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失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

民家園探訪 川崎市立日本民家園

2010年10月24日 | 民家園

<菅原家 2010/10/23 撮影>

<江向家 2010/10/23 撮影>

「民家園」と言えばここでしょう、というくらいの規模と歴史(昭和42年(1967年)開園)のある
川崎市立日本民家園です。

<山田家前から江向家を 2010/10/24撮影>

<山田家 2010/10/23 撮影>

園内での写真撮影については、案内パンフレットによると
(1)印刷物への写真等の掲載(3)業としての撮影、には事前許可が必要と書いてあります。
入場券窓口で尋ねたところ、個人のブログに載せる場合はかまわないということでした。




<井岡家 2010/10/23,24 撮影>

「床上公開」はいくつかの家を選んで日替わりに行なわれているようです。
公開されている家では、茅葺き屋根の燻し(いぶし)もかねて、いろりに火が焚かれていました。

私はこれまで「上がれる」とか「座敷に上がれる」と書いてきましたが
この民家園では「床上公開」という言葉が使われていたので
以後私もこれにならうことにします。

園内で番号のふられている建物は23あります(それに、番号無しの「原家」があります)。
この内、私は今回、旧所在地が川崎市のもの2つについて旧所在地を訪れてみました。

●清宮家

<清宮家 2010/10/23 撮影>
「民家園解説シリーズNo.2」(日本民家園発行)によると
旧所在地は川崎市多摩区登戸3075となっています。

<登戸3075付近 2010/10/23 撮影>



<生け垣のある家が何軒か残っている 2010/10/23 撮影>
登戸3075から、通りをすこし西に行くと
「浅間社」があって築山がありました。古墳かなと思いましたが、
「浅間」の名前からすると「富士塚」なのでしょう。詳しくは調べませんでした。
後日調べて追記するかもしれません。


<浅間社 2010/10/23 撮影>

●船頭小屋
園内では一番小さい建物で、多摩川の菅の渡しにあったもの。

<船頭小屋 日本民家園 2010/10/23 撮影>

この建物を今回取り上げたのは、旧所在地が川崎市内であることもありますが、
私の中では今「つげ義春」ブームの最中だからなのです。
つげ義春先生の漫画に「石を売る」(1985年発表)という作品があります。
その中の2コマに、この船頭小屋(をモデルにした絵)が出てきます。

そこに描かれている風景を追ってみました。
渡しの風景は
「石を売る」(『つげ義春コレクション 近所の景色/無能の人』ちくま文庫p.120)
に次のように描かれています。

「十年ほど前
 までだったか
 ・・・
 この鉄橋の下に
 渡し場があった」
「昔から
 爺さん一人で
 やっていたが
 年老いて
 廃業して
 しまった」

今はこんな感じです。



<上:京王多摩線多摩川鉄橋下 下:日本民家園 2010/10/23 撮影>

「石を売る」はあくまで「つげ作品」であって、そこに描かれたものは
史実や現実の風景である必要はないことは承知していますが、史実を追ってみますと、
「民家園解説シリーズNo.22」によるとこの小屋は
昭和4年につくられ
昭和10年に旧所在地(多摩区菅1960先)に移され
昭和48年に解体され
昭和49年に民家園に移築されたそうです。
同解説には渡しの写真が4枚(渡船と橋が2枚づつ)載っています。

また、『日本民家園収蔵品目録3 船頭小屋・蚕影山祠堂』(川崎市立日本民家園、2005年)
には「最後の船頭 大熊徳治郎翁聞書き」として大熊さんの話と写真
(おそらく船頭小屋に座っているときのもの)が載っています。 


「石を売る」(同上ちくま文庫p.121)に出てくる風景は今こんな感じ

<調布市 京王多摩線多摩川鉄橋下流 2010/10/23 撮影>

「石を売る」(同上ちくま文庫p.136)に描かれている風景は今こんな感じ

<調布市 京王多摩線多摩川鉄橋下流 2010/10/23 撮影>

「民家園」が「つげ義春」と結びつくとは思ってもいませんでした。
私にとってはどちらも「しばらく浸っていたい世界」です。

民家は住んでいた人にとっては生活の場そのものだったのに
民家園は私にとっては浮き世を離れた別世界のようです。そしてそれが大きな魅力の一つです。
現実逃避というとネガティブな響きになりますが、
私にとって民家園は身近にあってすぐにいける貴重な現実逃避の場なのです。
最近そんなふうに思うようになりました。


