講演集』のp.39に、「八雲神社 分梅町一丁目(分梅) 祭神牛頭天王(ごずてんのう)(すさのうの尊)。・・・境内には樹林が多く、社殿の裏には古墳と考えられる小丘がある。」とあり、牛頭天王の「天王」をさしていたことがやっとわかりました。
社殿の裏の塚は、天王塚と言われています。


<八雲神社社殿裏の塚(天王塚)>

府中崖線上(中腹)のこのあたりには、高倉古墳群といわれる古墳が多数あったそうですが、中でも、高倉塚といわれているものが規模が大きく、現在整備保存されています。

<整備された高倉塚>

首塚、胴塚の位置をさぐるため、この高倉塚に行き、現地の案内板を見てみると、
「府中崖線(ハケ)の斜面上に広がるこの周辺には、これまで確認されている古墳が25基あり、これらは高倉古墳群と呼ばれています。このうち墳丘が残っているものは4基あり、この高倉塚は古墳群の中心に位置しています。
・・・
これまでの発掘調査で、墳丘構築工法が判明し、墳丘下層から6世紀前半とされる土師器坏(はじきつき)が出土するなどの学術成果があり、高倉古墳群を研究するうえで貴重な資料となっています。
・・・
平成17年3月 府中市教育委員会」
と記され、地図がありました。

<高倉塚現地案内板地図 「発掘調査で確認した古墳」とは、要するに、住宅開発の際に調査して、その後つぶしてしまったもののことですね。>

現存の4つの塚の一つを、この高倉塚とし、2つ目を、先の八雲神社社殿裏の土盛り(天王塚)とすると、残り2つが、首塚、胴塚なのでしょうか、とにかく現存の場所を探さないことには話しにならないので、この現地案内地図を頼りに行ってみました。

3つ目の塚として、浅間神社前交差点を西に曲がったところに行ってみました。該当しそうな塚は、現在、日通の敷地内にあるもののようです。現地には何の案内板もありません。後日、府中市立中央図書館で調べてみると、『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』(府中市立郷土館紀要別冊、昭和60年)p.26に「耳塚 美好町3-26 3-45 「太平記」に首塚、胴塚、耳塚の名がみえる。戦の際に印に首では重いので耳をそぎ、その耳を埋めた塚だとも、一対になって道の両側にあるからともいう。明治時代に平にならしたが、現在でも地目は原野となっている。近くでは人頭骨やカメが出土したが、ここからは何も出土していない。地元では分倍河原合戦の戦没者に関係する塚だと思い、昭和57年に供養塔を建立した。」とあり、これが耳塚とよばれていたものの一つであることがわかりました。

<耳塚 まるで厄介者を檻に入れたようだ。というと言い過ぎか>

4つ目は、浅間神社交差点から北に2つ目の道を東に曲がったところです。地図のだいたいこの辺りには、塚らしいものはなく、小さな祠がありました。おそらくこれが現存する塚の4つ目なのでしょう。ここにも何の案内板もありません。これも『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』p.26によると、「首塚 美好町3-30 かつて一度発掘したことがあるが、何も出土しなかったという。塚の上の神社はもとの名主石阪家の屋敷神として祀られたものと思われる。稲荷は後に住んだ小川氏が勧請したものである。」とありました。

<首塚 こちらも脇に追いやられて肩身が狭い>

胴塚については、『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』にも記載がなく、すでに消滅していることになります。『府中市史上巻』p.68には、「分梅町1丁目に、かつて、もう一基の塚があった。南武線敷設工事の際に削りとられ、今は線路と化してしまったが、この塚から出たと伝えられる鉄製の刀五振は、反りのない直刀で、明らかに奈良時代以前のものであること、そして「平作り」であることからみて、古墳時代後期以後のものであることを物語っている。残念なことに、今では当時の出土状況を伝える文献も人もなく、詳しいことはわからない。」とあります。あるいはこれが胴塚だった可能性もありますが、分梅町1丁目を通るの南武線の線路の長さは500mくらいありますので、これ以上の詮索は残念ながらできません。

