失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

大井武蔵野からの富士山

2007年12月24日 | 武蔵野

<左側の大きな鉄塔の左に大室山、右側の大きな鉄塔の右に大岳山>

本日、大井武蔵野からの富士山の写真を撮りに行きました。
大井武蔵野は「ふじみ野市」ですが、この「ふじみ野」というのも安易な名前だと思っておりました。しかしこうしてみると悪くないですね。

「大井武蔵野」については五月に「武蔵野の俤は今纔に入間郡に残れり
武蔵野考2」でとりあげましたので御参照下さい。
 そこでも参照しましたが、「武蔵野図」の小さい図をhttp://www.city.fujimino.saitama.jp/profile/introduction/history/10.htmlでみることができます。

上の写真の撮影地点の大体の位置は下の地図に示しました。

「武蔵野図」で富士山の下に描かれている山は私は丹沢の山々のような印象を受けます。
上の写真では丹沢はもっと左で写っていません。


武蔵野周辺の雑木林、5月にとったものと並べてみます。
 
<例によって撮影位置がぴったりあっていませんがご愛嬌ということで>

このあたりからだと武甲山がとがって見えています。



<地図は杉本智彦「カシミール3D 図解実例集 初級編」(実業之日本社)からコピーして加工>
<青い線は亀久保交差点と富士山山頂を結んだもの
 黄緑色の四角形は昔の「武蔵野」のおよその大きさ(位置は不確か)>





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小手指ヶ原

2007年06月02日 | 武蔵野

<所沢市 北野新田>


 国木田独歩の『武蔵野』の冒頭の文のつづきに、「自分は武蔵野の跡の纔に残ている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思て・・・」とあります。
 この古戦場とは、小手指(こてさし)と久米川を指しているのですが、昔の萱はらの武蔵野の跡は、現在の小手指周辺にも、もちろんもうないです。
 国道463号バイパスの「誓詞橋」交差点の南の方に、古戦場跡の碑があって、白旗塚があります。
 
<左:白旗塚。右上:白旗塚遠景。右下:小手指ヶ原古戦場の碑>
 
<白旗塚の下から>

 このあたり、緩い起伏はありますが、比較的平坦で、地形的にはいかにも原という感じがします。白旗塚周辺は、茶畑、桑畑、麦、サトイモ、その他さまざまな畑と雑木林の風景が残っています。

<お茶に桑。北野総合運動場の北。もうすこし広範囲をお見せできないのが残念>

<桐の林がいくつかあった。5月はじめの花の時期に来たらさぞきれいであろう>

<所沢西高校の前の道から、西方向>

<所沢西高校>

 今回の撮影場所は、この下の小手指陸橋(という正式名かどうかは知りません)からの1枚以外は、「小手指町」ではなく、「北野」あるいは「北野新町」です。白旗塚も「北野」です。昔は、このあたり、一帯が「小手指ヶ原」だったようです。
そのあたりの話は、江戸名所図会と、新編武蔵風土記稿の「小手差原」「小手差原古戦場」の説明を引用してみます。

●『江戸名所図会』 天保五・七年(1834・36)
市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房 p.348
(引用開始)
小手差原 北野神社より西北の方十三、四町を隔てて、河越・入間川の辺りすべて小手指原と号せり(・・・新井白石先生云く、「小手差原は北野物部天神の社より西北の方六、七里四方の地をいふと。いまは墾田となりて、わずかに七百余石の地となれるといふ」云々)。
(引用おわり)

『図会』には、北野天神の挿絵がありますがまた次の機会に。

●『新編 武蔵風土記稿』 天保元年(1830年)
蘆田伊人校訂・根本誠二補訂『新編 武蔵風土記稿 第八巻』雄山閣 p.152
(引用開始)
小手差(コテサシ)原古戦場 小手差原は武蔵野の内なり、郡中北野村に今小手差明神の社あり、それより近き所誓詞が橋の邊より乾の方に向ひ、入間川村のあたりまで凡そ二里程の間を指て、かの舊跡なりといへり、其接地の陸田は古すべて茫々たる曠野にて、府中のあたりまでつづきたれば其界域今を以ってさだかに辧すべからず、抑小手差と云地名は、ここのみにも限らで、他國にもあり
(引用おわり)