10/25 写真1枚追加 字句の一部修正
 
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民家園探訪 府中市

2010年10月17日 | 民家園

<府中市郷土の森博物館 2010/10/17撮影>
府中市郷土の森博物館には復元建物が9棟ありますが、
そのうち草葺きの民家3軒を取り上げます。
旧越智家と旧河内家と旧三岡家長屋門です。
これらの建物の旧所在地の住所は府中市郷土の森博物館のページに記載されています。
http://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/sisetsu/fukugen.html

博物館の敷地内にあるので入館料として大人200円がかかります。
屋内での写真撮影は可能ですが、座敷には上がれません(旧越智家と旧河内家)。

今回とりあげた
府中市の位置図です。
郷土の森住所:府中市南町6-32

青色エリアが今回訪れた市(府中市)
みどり色のエリアは
このブログでこれまで取り上げた市。
印は
民家園のだいたいの位置です。


●旧越智家

<撮影 2010/10/17>

<撮影 2010/8/8>

<旧所在地の南町6-46付近。芝間稲荷神社 2010/10/16撮影>

●旧河内家

< 2010/10/17撮影 >

< 2010/10/17撮影 >

<旧所在地の若松町3-34付近 人見街道沿い 2010/10/16撮影>

●旧三岡家長屋門

< 2010/10/17撮影 >


< 2010/10/17撮影 下から見上げる >


<旧所在地の是政1-15付近 六地蔵  2010/10/16撮影>

<旧所在地の是政1-15付近  2010/10/16撮影>

<是政1丁目  2010/10/16撮影>

<上の右側の写真に旧三岡家長屋門を貼り付けてみました>


今回の旧所在地はいずれも意外におもしろい場所でした。
わずかに残る農地や、生け垣の小道、屋敷林、石仏、小さな社などが
徐々に新しい住宅地に取り込まれつつある、そんな「失なわれゆく風景」でした。



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民家園探訪 狛江市

2010年10月09日 | 民家園

<2010/10/2>
私は狛江市のむいから民家園をまだ数回しか訪れたことがありませんが、
私が行ったとき(土・日)ときはいつも催しが行われていて人がいっぱいでした。
むいから民家園のページhttp://muikara.cmsdehp.com/を見ると
来園者数は年間2万3千人前後と書いてありますから、
ずいぶん大勢の人が来ていると思います。

<園内にある池>

屋内での写真撮影も大丈夫でした。うえにも上がれます。

今回とりあげた
むいから民家園(旧荒井家住宅)のある
狛江市の位置図です。
民家園住所:狛江市元和泉2-15-5

青色エリアが今回訪れた市(狛江市)
みどり色のエリアは
このブログでこれまで取り上げた市。
ピンクの○印は
民家園のだいたいの位置です。

狛江市のページ
http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/11,3302,100,247,html
には、


【所在地】狛江市元和泉二丁目15番5号
 「荒井家は、泉龍寺の表門の突き当たりにあった」

と書かれています。したがって旧所在地は
左の地図でいうと、泉龍寺から南に伸びる道が
小田急線とぶつかるあたりでしょう。
民家園との距離は約500mくらいです。
狛江の駅からも600mくらいです。
民家園周辺には生け垣や屋敷林、寺社林のみどりが
住宅地の中点在しています。
<国土地理院 1:25000地形図 に加工>


<生け垣と屋敷林 2010/10/2>

旧所在地のあたりに行ってみました。
泉龍寺の南側に伸びる道は、こちらが表参道だったのかなと思います。
門前道的な雰囲気はとくにありません。

<左:旧所在地の近くから泉龍寺の方向を、右:泉龍寺の南から南方向。奥に小田急線の高架>
<2010/10/2>

もとにもどって、民家園の北側の広い通りを行きますと、
住宅の合間にこんもりとした樹林が見えます。
こうした場所は寺社林であることが多いですが、何かしらおもしろいものがあります。
近くに行って見ますと「兜塚古墳」でした。


兜塚古墳のすぐ近くにも大木のそびえる場所があります。こちらは伊豆美神社でした

<伊豆美神社のクスノキの大木 2010/10/3>

<上と同じクスノキを下から見上げる>

境内にある榧(カヤ)の木に実がなっていてたくさん落ちていました。

<伊豆美神社にある榧(カヤ) 葉の裏に2条の淡黄色の気孔線があると図鑑に書いてある
 実:2010/10/3。葉:2010/10/9>
(図鑑=馬場多久男『葉でわかる樹木』(信濃毎日新聞社、1999年))

何年か前に、柳田國男の「火の昔」を読んでいて
(燈火の油として)「榧の木の多いところでは、榧の実の油を用い・・・」
(『柳田國男全集23』ちくま文庫、p.224)
という文がありました。すこし興味があったので
いくつか実をひろって、外の皮をむいて中の種を取り出してみました。

<榧の実>
皮の部分のにおいは「パイナップル」(甘いにおいはありませんが)
のような感じ?

