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失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

HatenaBlogへ引っ越ししました

2025年07月19日 | Weblog
HatenaBlogへ引っ越ししました。URLは https://koyaminatsuki.hatenablog.com/ です。
以降更新はHatenaBlogでおこないます。


gooblog今までお世話になりました。
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小田原

2025年05月18日 | Weblog
gooブログの終了に伴ってブログの移行を行います。移行出来たらお知らせします。

さて、「梅雨のはしり」という季節に入って、当ブログはようやく桜の花の季節にたどりつきました。
4月5日に小田原へ花見に行きました。

<御幸の浜>


<西海子(さいかち)小路>


<小田原文学館から>


<松永記念館>

<松永記念館>

<松永記念館>

<松永記念館 ここで抹茶を頂きました。自分史上で一番風雅な花見であった>

<松永記念館>


<板橋 竹の小径>


<三淵邸 甘柑荘>


<小田原城>

<小田原城>

海があって、落ち着いた街並みがあって、庭園があって、山があって、お城があって  文句なし。
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渡良瀬遊水地

2025年04月21日 | Weblog

2月22日に渡良瀬遊水地を訪れました

東武日光線の板倉東洋大前で降りて、自転車を借りて出発


海老瀬東の信号で堤防上にあがり


遠方に日光の山が雪をかぶっているのが見えて、来てよかったなとまずは思いました


ここから下りて遊水地の中へ。道路の先には筑波山


男体山、白根山、足尾の山などが雪をかぶっています




この日午前中は風もなく、思っている以上に温かく快適でした。ここで昼食としました


谷中村跡を散策して、午後はいくらか雲が多くなって


一瞬風花が舞ったりしました。展望デッキに上がって


また板倉東洋大前駅に戻って、帰りました。



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ひので野鳥の森自然公園 日の出町

2025年03月30日 | Weblog
前回の「山の神」で訪れた、ひので野鳥の森自然公園です。

公園の管理棟のところから上りました


山之神の道を行きました


尾根道に出るあたりで展望が開けます




ここを下ると管理棟に出ます。もうすこし尾根道をすすみました。


ずっと下って、妙見宮まできました。一番奥に丹沢の山並み


妙見宮の石段


東光院のあたり


撮影日 2025/2/9
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山の神

2025年02月08日 | 民俗
今日は2月8日ということで、「ヨウカゾウ」という風習(2010年頃に興味をもってからだいぶ久しぶりになりました)に関連する文章を紹介します。
ここでは「つつじ」が本題なのですが「山の神」まつりの風習がとりあげられています。
「ヨウカゾウ」とはどういうものかについては過去ログをご参照ください。

 宮本常一 『宮本常一著作集43自然と日本人』(未来社 2003年刊)「ツツジと民俗」p.191より
(引用開始)改行は勝手におこなっています
山の神は春になると山から下って田の神になるものだとは広く信じられているが、それが土地によっては二月九日だったり、三月十六日だったりする。
東北地方では三月一六日が多い。三月ではまだつつじが咲いていない。
兵庫・大阪・奈良の山地地方では四月八日、家の前に高い竿をたて、竿のさきにつつじをつけているのをみかける。
中には赤いつつじでなくモチツツジという白い花をつけることもあり、わらじなどをそえて立ててあるのを見る。
この花をテントウ(天道)花とかニチリン(日輪)花とかいっており、太陽に花をささげるのだといっているが、
もともとは山地にのぼって供えた花を家の前に竿をたて、それを山頂の行事に代用したものではなかろうか。
・・・
 ・・・兵庫県下はテントウ花をたてる風習の比較的よく残っているところであるが、それはお釈迦さまにささげるためのものだと言っている。
そしてそういうところでは、四月八日は花折り婆が山から下りてくる日で、山へゆくと婆にさらわれるからゆかないという伝承が氷上郡地方にはある。
四月八日に山にのぼって神をまつる習俗とたいへんちがうように思うが、ともに山の神をまつる日であったことにはかわりないようである。

(引用おわり)

(初出『花材別生花芸術全集』六 主婦の友社 昭和49年(1974) )

