失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

足尾 旧松木村

2006年11月30日 | 廃村
1993年の夏休みに、2つの廃村をたずねて2泊3日の自転車ツーリングをしました。場所は栃木県の旧谷中村と旧松木村です。このツーリングの一番の目的は、次の写真(ビデオ映像)が撮りたかったからです。今回は松木村を紹介してみます。

松木村に残る墓石 撮影日1993年8月16日

同じ墓石を別の角度から

撮影日1993年8月16日

正確な撮影場所は覚えていないので、地図の大体の場所に赤印を打ちました。松木川の谷道から左岸側に少しだけ上がったところだったように記憶しています。地図もオリジナルを縮小して使っています。

地図 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社,2004年)より

足尾の松木村はネットでも多くの方が取り上げていて、廃村となった経緯は私があらためて説明するまでもないでしょう。2つだけサイトを紹介しておきます。
田中正造大学http://www.zuisousha.co.jp/syozodaigaku/index.html
ウィキペディア 松木村の項目に、1951年ころまで、ただ1軒立ち退きしなかった星野金次郎親子の話がのっていて興味深いものがありました。

上の写真の構図は、やはり訴えるものがあるのでしょう。大体同じ構図で何人かの方が写真をとっています。例えば、
神山勝三『フォトドキュメント 渡良瀬の風土』(随想舎、1996),p.23.

ウィキペディアの松木村関連項目に、消滅した日本の市町村の一覧という項目がありました。
また、廃墟探索という廃墟サイト検索のためのサイトがありました。http://ruins.rati.info/
打ち捨てられて人に顧みられないものに、どうも私は引きつけられるようです。
コメント (2)
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川崎市麻生区 早野 谷地田以前・以後の風景

2006年11月20日 | 残ってほしい風景
早野の谷戸のハンノキ林が美しいです。これは谷地田の風景よりさらに古い、稲作以前の谷戸の風景です。

(写真の撮影日2006年11月18日)

 「里山ボランティアの会」の方たちが活動されていた。



といっても、ここが太古からずっとハンノキ林であったということではありません。
耕作放棄され数十年たって、ハンノキ林へもどった風景です。
Kampeitaさんのページ「たまには多摩に行こう」の「小田急線柿生駅~江田駅」(http://nekoserver.com/kampeita/tama/new/kakieda/16.html)の中に、
「30年前の航空写真を眺めると、田んぼの跡のようです。」 とあります。

国土地理院のサイト内の空中写真閲覧サービスhttp://mapbrowse.gsi.go.jp/airphoto/index.htmlによって
1947/7/9米軍撮影の航空写真をみると、
ここの谷戸は水面のような平坦な感じで写っています。
実際、谷戸の上流に行くと畦の跡がわかるようなところもあります。

虹ヶ丘側から下ってやぶを抜けるとこの辺で谷戸の風景となる。



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神奈川県愛甲郡清川村 宮ヶ瀬

2006年11月17日 | 幕末写真
 ダム建設により水没する前の中津川渓谷をビデオに撮っておこうと、1991年8月に、自転車で宮ヶ瀬に出かけました。
 下流の愛川大橋の方から、石小屋をとおって、宮ヶ瀬まで行く予定でしたが、ダム工事が既に始まっていて、石小屋の手前で通行止めになっていました。
 しかたがないので、津久井郡の「宮の前」の方から「虹の大橋」を渡って宮ヶ瀬(馬場、平沢)までいきました。
 映像として手元に残っているのは、愛川大橋の下から写した中津川(現在でも水没していません)と、「虹の大橋」から写した落合あたりの谷(水没)、立ち退きの終わった馬場の集落(水没)、宮ヶ瀬大橋(注1)から写した中津川(水没)です。
 先日このビデオ映像を見ていて、宮ヶ瀬大橋からの映像が、ベアトの写真の山並みと同じであることに気がつきました。(先日の鑓水の写真の撮影位置を探ってみようと考えたのも、これがきっかけでした。このブログを始めたことによる思わぬ副産物でした。)
 今回は、この宮ヶ瀬大橋からの画像を取り上げてみます。

ビデオ画1 宮ヶ瀬大橋にて(やまびこ大橋が写っている)


ビデオ画2 宮ヶ瀬大橋にて(中津川上流方向。右岸が写っている。)


ビデオ画3 宮ヶ瀬大橋にて(中津川上流方向。右岸が写っている。ビデオ画2の右側から続くものである。左から川弟川が流入している。)


ビデオ画4 宮ヶ瀬大橋にて(中津川上流方向)