私は皮の部分から油を絞るのかと思っていましたが
ネットで調べてみると、油は種の部分から絞るようです。

10/11 追記
油の取り方について「火の昔」に出ていました。
榧(カヤ)ではなく犬榧(イヌガヤ、文中ではヒョウビ)の場合ですが、

(引用開始)
 その油の絞り方を聴いてみると、まずヒョウビの実のよく熟したのを拾い集め、
いったん土中にいけて半年ほど置き、冬に入ってからそれを取り出して、上皮の
腐った部分を洗い去って、中の実を蒸すのです。
(引用おわり)(『柳田國男全集23』ちくま文庫、p.227)

このほか、カヤの油は食用にもされていたが、イヌガヤの油はくさいので
燈火の油にだけ使われていたことなどが書かれています。

上の写真の実は青いですが、『学生版牧野日本植物図鑑』(北館)に
熟した実は、カヤは「紫褐色」、イヌガヤは「赤紫色」とでています。

10/12 追記
旧高木家長屋門の屋根は残念ながら銅板葺きです。
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民家園探訪 町田市薬師池公園

2010年10月03日 | 民家園
薬師池公園には旧永井家と旧荻野家の2軒の古民家が移築されています。

<旧荻野家住宅>

<旧永井家住宅>

今回は後で辛口の感想を述べます。
永井家も荻野家も、どちらも土間までは入れますが、上にはあがれません。
それと屋内に灯りが何もないので薄暗く、部屋の中はあまりよく見えません。
屋内での写真撮影については管理室の警備員さんに聞いたところ、
フラッシュを使う程度なら構わないという返事でした。


<旧荻野家住宅>

<旧永井家住宅>

概略位置図をのせます。
今回とりあげた
薬師池公園(旧永井家、旧荻野家住宅)の
概略位置図です。
住所:町田市野津田3270
青色エリアが今回訪れた市(町田市)
みどり色のエリアは
このブログでこれまで取り上げた市。
ピンクの○印は
民家園のだいたいの位置です。




●旧永井家の位置について
案内板には「この建物は現在位置の北方約3.3キロメートルのところにあった」
と書かれています。
細かい数字の話で申し訳ないですが、この3.3kmという数字は?です。
屋内に置かれている別の案内板(暗くて文字が読みにくい)には
「この民家は、もと町田市小野路町瓜生3631番地(現多摩市永山)にあった
永井卓実氏の住宅で・・・」となっています。
瓜生3631番地がどこなのか昔の住宅地図などで探し出せればそれでいいのですが、
これはあきらめて別の文献にあたってみたところ、
『東京都重宝旧永井家住宅・旧荻野家住宅修理工事報告書』
(町田市教育委員会、1977年、p.1)には次のような記載がありました。

「旧所在地付近の旧状を記すと、
南に高くなる丘陵地の南から北へのびた帯状の谷戸田が東南に折れ、
その谷戸の行き止りにの鎮守愛宕社があった。
当住宅の旧所在地はこの谷戸の屈折点に近く、
北側に低い丘陵背負って西南に面した屋敷地を構え、
屋敷の前面に六尺道が通っていた。」

この地形の説明だけでは、どこだか特定するのは難しいですが、
愛宕神社の位置は『多摩市の町名』(多摩市、1992年、p.79)の
「小野路町の小字」の地図に出ています。
地図で愛宕神社のある谷戸をたどると「瓜生」の地名や「三家井戸」の
地名が書かれています。
この地図には送電線と道路(鎌倉街道)が書かれていますので、
送電線と道路の地図上の交点から瓜生までの距離をはかり
現在の送電線の位置から伸ばしてみると瓜生の谷戸の現在の位置がだいたいわかります。
(補足1参照)
それは現在の「瓜生のバス停」「瓜生通りの起点」のあたりになります。
<国土地理院 1:25000地形図に加工>


