失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

「薬王」についての記述を追加しました

2011年02月26日 | 説明
「コト八日(2/8)」の項でとりあげた「薬王」ですが、
南方熊楠の「十二支考」に書かれている人物(韋善俊)以外にも
候補者がいましたので追記しました。
本日はこれだけです。


やっぱり何か絵がないとさびしいので
上記とは関係ないですが今日の写真を

<あきる野市下代継 2011/02/26>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿伎留神社 城山(戸倉城跡) 五日市盆地 +α

2011年02月20日 | 古井戸
渕上の井戸の他に、もう一つあきる野市にある井戸
阿伎留神社境内の井戸を訪れてみました。
ですが井戸とは関係のない突飛な方向に話は流れていきます。


<阿伎留神社 2011/01/23>

阿伎留神社境内の井戸というと下の写真のものだと思いますが、
現地に案内表示があるわけでもなく、
『五日市町史』でもこの井戸のことはふれていません。
それで詳しいことはわかりません。

<阿伎留神社境内の井戸 2011/01/23>



<阿伎留神社境内 2011/01/23>

阿伎留神社を出て東に向かうと、秋川を見下ろせる場所があります。
下の写真は、そこから東方向を眺めたものです。
山並がここで切れていて、秋川はそこから流れ出ていきます。
両側の山が門のようにたちはだかり、
あたかもここが五日市の出入りの関門のように見えます。
五日市街道も五日市線もここを通っています。

これを見て、私はある場所を思い出しました。
突飛な場所ですが、それは最後に。

<阿伎留神社から東へ進む 2011/01/23>

五日市郷土館によってみますと、
地形模型があって、「数十万年前~数万年前、五日市は大きな湖で・・・
と説明が出ています。
「関門」の山は湖の堰堤だったことになります。

それで、五日市の盆地をもう少し全体的に見渡たしてみたくなりました。
地図でみると、城山(戸倉城跡)がうってつけのようですので、
城山に登ってみることにしました。

<城山(戸倉城跡) 2011/02/13>

<戸倉の野崎酒造 杉玉 2011/02/13>

私は戸倉の神明神社まで自転車で行き、そこから登りました。
山頂まで急坂をいっきに登って20分くらいでした。


山頂からの眺望の前に、地図を。(「カシミール3D」使用)

<国土地理院1:25000地形図を縮小加工>

登ったかいがありました。
先ほど「関門」と言っていた場所は、下の写真で手前に写っている山ではなく
奥の山になります。地図と見比べてみて下さい。

<城山山頂から東方向を 2011/02/13>クリックで拡大(1060×665)別窓表示
さて、五日市の風景から連想する突飛な場所とは・・・

<阿蘇山杵島岳から 1989/12/20>クリックで拡大(1735×820)別窓表示

阿蘇の外輪山がここ立野(写真中央部付近)で切れていて、
降った雨(の表流水)はここから有明海へと流れ出していきます。
五日市と阿蘇、この「見立て」どうでしょうか?
もちろん規模も、地形形成要因もちがいます。
共通点は、山並みが切れてそこから川が流れ出しているということだけです。


阿蘇の写真は自転車旅行時に「写ルンです」で撮ったものです。
雄大な風景に見とれて360度撮りました。
そのときのプリントをスキャンしてパノラマにしてみました。
1989/12/20阿蘇山杵島岳から パノラマ(2000×180)別窓表示

<了>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あきる野市渕上の石積み井戸

2011年02月13日 | 古井戸

<渕上の石積み井戸 2011/02/13>
あきる野市渕上(淵上)にある石積み井戸。この井戸は、現地案内版によると
東西5.5m、南北7.5m、深さ3.2mとなっており、
これまでこのブログで取り上げた七曲の井戸や、羽村市五の神の井戸、
青梅新町の井戸に比べるとやや規模が小さいですが、
石積みとスパイラルの形が美しいです。


<渕上の石積み井戸 2011/02/13>
また、植え込みなどがきれいに手入れされており、小庭園のような感じさえします。


<渕上の石積み井戸 2011/02/13>
さらに、案内板には、石積みの間から地下水が湧き出していると書かれていて、
底には水がたまっています。現役の井戸なんでしょうか。そうだとしたらうれしいです。