「小野の宮」という地名は現在の中央自動車道の南側付近を指したようです。

これで、名所図会の描画対象を一通り説明しました。

八雲神社は、北に向いた場合、道路(陣街道)の左手にありますし、首塚は、やはり北を向いた場合、道路より右側にあります。小野の宮は、天王森より南側なので、この絵は、現在の中央自動車道の南あたりから北を向いて描いた絵のような感じになります。ただ、天王森を、このように見下ろせる地形は、崖線の下には存在しないので、火の見櫓のような高いところからでも描かない限り、この絵は雪旦先生が、鳥瞰図を頭の中で、描いたもののように思えます。背景の山は、方角的な可能性としては、甲州街道沿いの屋敷林、国分寺崖線、狭山丘陵などの近景・中景か、あるいは日光などの遠景であることになります。山の描き方は、近中景のような感じです。現状では、このあたりは住宅が建てこんでいて、とても景観比較ができるような状況ではないですが、これから眺望には都合の良い季節になりましたので、一度多摩丘陵あたり、あるいはどこかのビルから、北向きの写真を撮ってみたいものです。

天王森あたりを写した写真が、写真集『むかしの府中』(府中市,昭和55年発行)に2葉載っています。一つは、天王森の抱き板碑(昭和10年前後)p.61、もう一つは、昭和32年の撮影で、畑の中を行く道から西に向いて写したものですp.101。
私の母親(分梅町生まれ育ち)が、「子どもの頃(昭和10年代)には、「おてんのうさま」から分倍河原の駅までずっと畑で、民家は一軒もなかった。」と言っていました。昭和30年以前まで、このあたり江戸名所図会の感じそのままだったのでしょう。

名所図会のこの絵と直接関係はありませんが、旧甲州街道沿いの写真を一枚。
このあたり以前は「屋敷分」と言われていただけあって、風格のある屋敷がみられます。

<旧甲州街道>

おしまいに、
写真集『むかしの府中』巻末の年表より
京王電気軌道開通(調布-府中)大正5年10月
玉南電気鉄道開通(府中-東八王子)大正14年3月
南武線開通(川崎-大丸)昭和2年11月
南武線全通(川崎-立川)昭和4年12月
中央高速自動車道調布-八王子間開通昭和42年12月
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横浜市 上飯田 柳明村

2006年12月17日 | 失われた風景
柳田國男の「水曜手帳」(『柳田國男全集3』ちくま文庫)に「柳明」という文章があります。一部抜粋してみます。

(引用開始)
「柳明という村だけは、一度諸君にも見せたい。こういう古くて美しくて、人に知られていない村も珍しいからである。いつの時代の宛て字か知らぬが、ヤナギミョウのミョウはもと開墾地の「名」であろうに、住民ももうその意味を忘れているのである。」p.11
「小田急江之島線の高座渋谷という駅から降りて、ほぼ東北に向って十四五町も行けばもうこの村である。」p.11
「何よりも珍しいのは村の形、境川の対岸の岡から眺めると、ほぼまっすぐに南北一列に、大きなゆったりとした屋敷ばかり並んでいるので、何か昔風の宿場を裏から見るような感じがする。村に入ってみるとこれがじつは表通りで、前をきれいな用水が流れ、家ごとに橋を架けている。流れに沿うて一筋の村路があるからである。私はこの路が中古の往還ではないかと思って、気をつけて歩いてみた。土地の人に教えられて知ったことは、村の南手にやや大ぶりな小山があって、それがこの辺一帯の風よけになっている。南風のひどい土地だから、風下へ風下へと分家をしたので、こうした一列の村ができたといっているが、一部分はほんとうのようである。」p.12
「別に羽太という一まきが五六戸あるが、それはすべて小山の裾を曲がってから向こうに固まっているという。」p.12
「石井という大百姓の拓いて住んだ村ということ」p.12
「村の民家は全部が西を向き、路を隔てた片側の田圃を見守っている。そうしてその向こうには境川の流れを前に控えて、城山という松の茂った岡があり、その周囲には幽かな土工の名残もあるという。」p.12
「柳明にはもと観音堂があって、大石寺という大きな寺があったと伝えられ、現在はそこが鎮守の御社になっている。」p.13

(引用終わり)
(引用者注:「ヤナギミョウ」と書かれていますが、地元の表示では「ヤナミョウ」です。)