今回も、ベアトの写真の撮影位置について、詮索してみます。
その前に、宮ヶ瀬付近の地図を、1)ダム関連工事がはじまる以前のもの、2)ビデオを撮りにいった当時のころのもの、3)ダム湛水以後のものの3つ、載せておきます。「虹の大橋」と「やまびこ大橋」の位置を赤い線で記しましたので、3者の大体の対応がつくと思います。今回取り上げる、宮ヶ瀬大橋は,赤い点で記しました。

地図1 5万分の1地形図「上野原」昭和51年修正 国土地理院


地図2 5万分の1地形図「上野原」平成元年修正 国土地理院


地図3 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社,2004年)より。縮尺は地図1,2とは異なる。

続いてベアトの写真を6葉紹介します。前回と同様開港資料館から転載許可をとって、『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館発行)からスキャンニングしたものです。

写真1 宮ヶ瀬の谷 (横浜開港資料館所蔵)


写真2 宮ヶ瀬の風景(横浜開港資料館所蔵)


写真3 宮ヶ瀬の風景(横浜開港資料館所蔵)


写真4 宮ヶ瀬の風景(横浜開港資料館所蔵)


写真5 宮ヶ瀬の風景(横浜開港資料館所蔵)


写真6 宮ヶ瀬の風景(横浜開港資料館所蔵)

橋が写っている写真2-6については、ビデオ画と比べてみるとわかるとおり、撮影地点は、宮ヶ瀬大橋のあたりです(ベアトの写真に写っている橋は宮ヶ瀬大橋のご先祖様ということになります。注1参照)。この橋は既存文献でも特定されています(注2)。写真2、4には、小さな支流が合流しているのが写っていて、これは「川弟川」であることから、中津川の上流は写真の右側がであると決定できます。ビデオ画4と比べてみると、写真3も上流方向を写したものであることがわかります。
 
 一方、写真1については、後藤和雄、松本逸也編『写真集甦る幕末』(朝日新聞社,1987年)には、橋から「下流を写したもの」とあり、『目でみる厚木・愛甲の百年』には、「現在の宮ヶ瀬大橋のやや下流でとったもの、「唐人川原」という名称は、当時この川原で外国人がよく遊んでいたことにちなんで名付けられたということである」と記されています。
この写真は、写真3と比べてみると、写っている樹木や山の形から、土橋の上か、あるいは土橋のすこし上流から、川の上流方向を写したものであることがわかります。(説明写真7参照)少なくとも下流方向を撮ったものではありませんでした。橋と川弟川の位置関係から考えると、ベアト当時の橋の位置と、ビデオ撮影時の宮ヶ瀬大橋の位置はそれほど変わっていないため、「現在の宮ヶ瀬大橋のやや下流でとった」という表現もやや不適切だといえます。

写真7 写真1と写真3の比較

ということで、細かく言いますと
写真1は土橋(宮ヶ瀬大橋の前身)の上の左岸寄りか、あるいは土橋のすこし上流の左岸にいて、川の上流方向を写したもの。
写真2は、橋を降りた左岸にいて、右岸を写したもの。中津川の流れは右から左。川弟川が合流している。
写真3は、橋の下流、右岸にいて、中津川の上流方向を写したもの。
写真4は、橋のやや下流、左岸にいて、右岸上流方向を写したもの。川弟川が合流している。
写真5は、写真3の右側の続きで、中津川の左岸が写っている。
写真6は、写真5の一部を左岸にいてクローズアップしたもの。
ということになります。


注1:ベアト当時の土橋は、「大正八年に木製吊り橋となり、昭和8年鉄組みに。昭和42年、永久橋となった」と、ふるさと宮ヶ瀬を語り継ぐ会編著『ふるさと宮ケ瀬』(1997年),p44に記載があります。
注2:『目でみる厚木・愛甲の百年』(郷土出版社,1991年)には、写真2と同じ写真に対して、「現在の宮が瀬大橋のやや上流を宮ヶ瀬側から撮影したものと思われる。手前を流れるのは中津川で、写真の右手で川弟川と合流している」と解説がある。前掲の『ふるさと宮ケ瀬』には「土橋の宮ヶ瀬大橋」とキャプションがついている。
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八王子市鑓水 ベアトの写真撮影地点の推定(完結)

2006年11月13日 | 幕末写真
ベアトの写真
写真1,2は、横浜開港資料館から転載許可を得て『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館発行)p40,41からスキャンニングしたものである。


写真1「鑓水の風景」(横浜開港資料館所蔵)


写真2「八王子へ向う道」(横浜開港資料館所蔵)