そんなわけで、私はこの井戸、たいへん気に入りました。


<国土地理院1:25000地形図に加工>
井戸は、JR五日市線の武蔵引田駅から約1kmくらいのところにある、
あきる野市開戸センターの敷地内にあります。
井戸は奥にありますが自由に見学できます。


<開戸センター前の通り 熊野・出雲通り 2011/01/30>
開戸センター前の道は、特別なものがあるわけではありませんが
私はなんとなく懐かしい感じがします。


<出雲神社前あたり 熊野・出雲通り 2011/01/30>



<断面図 「カシミール」使用>
井戸と武蔵引田駅を結ぶ線を引いて地形断面図を作ってみました。
開戸センターの標高は150mくらいです。
井戸の深さは3.3mというこのなので赤で縦線を引いてみました。



<井戸端 2011/01/30>


<了>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コト八日(2/8)

2011年02月08日 | 民俗

<世田谷区岡本公園民家園 長崎家コト八日の目籠の展示 2011/02/05>

私はコト八日という行事の原型は古代中国にあるのではないかと思うようになりました。
昨年の十二月八日にこのように書きましたので、そう考える根拠(文献)を示してみたいと思います。
そもそも古代中国に私の目が向いたのは、白川静氏の「文字講話」という講演DVDを見ていたときに、
鬼やらい(儺(だ))の話が出てきたからでした。
しかし、その前にコト八日(ヨウカゾウ、その他の別名もあります)とは何かの説明をしておかないといけません。
それには『コト八日』(大島建彦編、岩崎美術社、1989年)というタイトルの本があり、
大変参考になりましたので、まずはこの本から引用して、コト八日とは何かを概観してみます。
長くなるので●の見出しをつけてみます。以下で青字は引用文です。

●コト八日とは
(北島寿子「コト八日」、『コト八日』所収)
コト八日は一般には、二月八日と十二月八日に行なわれる行事としてとらえられている。
・・・東日本側をA地域、西日本側(青森県を含む)をB地域とすれば、
A地域は二月八日と十二月八日に行事があり、B地域は十二月八日だけに行事があるといえよう。(p.135)
・・・
コト八日には、各地で様々な来訪者を伝えている。
農事と関係があるので、山の神、田の神、作神、同様の性格を持つエビス、大黒、笹神、
あるいはもっと漠然とした八百万の神々といったものが挙げられる。
しかし、より広範囲にみられる来訪者は、妖怪変化の形をとっている。(p.137)
・・・
またコト八日には物忌みにもとづくと思われる謹慎が行われる。
仕事をしないとか、外出をしないとか、あるいは履物や洗濯物を家の中にしまったりすることは全般的に行われている。
・・・
柳田国男もすでに指摘しているように、物忌のきびしさが転じて妖怪変化の出現を伝えるようになったと思われる。
このようにコト八日は、春秋の農事の開始期及び終結期における重い物忌の日であったと思われる。
しかし、現在ではむしろ攘災を中心とする行事に変容している。(pp.137-138)
 

(大島建彦「解説」、『コト八日』p.262)
一般にコトと称するのは、コト八日という熟語にも示されるように、
二月八日および十二月八日の行事にあたるものと思われがちであるが、本来はこのコトということばは、
特に改まった飲食の意味に用いられており、ひろくハレの日の祭事とかかわるものといってよかろう。



●一つ目小僧がやってくる、目籠を掲げる
多摩地区や神奈川県では、コト八日の日にやってくる妖怪は一つ目小僧で、
これを追い払うために目籠を軒先に掲げるという例が多いようです。
目籠を掲げる意味について、山口貞夫氏は『コト八日』の中で折口信夫の説を紹介してこう書いています。

(山口貞夫「十二月八日と二月八日」、『コト八日』p.25)
(目籠)を掲げるのに竿頭高く結び付けて居る事は重要な点で、元は空からする神の招代であったのである
(折口先生、郷土研究、第三巻、第三号)