柳田國男が、「一度諸君にも見せたい」「古くて美しい」「珍しい」と称えた「柳明村」は、今どうなっているのでしょう。当時の面影ははたして残っているのだろうか。

以下の写真は、すべて2006年12月16日撮影です。


地図でみると神奈中(神奈川中央交通)の上飯田車庫の横(地点1)を南に入っていくやや狭い道があります。

<<地図 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)よりコピーした。>>

この道に沿って、蓋こそされているものの用水が確かに通っています。

<<写真1 右側は、神奈中の敷地。ガードレールの左に用水路>>

さらに南に進むと、左から下ってくる道とぶつかります。これを登ると柳明神社(地点2)、松並の交差点にでます。


<<写真2 柳明神社の一角から、下り道を写したもの。>>


<<写真3,分岐点から柳明神社に向う道の脇にある道祖神。右端の道祖神には、「文政五年十二月」(1822年)と刻まれている。>>

  
<<写真4 柳明神社境内にある石碑
「奉再興山王大権現」には、「寛政十一己未年」(1799年)と刻まれている。
「當寺本尊十一面観世音」には「宝暦十庚辰霜月吉日」(1760年)と刻まれている。>>

(年号の西暦換算は、宝月圭吾監修『要説日本史年表』(山川出版)の年号一覧表から、年号の始まる西暦年に(刻まれている年数-1年)を足し算した)

柳明神社から下の道に戻って、さらに南に進みました。この路沿いには確かに石井姓が多く見られます。
現在、羽太郷土資料館が地点3あたりですので、「風除けの小山」は、小山というより、境川の河岸丘陵が西に張り出し北向き斜面ができる部分のことのようです。地図の等高線では分りにくいかもしれませんが、写真5でビニールハウスの先に見えている丘陵と木立の部分あたりを指しているのでしょう。

<<写真5 ここもガードレールの左が水路です。>>


<<写真6 北向きの写真を一枚>>

羽太郷土資料館の前を通り、新幹線の高架下をくぐると、本興寺の下に出ました。境川左岸の丘陵はまだまだ続きますが、本興寺で引き返し、境川の対岸からの眺めを見てみることにしました。
最初に、大和南高校の前に登り、とりあえず対岸を撮ってみましたが、住宅にさえぎられて眺望はよくありません。大和南高校の屋上に登ればさぞかし良い眺めでしょうが、突然訪問して写真を撮らせてくださいと学校にかけ合う気力はありませんでした。学校の前の道を北に進むと、某会社の資材置き場(地点4)があり、ここからかろうじて眺望写真が撮れました。

<<パノラマ 写真のだいたい右半分に、今回歩いた道の背後の丘陵が写っている。画面中央よりやや左下、オレンジ色の柵に接するように見えている白い建物が神奈中の車庫付近。>>

「何か昔風の宿場を裏から見るような感じがする。」とはほど遠い印象です。
資材置き場付近には、「監視カメラ作動中」との表示があり、本日不審者1名と記録されたかもしれません。(これは冗談。立ち入り禁止の中には立ち入ってませんので。)

以下、地元の方がどう地域を考えているのかは、まったく調べずに、一見者の勝手な感想を書いてみます。
水路は蓋をされ、水田には、資材置き場や、ビニールハウスが出来て、対岸には団地が出来、新しい住宅も集落の中に出来つつあります。とは言え、ここは、寺家のふるさと村のような、あるいは営農+野外博物館的なありかただって可能なくらい、やはりユニークな場所に思えました。徐々に普通の住宅地に変わってしまうのは残念な風景だなと思いました。
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2006年12月7日の内容を修正しました

2006年12月16日 | 説明
2006年12月7日稲城市京王よみうりランド駅周辺の内容に手を加えました。
よみうりランドのゴンドラからの写真で、妙覚寺、国安の宮、威光寺の位置関係がわかりやすいものがありましたので、差し替えました。
中遠景の候補にあげた奥多摩・秩父については、判断保留にしました。
妙覚寺鐘楼のある山の部分については、別の地点から描いたものを一枚に描きあわせた可能性をのべました(詳しい論考はなし)。
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川崎市菅仙谷 白清水(吐玉水)

2006年12月12日 | 江戸名所図会
江戸名所図会巻之三に吐玉水という絵があります。

ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.504-505

本文を見ると、
「吐玉泉 寿福寺より後ろの方の谷を隔てて西の山際、農民の地にあり。水源白砂を吹きだすゆえに号とす。昔は小沢の白清水という。」(ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房p.503)
となっています。

地図でみると、寿福寺の西側に谷がありますので、この谷に豊富な湧水があったのでしょう。あるいはよみうりランドの中だったら、もう無くなっている可能性があります。この谷戸の名称は知りませんが、現在のこのあたりの地名は、川崎市菅仙谷1となっています。