写真1と写真2との関係
同写真集の解説には、写真2は写真1の「中央部をアップで写したもの」とある。

写真2から読みとれること
写真2から次のようなことが読みとれる。
①道は登り坂に差し掛かっており、逆S字のようにカーブしている。
②左下に水の流れが見える。流れは左からである。
③画面上で流れの上の位置に左から道が通っており、上り坂の手前で合流している。
④石仏が写っている。
他にもいろいろなものが写っているが、だいたいこのような内容から撮影地点の検討をしてみたい。

写真2の撮影地点検討
鑓水付近全体の地形を地図1に示す。

地図1 2万5千分の1地形図「八王子」より。杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)よりコピーした。

鑓水の八王子道は、現在の「絹の道資料館」の前を通り、道了堂の方に登っていく道だそうである。大栗川の御殿橋から道了堂への登りの分岐点までの区間については、道の勾配がそれまでよりやや急になる地点は2箇所で、「大栗川の御殿橋から北方向への登り」と、「道了堂へ登る分岐点」である。
現地を歩けば分るが①②③の条件を満たすのは、大栗川の御殿橋付近である。
御殿橋付近の現況は写真3,4、5のとおりである。

写真3 御殿橋付近より北方向 撮影日2006年11月3日

写真4 写真3の左方向から流れる水路 撮影日2006年11月4日

写真5 写真4の水路は、道路の下を通って御殿橋の下に出てくる。撮影日2006年11月4日

石仏について
 写真2の石仏部分に注目してみよう。写真2の撮影位置であると推定した御殿橋付近には、この石仏はない。この付近の路傍にもそれらしいものは見当たらなかった。
 植松森一『八王子の石仏百景』(揺籃社,1993年)p31には、台座の模様がベアト写真と似ている石仏が1体紹介されている。これは永泉寺の「不動明王」で、天明八年の文字が刻まれている。永泉寺の位置は地図1で「老人ホーム」と書いてある右側あたりのお寺のマークのところである。
 また川端信一「シルクロードと石仏」(『野仏』第4集,多摩石仏の会,昭和47年2月)p.5には、「橋を渡って永泉寺にはいる。ここでは天明八年の不動座像・・・が見られる。」とある。
 永泉寺に出向いて、不動明王を側面から撮影したものが、写真6である(背後からの撮影はできなかった)。台座の模様が一致することから、ベアトの写真のものと同一(少なくとも同型)であると考えられる。この石仏が永泉寺に移されたとするなら、昭和47年以前ということになる。

写真6 ベアトの写真と永泉寺の不動明王 永泉寺の不動明王の撮影日2006年11月4日

写真1から読みとれること
写真2の位置が決まれば、写真1もおよその撮影地点は決まる。写真1から読みとれることは
①撮影地点は、写真2に写っている民家の屋根より高い位置である。
②画面中央やや左に、道に沿って石垣のようなものが見えている。
等である。
写真から直接読みとれる情報ではないが、八王子市教育委員会『絹糸商 八木下要右衛門屋敷跡調査報告書』p21には、「左奥屋敷の隣が要右衛門家と伝えられる(矢印部分)」との記載がある。(写真7参照)

写真7 写真1の説明

写真1の撮影地点検討
写真2の民家の標高はおよそ126-130m程度であり、屋根までの高さをおよそ6-8mとし、カメラの設置高さを地上1.5mとすれば、撮影地点の標高は、およそ130-140mより高いことになる。
一方、写真1の道路の向きと見え方から水平方向の範囲を推定したものが地図2である。ベース図は、国道16号バイパスが書かれてないので、昭和55年ころの道路拡幅以前の住宅地図のようである。図中の番号で5が八木下要右衛門、8が清之介、12が大塚五郎吉宅である。

地図2 ベース図 「鑓水商人分布図」 絹の道調査研究会『絹の道の遺跡と現状の記録』(昭和63年)p21

以上の大まかな絞り込みから、写真1の撮影地点は、大塚五郎吉宅付近が有力と考える。

写真8 大塚五郎吉宅跡より北方向 撮影日2006年11月12日

結論
写真1と写真2の推定撮影地点を地図3に示す。

地図3 2万5千分の1地形図「八王子」より。杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)よりコピーした。