「茫々たる曠野にて、府中のあたりまでつづきたれば」というのが今では想像もつきません。西武池袋線の「小手指駅」と京王線の「府中駅」は直線で結んでざっと15kmくらいあります。

 
<左:小手指駅西の跨線橋から。うすくてわかりにくいかもしれませんが、線路の延長上やや左の山は武甲山のようです。右:国道463号バイパス小手指ヶ原の交差点。小手指ヶ原もとうとう、十数m四方のこんな狭い範囲に限定されてしまった?>
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武蔵野考(ふじみの市大井武蔵野) その2

2007年05月28日 | 武蔵野

<亀久保の歩道橋から、川越街道(南東方向)を。右が旧道>


ふじみの市の「武蔵野」周辺についての補足です。

●武蔵野圖
まずはじめに、『新編 武蔵風土記稿』の「武蔵野圖」ですが、ふじみの市のページに小さい図が載っていましたので、紹介しておきます。http://www.city.fujimino.saitama.jp/profile/introduction/history/10.html
この図は、ふじみの市の「大井郷土資料館」(大井中央2-19-5)の常設展示でもパネル展示されており、また事務所入り口脇には拡大複製したものが掲げられていました。
さらに、販売されている図書「図説大井の歴史」のカバーもこの図です。
これらをみると、富士山の下に「下富村」、右に「下赤坂村」、下に「亀窪村」、左に「上富邑」「木宮地蔵堂」と書かれており、萱場の周囲には松が植えられています。
 現代の地図上にこれらの位置を印してみました。

杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)からコピーし加工。

 この地図の説明です。
1.亀窪村の位置を川越街道の亀窪歩道橋付近とし赤丸で囲み、富士山の頂上付近と結んだ線を青で引きました。
2.「木宮地蔵堂」の位置は赤の楕円で囲みました。
3.「下赤坂」「上富」「下富」「亀窪」「武蔵野」の地名を赤四角で囲いました。
4.東西15町、南北八町を黄緑の四角で示しました。位置は、「武蔵野」の地名になるべくかかるようにしました。ここが絵の武蔵野の範囲というわけではありません。1町=109mとしています。
5.明治期の地図を見た記憶を基に、「下赤坂」と「下富(十四軒)」の集落を赤の直線で引いて見ました。


●武蔵野原之全図
 三芳町立歴史民俗資料館・三芳町教育委員会編集のパンフレット「三富新田の開拓」(同資料館で無料で配布されている)をみると、文化15年「川越松山巡覧図誌」所収の「武蔵野原之全図」というのが載っています。こちらは上富あたりから日光や秩父の方向を描いています。

 
<三芳町立歴史民俗資料館 ちょうど良いタイミングで企画展 「地図にみる明治の三芳」(7月15日まで)をやっていた。>
三芳町立歴史民俗資料館http://www.jade.dti.ne.jp/~miyoshir/

●くぬぎ山
 前回の写真の背景に写っているのは、ダイオキシンで話題になった「くぬぎ山」だった。(このあたりだったとは知らなかった)
 「くぬぎ山」について私はほとんど知らないので、検索結果から、いくつかのサイトを紹介してみます。

1.埼玉西部・土と水と空気を守る会 (さいたま西部・ダイオキシン公害調停をすすめる会) 所沢ダイオキシン報告
http://www3.airnet.ne.jp/dioxin/index.html

2.埼玉県 くぬぎ山自然再生事業
くぬぎ山地区の概要
http://www.pref.saitama.lg.jp/A09/BD00/kunugiyama/chikugaiyou.html
くぬぎ山地区の歴史
http://www.pref.saitama.lg.jp/A09/BD00/kunugiyama/kyougikai/zentaikousou/z1-2.pdf