地図1 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』( 実業の日本社)より
国土地理院 2万5千分の1地形図「溝口」相当部分。

現地に行ってみますと、谷の西縁に確かに水が湧いているところがあります。


梨畑で作業していた方に話を伺うと、昔は白清水といっていて、下地の砂の色が白かったからだという話をしてくれました。文庫本の絵を見ていただくと、そこに描かれている家は、その方のお宅の一部(当時の建物はもちろんすでにないそうですが)で、江戸名所図会の刊本も所有しているとのことでした。この絵のポイントが分るとは思ってなかったので、かなりうれしい気分です。
左側の絵に描かれている湧水が、谷の西縁だとすると、右側の絵は谷の下流側を描いていることになり、描かれている丘陵は、小沢城址の丘陵が候補にあがります。その下に、寿福寺からの続きの尾根の末端が、右から張り出す形で描かれている(この絵ではわかりにくいかもしれませんが)ことになります。

この構図とぴったりだと言えるほどの地点、方向はわかりませんでしたが、下流方向に向いて、写真を撮ってみました。




このあたり、奥まっていることもあり、昔はさぞや秘境のようなところだったのだろうと空想をめぐらし、しばし絵の中に入った想像をしてみました。

12/13追記
秘境といっても、今からみればということで、当時は普通の農村風景だったのでしょう。
また、むかしの里山風景は、今よりもっと樹木もまばらで樹高も低く、松が目立つような風景だったということについては、
パルテノン多摩歴史ミュージアム編集『特別展 多摩の里山「原風景」イメージを読み解く』(財団法人多摩市文化振興財団2006年)
水本邦彦『草山の語る近世』(山川出版社2003年)などが面白いです。
ちなみに、この絵の丘陵部に描かれているのものは松のような感じですね。
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稲城市 京王よみうりランド周辺

2006年12月07日 | 江戸名所図会
12/15修正加筆(ゴンドラからの写真を差し替え)

江戸名所図会 巻之三 天璣之部に「国安宮・威光寺」を描いた絵があります。

<<ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房pp.488-489>>

この絵がどこから描かれたものなのか、あるいはどの程度写実的に描かれているのか、京王よみうりランド駅周辺を訪れてみました。


<<地図 京王よみうりランド駅周辺 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)より 
国土地理院2万5千分の1地形図「溝口」の一部。>>

妙覚寺(江戸名所図会では明覚寺)、威光寺は現在でもあります。


<<妙覚寺の庭 地図の地点1 2006年11月23日撮影>>

国安の宮は現在、絵に描かれたようなお社が残っているのかわかりませんでしたが、現在八雲神社の小さな社の隣に、「社家山本」と書いてある鳥居がありました。『新訂 江戸名所図会3』p487に「神主山本氏奉祀す」とあるので、こちらのお宅の西側の山の中ということになります。

描画の候補地点として初めによみうりランドに登る「巨人への道」の途中を考えてみました。


<<よみうりランドのゴンドラからの撮影 写真中央の畑の左、赤い屋根の建物が、名所図会で国安の宮の「社人」と書かれているあたり、そこからさらに左にたどり、青い屋根と赤い屋根の民家が威光寺と道路をへだてて向かいの民家、畑にもどりそこから右やや上の緑色の屋根が妙覚寺。2006年11月25日撮影>>

「巨人への道」からは、地形的に威光寺のお堂が見えませんので、威光寺の墓地のある斜面に上って見ました。名所図会の描画位置はこの写真の撮影位置よりもう少し高いようで、墓地の斜面を登りきったあたりかもしれません。上に掲げたゴンドラからの写真では、一番手前に写っている尾根が威光寺の東の尾根ということになります。


<<威光寺の墓地から撮影 地図の地点2 墓地の先に威光寺のお堂、その先すこし右に妙覚寺の屋根が見える。左さらに奥の送電線が見えるあたりに東京都水道局向陽台給水所の円柱型の建物が見える。この写真での識別は難しいが、その奥が奥多摩秩父方面の山々。 2006年11月25日撮影>>

名所図会では妙覚寺の右上に、山が描かれており、「う○」のような文字が書いてあります。「う」「○」はそれぞれ「可」「年」のくずし字で、すなわち「かね=鐘」です。妙覚寺には、現在、本堂から2段高い位置に鐘楼があり、この絵の山は、妙覚寺の裏山と考えていいでしょう。現在の裏山はこれほど高く見えないようですが、あるいは地形改変がなされているからかもしれません。(この鐘楼の山の絵の部分は、どうも別の位置からのスケッチを組み合わせたものと考えるほうがよさそうです。)