 
家の前に竿を立てる、わらじなどをそえる、この日には婆が山から下りてくる、山にゆくと婆にさらわれる、
などが、多摩地区周辺で行われていたヨウカゾウの風習伝承との共通点です。
宮本先生の指摘のとおり「もともとは山地にのぼって供えた花を家の前に竿をたて、それを山頂の行事に代用した」
のだとすると「この日に山にゆくと婆にさらわれる」という伝承は、
本来山頂で行っていたおまつりを家の前で済ませてしまうことへの言い訳だったのではないかという気がしてきました。

ヨウカゾウには、このような「山の神まつり」の要素と、それとは別系統と思える「節分の、魔除け・厄払いの行事」の要素、
さらには引用文にある、仏教の、灌仏会、あるいは十二月八日の成道会なども日付に影響しているかもしせません。
最後の部分は論拠がないですが、地味にアンテナは張っておきます。

(2月10日追記)
日の出町の「ひので野鳥の森自然公園」の山之神の写真を貼っておきます。撮影日 2025/2/9
 
<コース案内指示柱と石祠>

<山之神の石祠を経て尾根に出るコース>

小さな石祠の横を通って尾根に上がる道を歩いていて、
山の神は山そのものがご神体で、
山の神をまつるというのは、立派な祠堂つくったり飾り立てたりすることではなく、
山全体に感謝をささげたり安全を祈ることなのだなと感じました。
(山仕事の経験ゼロのものに何がわかるかとしかられそうですが)

そうしてみると、山の神に感謝をささげる場所は山頂であろうと家の前であろうとさして重要ではないと思えてきました。
たしかに山頂は山の中で唯一無二の場所ではありますが、あくまで山の代表点・象徴点でしかないということになりましょうか
(おしまい)
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川口川 中流 (八王子市)

2025年01月12日 | Weblog
昨年の夏に八王子市を流れる川口川の中流域を訪れてみました。
写真に番号をふりました。後ろの地図をご参照ください。

①清水公園 まずは、犬目町の清水公園から、旧河道を利用した公園でしょう。

<清水公園 2024/11/3>

<清水公園 川から一段高く上がったところ 2024/6/29>

②大正橋付近

<大正橋付近 つつじ児童遊園 ここも旧河道を利用していると思われます 2024/6/29>

<大正橋から上流方向 2024/9/14>

③高尾橋付近

<高尾橋付近から上流方向 2024/9/14>

④唐犬橋付近

<唐犬橋付近から上流方向 安養寺のお堂がいい感じ、写真はいまいちですが 2024/6/29>

⑤駒形橋付近

<駒形橋下流 下流方向 2024/6/29>

<右岸側から駒形橋の方向 2024/9/14>

⑥宮田橋付近

<⑥宮田橋下流から 下流方向 2024/6/29>


<国土地理院2万5千分の1地形図をカシミール3Dで標高別色塗をして文字加工、縮小>

今回は主に川沿いの道を中心に載せました。
沿川の低地は基本的に住宅地ですが、寺社林、農地、水路など、当ブログ好みの見どころがいろいろありました。
小さい神社がたくさんあるなと感じましたが、むかしの集落規模が反映されているのかもしれません。

川口川の源流はまだ行ったことがないのですが、今熊山のふもとなので登山がてら後日訪ねてみたいと思っています。
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丘の上の家

2024年11月12日 | 武蔵野
田山花袋『東京の三十年』から「丘の上の家」を抜粋して引用します。
引用部は青字で示しました。引用は岩波文庫から。ふりがなは( )でくくって文中に入れました。
写真は、花袋らのたどったコースを推測して撮りました(撮影日2024/11/9)。下の地図を参照ください。

 それは十一月の末であった。東京の近郊によく見る小春日和(こはるびより)で、菊などが田舎の垣に美しく咲いていた。

<①渋谷駅>
太田玉茗(おおたぎょくめい)君と一緒に湖処子君を道玄坂のばれん屋という旅舎に訪ねると、生憎(あいにく)不在で、帰りのほどもわからないという。

<②道玄坂>
「帰ろうか。」と言ったが、「構(かま)うことはない。国木田君を訪ねて見ようじゃないか。何でもこの近所だそうだ。湖処子君から話してあるはずだから、満更(まんざら)知らぬこともあるまい。」こう言って私は先に立った。玉茗君も賛成した。
 渋谷の通りを野に出ると、駒場(こまば)に通ずる大きな路(みち)が楢林(ならばやし)について曲がっていて、向うに野川(のがわ)のうねうねと田圃(たんぼ)の中を流れているのが見え、その此方(こちら)の下流には、水車がかかって頻(しき)りに動いているのが見えた。