つまり。目籠を掲げるのは神様に降りてきてもらうための目印だとする説です。
一方、同書で小野重朗氏は次のように解釈しています。

(小野重朗「コトとその周圏」、『コト八日』p.247)
東部圏のコトは目籠のコトであり、西部圏のコトは箸のコトであると言われる。
これらのコトを特徴づけている目籠や箸は高い竿につけて掲げたり、戸外の木に掛けられるので、
ほぼ同じ目的をもつものと思われるが、この目籠と箸とはどのような意味をもつのであろうか。
先に奄美のカネサル(引用者注:p.230に、旧10月の頃の庚申(かのえさる)の日のことを言うとある)で
牛の肉を食べてその骨を村の入り口に掲げたり、ムーチー(粽餅)を食べてその葉だけを戸口に吊したりすることについては、
牛の肉や穀物の食物には人の身心を強固にする力があるとされていて、
災厄神の訪れるときにはそれを皆で食べて守りを固めること、
また、人々がそのようにして身を固め、家や村を固めていることを外から訪れる災厄神に示すために、
食べた証拠の品として骨や餅の葉を吊り掛けて示すのであるという理解を述べた。
コトの目籠や箸を戸外に掲げることも同じように解釈できる。


ここに記されている牛の肉を食べる例は、後に述べる古代中国の祭事との関係で興味深いと思います。
小野氏はまた、天草の例をあげて物忌みの厳しさが転じて妖怪変化の出現を伝えるようになったという説について異論を唱えています。

(小野重朗「コトとその周圏」、『コト八日』pp.216-217)
天草では現実に伝染病が流行してくる時などに、その災厄に対応する切実な処置としてコトを行っている。
祭りの物忌みといったいわば抽象的な観念から、さらに副次的に変ってできた厄神や妖怪を怖れる観念といった
複雑に紆曲したものではなくて、現実に災厄があり、それを恐れてコトによってそれから逃れようとしているのである。
・・・
災厄は不定期にやってくるものであってみれば、その災厄を防ぐコトも不定期に、
臨時に行うのが本来のものであったと思う。



●中国の影響
 以上でコト八日について概観してみました。
いろいろな要素が入り込んでいて単純ではありませんが、
大きくは農事的な祭礼要素と厄除け的要素が中心にあるとみてよいようです。
『コト八日』では、中国との関係を述べている箇所が数カ所あります。
それはコト八日で豆腐を食べる風習が桃符と音が同じなのでここに由来するのではないかという指摘です。

(藤田稔「田の神信仰と二月八日の伝承」、『コト八日』p.90)
豆腐は桃符という音に通じ桃が悪魔除けの威力を存するからという支那古代の信仰が習俗化したともみられている。

●『荊楚歳時記(けいそさいじき)』
コト八日という行事の原型は古代中国にあるのではないかと私が思う理由は
この豆腐-桃符のことではありません。
まず宗懍(498-504ころから561-65)の著がもとになっているという『荊楚歳時記』から引用します。

『荊楚歳時記』(東洋文庫324 宗懍 著、守屋美都雄 訳注、平凡社、1978、p.232)
十二月八日を臘(ろう)日と為す。
『史記』陳勝伝に、臘日(月?)の言あり、是れ此れを謂うなり。
諺(ことわざ)に言う。臘鼓鳴りて春草生ずと。
村人並びに細腰鼓を撃ち、胡公頭を戴き、及び金剛力士を作り、以て疫を逐い、沐浴して罪障を転除す。


注釈がないと、正直なところこれだけでは私にはあまり意味がわかりませんが、
幸い「臘」については、訳者の詳しい註がついています。

臘日  後漢の応劭の『風俗通』巻八「臘」の条に「謹んで礼伝を按ずるに、
夏は嘉平と曰い、殷には清祀と曰い、周には大蜡(さ)と曰い、漢は改めて臘となす。
臘は猟なり。言うところは田に獣を猟取し、以て其の先祖を祭祀するなり」とある。・・・
・・・臘祭のとき獣の肉をささげることが不可欠のことと見られている・・・
つまり臘=古くは蜡=は原始時代における獲物を持ちよっての大饗宴を意味するものではなかったろうか。

(pp.233-234)

まずなによりこの臘祭の日にちが十二月八日であること、
鼓を撃ったり、像を作ったりして疫を逐うことや、
肉を捧げて先祖を祭祀するというあたりが大いに興味を引きます。

