失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

残堀川

2008年03月16日 | 源流探訪
 
<五日市街道脇を流れる砂川分水>

今回は残堀川の「水源探索」ではなく「旧流路探索」をしてみました。
残堀川流域図は東京都の案内板の地図をそのままお借りします。
 
<残堀川流域図>

●残堀川の水源
 残堀川の水源について一番基本となるのは、『瑞穂町史』の記述でしょう。

(引用開始)
 残堀川は国道十六号と青梅街道の十字路付近、杉山稲荷のあたりを谷頭として、狭山丘陵の浅間谷ツ、狭山谷、滝田谷ツなどの水を集めて東南流していた一種の多摩川の名残川と見てよいものであろう。
 狭山池の水は出口のない溜まり水で溢れると北東流して富士山から駒形へ出る不老川低地へ流下するもので残堀川の水源ではなかった。P.37
(引用終わり)


●残堀川の流路変遷
 残堀川の流路が過去に何度か人為的に改変されたことは、岩屋隆夫「武蔵野台地上の「河川変流考」」(『多摩のあゆみvol.13』昭和53年11月、)などに記されています。

(引用開始)
「現在の残堀川は、過去に明らかに人為的な河川の付け替えが行われている。狭山池の池尻から箱根ヶ崎までの流路がそうであり、武蔵村山市愛宕松より下流の流路も人為的に掘られた流路である。」
「狭山丘陵西側南面の谷戸を集水域としていた残堀川は、玉川上水の助水として利用するには平時の流量が小さかったにちがいない。残堀川の平水流量の増加をはかるために、狭山池の水を残堀川におとす掘り割りが開削されたものと考える。」
「「御府内備考」でいう古残堀川流路は1/25000地形図の等高線に刻まれた谷の跡から推定できる。それによると、古残堀は愛宕松の変曲点からそのまま東南流し、立川市砂川町二番、曙町二丁目を経て矢川に連続し、青柳・谷保を経て府中用水におちていたと考えられる。ところが、残堀川を玉川上水の助水として利用するには、古残堀川流路では動水勾配がとれない。すなわち、古残堀川と玉川上水の交差点では、河床高が残堀川の方が低くなるため水が玉川上水におちない。そのため、愛宕松下流の古残堀川を廃川化し、玉川上水の上流川へと残堀川を付け替えたと見てまちがいないと思う」
p.29-30
(引用終わり)

写真では小さいですが背景に狭山丘陵が見えています。

<日産自動車村山工場跡地の南から。画面左よりの建物は・ダイヤモンドシティ・ミュー>

 残堀川沿川の現地案内板にも、次のような記述があります。

(引用開始)
かつて砂川三番の見影橋付近を流れていた残堀川は、上水の完成時に天王橋付近につなぎ替えられ、それからは上水の助水として利用されることになりました。
明治時代になると残堀川の水は汚れ、1908年(明治41年)に上水から切り離されました。
(引用終わり)


<玉川上水天王橋から下流方向> 

<玉川上水見影橋から上流方向>

「武蔵野台地上の「河川変流考」」に掲載されている残堀川変遷図や現地案内板の記述をもとに、残堀川の流路変遷を模式図にしてみました。




<最初の図は、玉川上水掘削以前、次が、玉川上水と切り離される明治26年?(明治41年?)まで、最後が現在です>

●旧流路の痕跡はわかるか?
 さて、以上を予備知識として、矢川から残堀川の旧流路をたどってみたいというのが今回のテーマです。
 とりあえず矢川の水源付近(矢川緑地保全地域)を出発点にして、上記文献に出てくる、立川市曙町2丁目(立川駅北口付近)、砂川二番のあたりを訪ねてみました。
 