写真1の撮影地点は大塚五郎吉宅付近、写真2の撮影地点は大栗川御殿橋付近と推定できた。

今のところ、ベアトの鑓水の写真の撮影地点について特定して記述しているものを、文献上では見つけることができなかった。被写体についても、上述の八王子市教育委員会『絹糸商 八木下要右衛門屋敷跡調査報告書』p21が、八木下要右衛門家の位置を記している以外は見つけることができなかった。
八王子市郷土館の某氏の話では、「地元の人は写真を見ればどこから撮ったものであるのかすぐわかるはずであり、現地に行けばわかることであるが、それを文字に記したものがあるかどうかはわからない」とのことであった。

今回調べた文献(上述のもの以外)
『目でみる町田の百年』郷土出版
東京都教育委員会『歴史の道調査報告書第4集 浜街道』東京都教育庁生涯学習部文化課、1996年
小泉栄一『写真集ふるさと板木』非売品 昭和46年
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11.5自転車走行日誌風メモ

2006年11月06日 | 雑記
昨日に引き続き鑓水の永泉寺に足を運ぶ。


山門を入って右側に、不動明王の石仏がある。11月4日に記した植松さんの石仏写真集に載っているもので、ベアトの写真に写っているのと同じと思われる。横から写真をとってみた。背後からはちょっと撮影は無理であった。

石仏の高さを測ってみたところA、B、C、D各部の寸法は56、14、70、25cmであった。台座のうずのような模様もベアト写真と一致する。

絹の道資料館に行き、展示資料で、鑓水の谷戸の名前を確認した。

地図は『カシミール3D図解実例集初級編』(杉本智彦著実業の日本社2004年)より切り出した。
国土地理院発行の2万5千分の1地形図『八王子』の範囲内である。
老人ホームと書いてある辺りから御殿峠の方へつづく谷が「がんこうじ谷戸(巌耕地など漢字表記は多数あり)」
老人ホームと書いてある辺りから「鑓水」と書いてある上あたりの谷が「子ノ神谷戸」
老人ホームと書いてある辺りから北に伸びて左に曲がっている谷が「嫁入り谷戸」
老人ホームと書いてある辺りから南に伸びて鑓水二丁目と書いてあるあたりの谷が「板木(伊丹木)谷戸」


絹の道資料館前の道を登り御殿峠に出て、境川に下りる。川沿いを走り、町田市立中央図書館まで。
以下の図書を閲覧する。
(1)『明治三年の村明細帳にみる八王子のむら』(古文書を探る会編 平成9年6月)
鑓水村の項に「小字は大谷、板木戸、大鷲谷、子ノ神谷、我眼寺谷(眼耕地)、嫁入り谷という六つの谷戸にわかれ、おおむねその谷の集落に沿って集落が形成されていた。」(p120)とある。
(2)『目でみる厚木・愛甲の百年』(郷土出版社1991年)
(3)『ふるさと宮ヶ瀬』(ふるさと宮ヶ瀬を語り継ぐ会編著1997年)

(2),(3)には、ベアトの宮ヶ瀬の写真が掲載されており、撮影地点は、いずれも「宮ヶ瀬大橋」となっていた。撮影対象が宮ヶ瀬大橋(当時は当然この名称ではなかったろうが)と特定されている以上、あまり細かい詮索は意味がなくなったが、中津川渓谷とされている写真については、(3)には掲載がなく、(2)の説明は少々不正確のように思われた。
 11月4日に述べたとおり、後日まとめて報告してみたい。

図書館5階から外をみると、寺が見えた。帰りに立ち寄ってみると、勝楽寺で、寺の前後が道路予定地になっている。横浜線町田駅の東側の跨線橋から町田街道の原町田3町目までつながるようだ。寺が移転するしかなさそうな状況である。神社だろうが、寺だろうが、墓地だろうが、開発にはかなわない。
ベアトは原町田でも撮影を行っていて、『目でみる町田の百年』(郷土出版社)によると、浄運寺の木立が写っているという。現在は町田駅前の繁華街になっている。後日じっくり探索してみたい。



多摩センターのパルテノン多摩歴史ミュージアムに立ち寄り、図録を購入し、展示を見た。
ここの常設展示に映像コーナーがある。十いくつかあるビデオ映像の中に「昔の村」(3分)というタイトルがある。
この中に、多摩ニュータウン開発以前の唐木田のカラーの映像があった。これは必見である。


この三連休は鑓水に3日通い・鑓水ベアト三昧となった。本日の走行距離55km。

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八王子市鑓水 ベアトの写真撮影地点の推定(1)

2006年11月04日 | 写真集
 横浜開港資料館発行の『F.ベアト幕末日本写真集』に、八王子市鑓水の写真が2葉ある。
一枚は谷戸をやや見下ろしがちにとっており(写真集のキャプションは「35.鑓水の風景」p40)、
もう一枚はその中の一部に近づきアップしたもの
(写真集のキャプションは「36.八王子へ向う道」p41)である。
 写っている場所は同じだが、カメラを設置した地点は違う。