<<妙覚寺の鐘楼。2006年11月23日撮影>>

名所図会に描かれた背後の山は、『カシミール』で展望図をつくってみると、左側の絵の一番奥が「川乗山」あたり、その下の松などの樹木が描かれているところが、現在の向陽台から大丸あたり(向陽台給水所のあるあたり)だと思われます。右側の絵の「かね」の左が「武甲山」(現在は削られて、ピークが1336mから1304mになったということですが、多摩川中流から見える武甲山は、無くなってしまったのかと思うほど小さくなった気がします。)あたりなのですがどうでしょうか。武甲山にしては、すこし大きく描かれているのかなという点と、秩父の山にしては、中景のような描き方なのが気になりますが、中景で該当する山がありません。(これはどうも奥多摩・秩父ではなく、向陽台からつづく多摩丘陵であるような気がしてきました。ということで、この中遠景部分は判断保留です。)

江戸名所図会の絵師は長谷川雪旦だそうですが、この絵に関しては、自分が思っていたより写実的に描かれていました。増渕和夫ら(出典1)によると、「江戸名所図会は草稿からみて、間違いなく写生をもとに描写されているが、刊行段階で修正が加えられており、その修正の程度は、個々の絵によって、異なり、それぞれの絵について写実性を検討すべきと思われる。」とあります。

(出典1)増渕和夫、藤沢正一、竹井久男、上西登志子「絵図による植生景観復元の試み」川崎市青少年科学館紀要(5)(1994),p4


以下は、江戸名所図会とは直接関係ありません。
コカコーラボトリング稲城工場が更地になっていました。商業施設が建設されるようです。

<<三沢川左岸から南方向 地図の地点3>>

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埼玉県 大滝村 滝沢ダム水没地

2006年12月02日 | 失われた風景
荒川上流の中津川(秩父湖(二瀬ダム)の北側の谷)に、滝沢ダムが建設されました。
「平成17年12月に試験湛水が開始された」と
水資源機構の滝沢ダムのページhttp://www.water.go.jp/kanto/takizawa/html/index.html
に書いてあります。
今回は、大滝村(当時)の浜平集落付近をとりあげます。
撮影日は、1983年4月3日です。



浜平集落の民家から中津川下流方向 撮影位置はだいたい地図の地点1(水没地)



浜平集落の民家 撮影位置はだいたい地図の地点1(水没地)



浜平のバス停から北斜面を撮ったものと記憶する 位置はだいたい地図の地点2(水没地)



ダムサイト付近の川原 位置はだいたい地図の地点3(水没地)


以下の1点は、滝沢ダム水没地ではありませんが、
秩父湖の上流に栃本関跡があり、そこから西方向を撮ったものです。撮影地点は、地図の地点4です。
ネット上でもこの構図の写真は何点かありました。ここからの風景はあまり変わっていないようです。

栃本関跡の前から西方向 地図の地点4



地図 国土地理院 5万分の1地形図「三峰」 昭和49年編集 より
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渡良瀬遊水地 旧谷中村

2006年12月01日 | 廃村
足尾の松木村に続いて、鉱毒事件で廃村にされた栃木県の谷中村を紹介します。
今回の写真は、1993年夏の自転車ツーリングの時のものではなく1993年1月31日に、渡良瀬遊水地でのバードウォッチングに参加したときのものです。

延命院墓地跡にのこる墓石

十九夜供養の石塔

撮影場所は、地図に赤印で示しました(だいたいの地点です。縮尺もオリジナル版から縮小してあります。)それにしても渡良瀬遊水地、広大です。

地図 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社,2004年)より

これらの墓石は年月を経て、風景に溶け込みつつあり、哀感はただようものの、歴史を知らなければ、破壊された村の凄惨さまで感じ取れないかもしれません。しかし、明治40年の谷中村残留民家屋の強制破壊直後の写真というのが何葉か残っており、私はかなり衝撃を受けました。松木村の項で紹介した、神山勝三『フォトドキュメント 渡良瀬の風土』(随想舎、1996)p.43や、田中正造大学発行の「田中正造生誕150年記念写真絵はがき第1集」に1葉あります。たしか岩波書店の『田中正造全集』にもいくつか載っていたように記憶しています。
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