<③文化村通り>
地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野(むさしの)に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。
私たちは水車の傍(そば)の土橋(どばし)を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いた。

<④宇田川通り 大向橋跡付近>
 「此処(ここ)らに国木田って言う家はありませんかね。」
 こう二、三度私たちは訊(き)いた。
 「何をしている人です?」
 「たしか一人で住んでいるだろうと思うんだが・・・・・・。」
 「書生さんですね。」
 「え。」
 「じゃ、あそこだ。牛乳屋の向うの丘の上にある小さな家だ。」
 こう言ってある人は教えた。

<⑤井の頭通り>
 少し行くと、果たして牛の五、六頭ごろごろしている牛乳屋があった。「ああ、あそこだ、あの家だ!」こう言った私は、紅葉や栽込(うえこ)みの斜坂の上にチラチラしている向うに、一軒の小さな家が秋の午後の日影を受けて、ぽつねんと立っているのを認めた。

<⑥井の頭通り>
 また少し行くと、路に面して小さな門があって、斜坂の下に別に一軒また小さな家がある。 「此処だろうと思うがな。」こう言って私たちは入って行ったが、先ずその下の小さな家の前に行くと、其処に二十五、六の髪を乱した上(かみ)さんがいて、「国木田さん、国木田さんはあそこだ!」
こう言って夕日の明るい丘の上の家を指した。

<⑦宇田川町7>
 路はだらだらと細くその丘の上へと登っていた。斜草地、目もさめるような紅葉、畠の黒い土にくっきりと鮮かな菊の一叢(ひとむら)二叢、青々とした菜畠(なばたけ)――ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩削(やせぎす)な青年がじっと此方(こちら)を見て立っているのを私たちは認めた。
 「国木田君は此方ですか。」
 「僕が国木田。」
 此方の姓を言うと、兼ねて聞いて知っているので、「よく来てくれた。珍客だ。」と喜んで迎えてくれた。

 「好い処ですね。君。」
 「好いでしょう。丘の上の家――実際われわれ詩を好む青年には持ってこいでしょう。山路(やまじ)君がさがしてくれたんですが、こうして一人で住んでいるのは、理想的ですよ。来る友達は皆な褒(ほ)めますよ。」
 「好い処だ・・・・・・。」
 「武蔵野って言う気がするでしょう。月の明るい夜など何とも言われませんよ。」

<⑧国木田独歩住居跡の標柱> 
 その家は六畳一間、そのつぎが二畳、その向こうが勝手になっていて、何でも東京の商人が隠居所か何かに建てたものであるということであった。
室(へや)の隅(すみ)に書棚、そこにはウォルズウォルス、カアライル、エマソン、トルストイなどが一面に並んで、たしかゲエテの小さな石膏像が置いてあった。一閑張(いっかんばり)の机の上には『国民之友』『女学雑誌』などが載せてあった。

<独歩の時代からはだいぶ下りますが・・・ 白根記念 渋谷区郷土博物館・文学館 同潤会アパート 住宅再現展示 2024/9/5撮影>
 丘の上の後の方には、今と違って、武蔵野の面影(おもかげ)を偲(しの)ぶに足るような林やら丘やら草藪(くさやぶ)やらが沢山あった。

<⑨独歩住居跡の通りを上って渋谷区役所前交差点に>
 夏の末から、翌年、日光に行くまで、国木田君は、その丘の上の家で暮した。思うに、国木田君に取っても、この丘の上の家の半年の生活は、忘るることが出来ないほど印象の深いものであったろうと思う。紅葉、時雨、こがらし、落葉、朝霧、氷、そういうものが『武蔵野』の中に沢山書いてあるが、それは皆この丘の上の家での印象であった。

 なつかしい丘の上の家は今どうなったか。もう面影もなくなってしまったことであろう。林も、萱原も、草藪も、あのなつかしい古池も・・・・・・


<⑩変貌の最前線という感じ 宇田川町7、8、9>


この日歩いたコース

<国土地理院2万5千分の1地形図をカシミール3Dで標高別色塗をして加工>

できれば、田山花袋がこの日に見た渋谷の風景を想像して描いてみたいというのが今の夢です。

(引用者による注)
田山花袋『東京の三十年』
 大正六(1917)年 博文館刊

推測して撮りました 
 参考にしたのは大岡昇平『幼年』、赤坂憲雄『武蔵野をよむ』、「渋谷区郷土博物館・文学館 常設展示図録」
「明治前期測量2万分1フランス式彩色地図」など