<東京都矢川緑地保全地域>
 
<矢川の水路。左:矢川緑地保全地域の西側にも水路が続いているがすぐ先で暗渠化>

立川駅北口で地形の高低を目で見てみつけるのはやはり難しい。写真はモノレールの橋脚に落ちた日陰がきれいだったので撮っただけです。
 
<立川駅北口>
五日市街道の砂川のあたりは、ケヤキの巨木や白壁の蔵などがまだ残っています。トップの砂川分水の写真もその一つ。
 
<五日市街道砂川三番の信号と砂川二番のバス停付近>

 残堀川と玉川上水が交差するあたりにある案内板には、「大昔の残堀川の流れ」が地図に示されています。



『立川の歴史散歩』立川市教育委員会(平成2年)には、次のような記述が見えます。

(引用開始)
 見影橋に戻ったら、今度は右に曲がって西武線のガードをくぐります。そのまま畑の中をまっすぐ進んで最初の分かれ道を右に向かうと、畑の植え込みの中に、残堀川旧水路跡の標示板が見えてきます。
現在、一番町から国営昭和記念公園内を通り、富士見町三丁目で根川と合流し、柴崎町で多摩川に流れ込む残堀川は「砂の川」とも呼ばれていたそうです。そして、これが「砂川」という地名の由来となったといわれています。P.61
(引用終わり)

<玉川上水見影橋> 

 
<残堀川旧水路跡の標示板。これがなかなか見つからなかった。>


上砂川小学校の横を通って、なおも西北方向に進むと、旧「日産自動車村山工場」の敷地境界の壁にぶつかります。
<壁も流路探索の手がかり
 この写真は下の地図の左から5番目の赤丸地点。壁の高さ約3.3m>

 この壁沿いに歩いてみると、特に東側に進みしばらく行くと道が登りになります。ということは、旧日産工場の敷地側が水平ならば、逆に壁の高さから、どこが一番低い土地かがおよそわかります。
 
<左:西の端。右:東の登り>



<西側から約100m間隔で、およその壁の高さを測ってみるとグラフのような結果となりました> 



 『瑞穂町史』に残堀川の水源と記されていた浅間谷ツ、狭山谷、滝田谷ツ、それに狭山池については後日改めて訪れてみようとと思います。


(3/20追記)今尾恵介さんの「武蔵野台地のクボ地名」(『多摩のあゆみ』第121号、財団法人たましん地域文化財団)に、残堀川旧流路の跡について、
興味深い記述がありましたので引用します。

(引用開始)
・・・数年前まで、砂川町二丁目と泉町の境界を通る道路上に窪方というバス停があった。残念ながら最近になって「昭和記念公園砂川口」に改称されてしまったが、この「窪方」というバス停は、旧砂川町では数少ない窪地を示す小地名として貴重な存在であった。
・・・旧版地形図で確認したところ、やはり窪地になっている。しかも、そのきわめて浅い谷筋を北西にたどっていくと、途中から残堀川のルートに重なっているのだ。この川が過去に流路を変更されたことは知られているが、旧残堀川のルートを調べてみると、見事にこの窪方バス停近くを通り、立川飛行場の敷地を斜めに横切って西国立駅付近から谷保へまっすぐ抜けていたことがわかった。P.28
(引用おわり)

「窪方」というバス停の名前から残堀川の旧流路との接点を見いだすとはさすがです。


3/21 追記:「愛宕松」について、当初、現在の伊奈平橋である
と書き、3/20追記で伊奈平橋の何百mか南東
と書きましたが、『村山町史』をあたってみると、
現在の武蔵村山市三ツ藤1丁目あたりのようです。
記述が迷走したことをおわびします。
この部分につて本文と変遷図を修正しました。
(3/21追記終わり)

2021/5/21 冒頭に置いていた追記を最後に移動しました


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2 コメント

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一考察 (松崎しげらない)
2021-05-20 14:15:10
はじめまして
残堀川の旧水路を調べていたところ貴ブログにたどり着きとても興味深く読ませていただきました。
残堀川旧水路を考察するうえで東京都水道局が発表している残堀川流域浸水継続時間図が参考になるかもしれません。
玉川上水~立川基地間の住宅地が北西から南東に
幅400mくらい浸水域があります。
これが旧残堀川水路ではないかと思います。
返信する
なるほど (水無月)
2021-05-20 21:56:55
松崎しげらない 様
なるほど残堀川流域浸水継続時間図ですか
付近の土地の高低が反映されているということですね
コメントありがとうございました
返信する

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