●物忌み
『荊楚歳時記』の本文ではありませんが、東洋文庫版『荊楚歳時記』六月の「伏日の湯餅」という項の註に、

『漢官旧儀』には「伏日、万鬼行く。故に尽日閉ざして他事に干らず」(p.175)

とあります。この伏日は臘日と関係ない項目ですが、
コト八日の物忌みというのも、「万鬼が行く」日なので、外に出ないで家の中にこもり静にして、
鬼の通り過ぎるのを待つという意味合いがあるのではないかと思えます。

●『四民月令(しみんがつりょう)』
続いて、後漢時代の崔寔の著した『四民月令』(東洋文庫467 崔寔 著、渡部武 訳注、平凡社、1987、p.141)から

十二月
(一)臈祭の挙行
十二月の[臈(ろう)]日、稲・鴈を薦(すす)む。期に前(さき)だつこと五日に、猪(ぶた)を殺し、三日に羊を殺す。
除に前だつこと二日に、斉(ものいみ)し饌(そな)え掃滌(そうでき)し、遂に先祖・五祀を臈す。
其の明日、是を小新歳と謂い、酒を進め神を降す。
其れ酒を尊長に進め、及び刺を脩(おさ)め君・師・耆老(きろう)を賀すこと、正日の如(ごと)くす。
其の明日、又た祀(まつ)る。これを蒸祭と謂う。
後三日して、冢を祀る。事畢(おわ)らば、乃ち宗族・婚姻・賓旅を請召して、
好(よしみ)を講じ礼に和し、以て恩紀を篤(あつ)くす。
農を休め役を息(やす)め、恵みは必ず下に浹(あまね)くせよ。


注には「臈は正式には臘に作る」と出ています。

どこまで理解できているかわかりませんが、要約してみると次のようになりましょうか

臈の日の数日前から、豚や羊を犠牲にささげる。二日前には身を清め、そなえものをし、掃除し、
当日に先祖と五祀を祀る儀式を行う。翌日酒を進めて神様に降臨していただき、
それから、長老や君主や師、老人などにお祝いをする。三日目には塚(墓のことか?)をまつる。
以上の祀の儀式がおわれば、一族や客を招いて親睦(宴席をもうけるのでしょう)する。
この日は農作業や仕事は休みとし下のものにも恩恵が行き渡るようにする。

豚や羊をと殺すること、先祖を祀ること、農事が休みになることなどが興味を引きます。

●朝鮮歳時記の記述にびっくり
民俗学で純粋に日本的なものを探り出そうとするなら、
東アジアの近隣諸国との比較が欠かせないはずです。
したがって隣国の、韓国・朝鮮の状況に目を向けないのは怠慢だと言えましょう。
幸い東洋文庫に『朝鮮歳時記』というピッタリの題名の本がありました。
この中の洪錫謨著「東国歳時記」を見てみますと、元日の項目の一つではありますが、
多摩地区のコト八日の言い伝えとびっくりするほど似た記述がのっています。
この「東国歳時記」は序文の日付が1849年9月13日となっています。

『朝鮮歳時記』(東洋文庫193 洪錫謨 他著、姜在彦 訳注、平凡社、1971、pp.28-29)
洪錫謨「東国歳時記」正月元日 夜光 の項

俗説に、夜光という鬼が、この日の夜に人家に降りてきて、
子どもの鞋(わらじ)をはいてみて、足にあうものを履き去る。
鞋を履き去られた主は、一年中不吉であるという。
そこで子どもたちは、これを畏れてみんな鞋をかくし、燈火を消して寝る。
そして篩(ふるい)を板間の壁か庭のきざはしにかけておく。
というのは、夜光が篩の孔を数えるうちに鞋を盗むことを忘れ、
夜明けの鶏鳴を聞いて逃げ去ると、伝えられているからである。
夜光がいかなる鬼かは知らないが、あるいは薬王の音が転じてそうなったのかも知れない
(夜光の朝鮮音はヤクワング、薬王のそれはヤツクワング)。
薬王像は大へん醜く、子どもたちをこわがらせるから、そうおもわれる。


「夜光」が「薬王」だとすると、この「薬王」とはだれなのでしょうか?
こういうときは南方熊楠に聞いてみるのがいいです。
南方熊楠全集の索引を見てみるとやっぱり「薬王」という項目がありました。