<左:瓜生のバス停付近を北側から2010/10/2。右:瓜生通り、西方向を 2010/10/2>

永井家の旧所在地が現在の瓜生通りの起点付近だとすると、
薬師池公園の旧永井家住宅位置からここまでは直線距離で約4.2kmということになります。

薬師池公園と旧永井家、旧荻野家の旧所在地を地図におとして見ました。
一番北の●が旧永井家旧所在地で、東の●が旧荻野家旧所在地、
が薬師池公園です。

<杉本智彦『カシミール3D図解実例集1』(実業之日本社)で作成>

●昔の瓜生の写真について
『村のころ(ふるさと小野路)』(萩生田常一、1983年)には、
移設前の永井家の写真(p.203)とともに多摩ニュータウン開発前の瓜生の風景が
十数枚載っています(p.157、pp.172-176)。
他には『多摩ニュータウン今昔』(大石武朗、パルテノン多摩、2005年、p.11)に
瓜生池の写真が一枚あります。
(なお、ここに出ている開発後の写真の撮影位置は瓜生池のあったところから、
300-400mくらいずれているようです)


●荻野家の旧所在地について
<三輪の広慶寺付近 2010/9/19>
『東京都重宝旧永井家住宅・旧荻野家住宅修理工事報告書』
(町田市教育委員会、1977年、p.28)には
「当住宅は町田市三輪町一六〇二番地(旧字・上三輪)にあった
荻野磯吉氏の旧住宅である。」とあります。
地図でみると広慶寺の近くです。


<広慶寺 2006/11/18>

近くに西谷戸横穴墓群などがあって興味深い場所です。

<西谷戸横穴墓群 2006/11/18>


●薬師池公園の古民家から受ける印象について
両住宅ともに文化財に指定されているためかもしれませんが
(永井家は国の重要文化財、荻野家は東京都指定有形文化財)、
屋内に上がることができません。
また灯りが何もないので部屋の中の様子がよくみえません。
足下すらよく見えないところもあるのでそういうところには中に入ってみるのをためらいます。
そのため人が寄り付きにくくなっているように思います。

<荻野家 暗くて土間の足下が見えない 2010/10/02>

屋内がよく見えないのが災いしてか、特に永井家はあまり管理の手が行き届いていない印象を受けました。
(これは掃除をしている人が悪いといっているわけではありません)

<永井家 床板に泥がたまっている 2010/10/02>

昔は電灯などなかったのだから暗さを体験すればよいのだ、
という考え方で管理しているのであればそれも見識かもしれません。
しかし予算がないのでしかたなく放置しているとすれば、
せっかくの古民家の魅力を生かしているとは言えないです。
電気を引けとは言いませんが、
たとえばLEDなどを使って電池式で行灯風の照明を考えるなど
工夫できることはあると思います。
さらに照明だけで人をひきつけることができるかどうかはもっと難しい問題です。
そこに在ることによって公園の風景に彩りを添えている古民家ですが、
人のぬくもり感があってこそ魅力が増すのだと感じました。
維持管理費を安くすることを追求しすぎた(迫られすぎた)結果として、
現状があるとすれば再考を願いたいです。

(補足1)
もう一つ別の地図を使って瓜生の場所を探してみました。
「第一軍管地方二万分一迅速測図原図」の複製が日本地図センターで売られています。
このうち「神奈川県武蔵国南多摩郡小野路村外七村」(明治十五年三月)という地図をみると、
「乞田」から谷戸沿いに道が南に延びていて、途中に東南-西北方向の谷戸が2つ合流しています。
このうち南側の谷戸には南西向き斜面に民家が印されています。
永井家はこの谷戸東南-西北方向の谷戸の最下流付近の民家だと思われます。
明治十五年から現在まで、位置が変わっていないと思われる点を見つけて、
この点と永井家の距離をはかってみます。
私は、「八王子市東中野の熊野神社(約3670m)」「多摩市中沢の中沢池(約3240m)」
「町田市小野路の小野神社前のT字路(2080m)」を選んでみました。
現在の地図上で上記の3点から測った距離を描いてみると
(私はzenrinの電子地図帳でパソコン上で作図しました)
その交点(計測誤差があるので1点で交わるとは限りません)から
旧永井家のあったおよその場所がわかります。

10/4 誤記訂正(高慶寺→広慶寺)、表現の一部変更
10/8 補足1の地名訂正(落合→中沢)・市名補足
10/9 「薬師池公園と旧永井家、旧荻野家の旧所在地」の地図追加、一部字句修正
10/17 三輪付近の地図削除
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