十一月の末 
 田山花袋の訪問は、国木田独歩の『欺かざるの記』には明治二十九年十一月十二日に記されている

道玄坂のばれん屋
 大岡昇平『幼年』には「花袋は渋谷停車場を降り、大和田横丁を通って道玄坂の途中を出たらしい。百軒店の前あたりに下宿していた宮崎湖処子を訪ねたが、留守だったので独歩の家へ寄る気になった。」
 と書かれています。 

湖処子君 
 宮崎湖処子(みやざき こしょし)(1864-1922)

土橋  
 大向橋

山路君
 山路愛山(やまじ あいざん)(1865-1917)

一閑張りの机
 写真に写っているちゃぶ台は一閑張りではないと思います。

丘の上の家は今どうなったか 
 国木田独歩の「十年前の田園生活」(明治四十八年八月十五日「文章世界」第二巻第九号)には
「其後何年か経過(たつ)て此孤屋を訪(たずね)て見ましたら、庭は全く雑草に埋(うずも)れて荒れ果て、家はめちゃめちゃに壊れ、
磯さんの番小屋の壁には大穴があき、見るかげもない有様となっていました。今は如何(どう)なって居るか知りません。」と記されています。
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顧想園 東久留米市柳窪

2024年09月27日 | 残ってほしい風景
今春(というか初夏)に行われた顧想園(村野家住宅)特別見学会に参加しました。
「園内での写真撮影は可能ですがSNS等への投稿は遠慮してください」とのことでしたので
道路から撮った写真のみ載せます。


<顧想園まえの道>

<顧想園門>
新茶の季節だったので園内はお茶の香りにつつまれていました。見学会は大満足でした。
春と秋に特別見学会が行われているので興味のある方は顧想園で検索してみてください。


これは、黒目川の方に下りたところです(顧想園ではありません)。左の道を上った少し先には野火止用水が流れています(写っていません)。



顧想園は地図のピンク色の丸印です。左下に小平霊園があって、そこに黒目川源流部があり顧想園のすぐ北側を通って右上の青色の方へ流れていきます。
野火止用水は黒目川の北側をおよそ川と並ぶように通っています。

<国土地理院2万5千分の1地形図をカシミール3Dで標高別色塗をして縮小加工したもの>
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小金井 はけした

2024年08月16日 | 残ってほしい風景
前回訪れた「はけの森美術館」の前の道を行き来しました。はけの斜面林はもとより、寺社林、屋敷林、生垣まで美しい


<小金井市中町 はけの道 2024/5/3>


<武蔵野公園側からみた「はけ」の林 2024/4/7>


<むじな坂下 2024/5/3>


<小金井市中町 2024/4/7>


<はけの小道 2024/5/3>


<金蔵院の東側の道 2024/4/14>


<金蔵院の南側の小道 2024/5/3>

<同じく金蔵院の南側の小道 2024/4/14>

<同じく金蔵院の南側の小道 2024/4/14>


<小金井市中町の住宅地 2024/4/14>


<小金井神社東側の道 2024/5/3>
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はけの森美術館 小金井市

2024年06月14日 | ○○記念館・旧△△邸
小金井のはけの森美術館を訪れました。春から初夏への変化をお楽しみください


<「はけの森美術館」前の通り西側から 2024/4/7>


<美術館の建物横の竹垣の通路を奥へ 2024/4/7>


<旧中村研一邸主屋(musashinoはけの森カフェ)2024/4/14>


<同 玄関 2024/4/14>


<同 カフェの中から 2024/5/3>


<茶室「花侵庵」 2024/4/14>


<主屋東側 2024/4/14>


<「はけの森」を出て、「はけの小道」(写真左下の竹垣のところが入口)へ 2024/4/7>


<「はけの小道」から西に折れて名もなき小道へ 2024/5/3>


<この名もなき小道の木の間から「はけの森」と隣家の樹林を望む 2024/5/3>


<再び「はけの森美術館」前の通り、東側から 2024/5/3>
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