3.おおたかの森トラスト News くぬぎ山関連
http://www2.tba.t-com.ne.jp/ootakanomori/kunugi.htm

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武蔵野の俤は今纔に入間郡に残れり

2007年05月26日 | 武蔵野

<大井武蔵野、下赤坂、上富の境界あたり。撮影地点は下赤坂>

「「武蔵野の俤(おもかげ)は今纔(わずか)に入間(いるま)郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。」
と国木田独歩の『武蔵野』ははじまります。
 この文政年間の地図がどんなものなのか、ネットで「文政年間に出来た地図」で検索してみると、
「文学の中の武蔵野の面影」(http://www.h7.dion.ne.jp/~musashi/musashino.html)というサイトに記述がありましたので引用させてもらいます。

(引用開始)
独歩が見たという「文政年間に出来た地図」は現存する。
この地図は、「「武蔵野 平凡」 明治の古典7」( 篠田一士編、学研、1982年)などに掲載されていますので、興味のある方はごらん下さい。
(引用おわり)

 これにしたがって「「武蔵野 平凡」 明治の古典7」( 篠田一士編、学研、1982年)を見てみると、

「武蔵野」冒頭にでてくる文政年間発行の地図「東都図」(部分)。文政八年乙酉上梓、同十三年庚寅改正とある。(国立国会図書館蔵)

という解説文のついた地図がカラーで載っており、独歩が引用した文も読むことができます。
(ただし「文学の中の武蔵野の面影」に指摘があるとおり、地図の書き込みの文言は「武蔵野の跡は今纔に入間郡に残れり」です。)

 ここで言われている、「わずかに残っている武蔵野の風景」は、「更科日記」や、「新古今集」の歌などに描写されている、広漠とした萱原の風景のことです。
地図の書き込みにも、「玉川上水ができて、田畑の開発が行われ、あるいは雑木林に変わってしまい、今は入間郡にわずかに昔をしのぶことができる場所が残っている」といった意味のことが書かれていますし、独歩も、「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以って絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。」と書いています。

 入間郡といっただけでは結構範囲は広いのですが、堀兼の井からさほど遠くないところに現在も「武蔵野」という地名が残っていて(現「ふじみの市大井武蔵野」)、『新編武蔵風土記稿』を見ると、文政年間の地図が言う「武蔵野」はあるいはここのことを言っているのかもしれないと思える記述があります。

(引用開始)
武蔵野   村(引用者注:亀窪村)の西南につづきたる地なり、其の野の廣さは大様東西の徑り十五町、南北八町許にして、南の方上富村に限り、北は當村(引用者注:亀窪村)及び下赤坂村にさかひ、東も當村にて、西は下富村に及べり、此地は當村の百姓正左衛門が家にて預かり申し野銭といへるものも納め、又河越城へ年ごとに薪萱料をも納むといへり、・・・此頃より残りし武蔵野の限りは、その四邊へ松の並木を植て境とせしとて今もしかなり、されど古に比すれば百分の一とも云うべけれど、かかる名高き所のわずかにも存して、今見ることをうるは當國にとりては美事とも云うべければ、そのさまを圖してここにのせぬ

蘆田伊人校訂・根本誠二補訂『新編 武蔵風土記稿 第八巻』雄山閣 p.267
(引用おわり)


 上の引用文と同じページに「武蔵野圖」という挿絵がついています。絵の中心部に、民家や畑・林に取り囲まれて萱原が、描かれ、奥に富士山(右の方に武甲山?)が描かれています。これは是非とも、オリジナルの図を見てみたいものです。
現在、ここの「武蔵野」には、萱原の風景はもうありませんが、雑木林と畑の風景はまだ残っています。秋に富士山を撮りにまた来てみたいです。


<丹沢から奥多摩あたりの山が見える>
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