 この写真をみるたびに、現在のどの辺りなのか推定する手がかりはないかと思っていた。
鑓水といっても5つくらい谷戸があるし、
写っている家屋は当時と変わっているだろうし、
樹木も約150年経てば盛衰があるだろう。
だから手がかりは、自然地形しかなく、
丘陵のなだらかな地形では推定は難しいのではないかとあきらめていた。

 とは言え、八王子道と言われているのは、
現在の「絹の道資料館」の前を通るものだそうである。
(「絹の道資料館」のページ
http://homepage3.nifty.com/hachioji-city-museum/kinumichi.html
に以下の文章あり、
「絹糸商人、八木下要右衛門の屋敷跡に建てられました。
要右衛門は「石垣大尽」と呼ばれただけに、通りに面した石垣が見事です。
この石垣を生かし、資料館は当時の雰囲気を伝えるような建物にしました
(復元ではありません))
 ちなみにここの谷戸は「岩耕地谷戸」と言うと永泉寺の方から伺った。
谷戸が限定されれば、写真に当てはまりそうな場所は相当絞り込めそうだ。
さらに、ベアト写真36には、左に小川が流れ、道端に石仏らしきものが写っている。
ベアト写真35には、上記の石垣のような屋敷も映っている。

 こうした情報を手がかりに、だいたいの撮影ポイントが想定できた。
あとは、現地にいって石仏を見つければ、100%確定と言ってよい。
昨日11月3日に期待とともに、鑓水に石仏探しにでかけた。

 結果は、想定した場所に石仏はなく、半分落胆。
考えてみれば、石仏が当時と同じ場所にあれば、どなたかが既に指摘していてもおかしくない。
(ベアト写真の撮影地点がどこまでわかっているかなど、
誰かがネット上でデータベースでも構築していない限り、
研究者以外には調べようがない。
こんなサイトがあるよとか知っている方がいたら是非教えてください。
ちなみに私は「宮ヶ瀬」の撮影ポイントがわかりました。後日報告します。)

 しかし、この想定ポイントから見える道の曲がり具合は、ベアトの写真とよく似ていた。
多分間違いないだろうと思った。
この日は、絹の道資料館によって、
大栗川の支流を行けるところまでさかのぼって(まや霊園付近)、
帰宅した。

 本日(11/4)、図書館に行き『八王子の石仏百景』植松森一著(揺籃社、1993年)を閲覧すると、
ベアト写真のものとおぼしき石仏が、ベアトの撮影当時とはすこし離れたところにあることが分った。
写真の力は偉大である。
この石仏を文章でどんなにうまく説明しても、
ベアトの写真と同一(少なくとも同型)であるかどうかは分かろうはずもない。
この写真を撮って紹介してくれた植松さんに感謝しなければならない。
さっそく現地に行って写真を撮って来た。

 この文章も、写真、地図が無ければ、さっぱり伝わらないであろう。
ベアトの写真については、現在、横浜開港資料館に写真転載許可申請を行っているので、
許可が下りたら、地図と、私の写真と合わせて、推定撮影地点を報告します。

 下の写真は、鑓水の谷戸の一つ「嫁入り谷戸」谷地田の最奥部。
上記記事とは関係なし。2006.11.3撮影。

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国立市ママ下湧水(2)

2006年11月02日 | 失われた風景
撮影日時は(1)と同じである。

ママ下湧水付近の青柳崖線パノラマ。画面の中央付近にママ下湧水の主要な湧出点があった。



その主要湧出点の上を道路が通り、なんとなく無残な感じになった。湧水は涸れているわけではなかった。



道路西側の崖線下から見たところ



崖の上もだいぶ変わった。

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国立市ママ下湧水(1)

2006年11月01日 | 失われた風景
 ママ下湧水は、主要な湧出点の真上を道路が通って周辺の景観も大きく変わった。
 今回はビデオ映像からパノラマを作ってみた。パノラマ作成過程で画像欠落部分が黒く抜けるため、空の部分に限って色を塗り直した箇所がある。

 道路建設前は1996年8月4日撮影。建設後は2006年1月3日撮影。両者で季節が違うため比較するのは少々不公平であるが、木々の色の違い以上に道路による景観の変化は大きい。
 画面奥の道路(防音フェンスのあるもの)は中央自動車道である。
 ママ下湧水については別の地点からの画像があるので後で追加する予定である。


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