南方熊楠「十二支考 犬に関する民俗と伝説」『南方熊楠全集 巻1』平凡社p.502

その他犬が仙人に従って上天した例多く、韋善俊は唐の武后の時、京兆の人なり、
長斎して道法を奉ず。かつて黒犬を携え、烏竜と名づく。世謂いて薬王となすという。
韓忠献臆すらく、年六、七歳の時病はなはだし。
たちまち口を張って服薬する状のごとくして、いわく道士あり犬を牽き薬をもってわれに飼う。
にわかに汗して愈ゆ、と。よって像を画いてこれを祀る、と(『琅邪代酔編』五)


韋善俊という唐の武后(則天武后624-705)の時代の人が薬王といわれていたと熊楠は書いています。
これが「東国歳時記」の言及する薬王と同一かどうかなんら確信はありませんが、
薬に通じた仙人のような道士のような人であり、像も画かれているようですので可能性はあります。
仮にそうだとすると、ヨウカゾウの一つ目小僧や目籠の伝承は唐の時代の韋善俊という人にたどりつくかもしれません。
『琅邪代酔編』なる書にもあたってみる必要があります。

(2011/02/26 追記)
『清嘉禄 蘇州年中行事記』(顧禄 著、中村喬 訳注、平凡社 東洋文庫491、1988)の
巻四 四月に「薬王生日」という項があり、次のような注釈がついています。

薬王と称される者には、戦国時代の名医扁鵲(へんじゃく)(『史記』扁鵲伝)、
医書『千金方』を著した唐の孫思邈(そんしばく)(『酉陽雑俎』巻二(ゆうようざつそ))、
唐の名医韋慈蔵(『旧唐書』方伎伝)、
唐の武后期の人とされる韋善俊(『桐陰旧話』)、
唐の開元二十五年に天竺より来たという韋古道(『続列仙伝』)など、
また、仏教の二十五菩薩の一人である薬王菩薩がある。・・・

(2011/02/26 追記終わり)


ここまでで時間切れです。
なにか進展があったら次の報告は12月8日です。
誤りがあれば直ちに訂正します。


蛇足ながら、私にはコト八日の厄除けよりは花粉症対策が必要です。
(了)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民家園探訪 清瀬市 旧森田家

2011年02月06日 | 民家園

<旧森田家住宅 2010/12/11>

 青のエリアが清瀬市
 みどりのエリアはこれまでに
 このブログで取り上げた市
  は旧森田家のおよその位置
 住所:清瀬市下宿2-524-1
 パンフレットによると
 「営利を目的とした写真撮影はできません」
 見学するには隣接する下宿地域市民センターに行って
 あけてもらいます。


<旧森田家住宅 2010/12/12>


<旧森田家住宅隣接地の八幡神社>

現地の案内板によると、森田家の旧所在地は清瀬市野塩1丁目となっていますので
行ってみました。

<国土地理院1:25000地形図を縮小し加工 が旧所在地、が現在地>


<清瀬市野塩1丁目 旧所在地付近 2010/12/12>


<清瀬市野塩1丁目 空堀川 2010/12/12>


上に書きましたが旧森田家住宅は、鍵がかけられており通常は立ち入りできません。
見学するには隣接する下宿地域市民センターに行って
鍵をあけてもらい、
セキュリティシステムを解除してもらい、
雨戸をあけてもらわねばなりません。(私の訪れた2010/12/12時点での話)
センターの係の人は見学が終わるまでついていて、
終わったら警報システムをセットなければなりません。
ですので、気安く何度も見学に行くというわけにはいきません。
古民家に常時管理者をつけて置けないので、防火防犯上のためだということですので
しかたないのですが、
このやり方は古民家の公開のあり方としては一方の極にあるように思います。
この方向を推し進めて行くと、行き着く先は解体・保管ということになってしまうのではないでしょうか。

市民でもない人に無料で見学させてあげて、あげくに不満まで言われたら、
所有者はかなわんでしょうけど
狛江市などの古民家園の活用のあり方と比べると
市によってこんなに違うものなのかと思った次第です。

私が訪れた時には、地域センターの方に
親切で丁寧な対応をしていただいたことを申し添えておきます。

(了)








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする