新国立 魔弾の射手 5回公演の3回目 3F1-50・7,350円・妥当な額
初見ですが・・1,2幕が1時間40分程・・長い、眠い、眠い・・バイオリズム悪し、眠い
アガーテ・エディット・ハッラー 2幕後半のアリアが綺麗ですね、チェロ、ヴァイオリンソロとの歌唱が素晴らしい、3幕で目が覚めました、合唱、アリアとも中々聴かせます、3幕は音楽的にも充実した展開ですね・・何せ勉強せずに観に行きましたが1,2幕??・・筋書きに,流れもイマイチかな??・・音楽を語りで繋ぐジングシュピール・歌唱劇・せりふの入った歌劇・・
何せ、ウェーバーとはご縁が無い、最近クラリネット協奏曲を聴きましたが・・演奏会でも取上げる機会が無い様ですね・・
C.M.v.ウェーバー/全3幕【ドイツ語上演/字幕付】
オペラ劇場
森と狩人の物語。
百発百中の魔法の弾丸で射止めようとした愛の行方は?
上演時間:約2時間25分(休憩含む)14時ー17時
イタリア・オペラ全盛の時代にジングシュピール(台詞が入ったドイツ語の歌芝居)の様式でドイツの森を舞台に誕生した斬新な作品。初演は大成功を収め、瞬く間に世界中を席捲しました。このドイツ・ロマン派オペラの記念碑的作品によって、作曲家はドイツの国民オペラの創始者といわれています。劇的なオーケストレーションはワーグナーやR.シュトラウスに多大な影響を与え、アリアに匹敵するほど重きをおかれた合唱もこの作品の聴き所。ものがたり
17世紀、ボヘミアの森。若い猟師マックスは、森林保護官の娘アガ-テと恋仲にある。射撃大会で優勝すれば恋人との結婚と保護官後継が認められるのだが、調子が悪い。そこへ、悪魔に魂を売った猟師仲間のカスパールが、百発百中の魔弾を使うよう唆し、深夜の狼谷で魔弾を入手。領主臨席の大会当日、マックスが撃った最後の1発が悪魔の意でカスパールに命中。領主は魔弾の秘密を告白したマックスに追放を命じるが、事の顛末を見ていた隠者のとりなしで許される。
芸術監督】若杉 弘
【指 揮】ダン・エッティンガー
【演 出】マティアス・フォン・シュテークマン
【美 術】堀尾 幸男【衣 裳】ひびの こづえ
【照 明】沢田 祐二 【舞台監督】村田 健輔
キャスト
【オットカール侯爵】大島 幾雄 【クーノー】平野 忠彦
【アガーテ】エディット・ハッラー 【エンヒェン】ユリア・バウアー*
【カスパール】ビャーニ・トール・クリスティンソン
【マックス】アルフォンス・エーベルツ
【隠者】妻屋 秀和 【キリアン】山下 浩司
【花嫁に付き添う四人の乙女】鈴木 愛美、田島 千愛、高橋 絵理、中村 真紀
【ザミエル】池田 直樹
【合唱指揮】三澤 洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
*エンヒェン役に出演を予定しておりました、リディア・トイシャーは、健康上の理由により来日が出来なくなりました。代わって、ユリア・バウアーが出演いたします。詳細はこちら
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
音楽を語りで繋ぐジングシュピール・歌唱劇・せりふの入った歌劇・・
その後も旅先で音楽教育を受け、ザルツブルクではミヒャエル・ハイドン(ヨセフ・ハイドンの弟)、ウィーンではフォーグラーにも師事している。
1804年、ブレスラウ(現ヴロツワフ)の歌劇場の指揮者に就任。しかし自身の理想主義的傾向や、父の投機的な性格が災いし、2年後には楽長を退く。この年にエッチング用の硝酸を誤飲し声を出せなくなった。(声を失うまではかなりの美声だったと言われている。)その後カールスルーエ、ミュンヘンなどドイツ各地を転々とする。
1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力する。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』上演以後、低落していた歌劇場を見事に再興させた。
1817年、ザクセン宮廷の楽長に任命され、ドレスデン歌劇場に移る。当時宮廷ではイタリア・オペラが主流であったが、彼は自身のドイツ・オペラをもって彼らに戦いを挑む。結果は見事成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功する。また、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行った。
1821年、ベルリンで『魔弾の射手』が初演される。大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てた。この『魔弾の射手』を観て、ヴァーグナーやベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人物が作曲家を志したとも言われている。この頃からヴェーバーの作風に暗い影が漂い始め、ピアノソナタ第4番の極度に厭世的な冒頭を持つ第1楽章などにその兆候が現れ始める。
1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』を作曲する。そのとき彼は結核を患っていたが、家族を養うため病苦を押して渡英し(家族には病状を隠していた)、自ら指揮棒を振り大成功を収めた。しかしその後病状が悪化、その年の6月5日にロンドンで客死した。その遺骨は、18年のちの1844年、彼の音楽的な遺志をつぐこととなったヴァーグナーの力添えにより、息子マックスに見守られながらドレスデンに帰還した。ウェーバー
初見ですが・・1,2幕が1時間40分程・・長い、眠い、眠い・・バイオリズム悪し、眠い
アガーテ・エディット・ハッラー 2幕後半のアリアが綺麗ですね、チェロ、ヴァイオリンソロとの歌唱が素晴らしい、3幕で目が覚めました、合唱、アリアとも中々聴かせます、3幕は音楽的にも充実した展開ですね・・何せ勉強せずに観に行きましたが1,2幕??・・筋書きに,流れもイマイチかな??・・音楽を語りで繋ぐジングシュピール・歌唱劇・せりふの入った歌劇・・
何せ、ウェーバーとはご縁が無い、最近クラリネット協奏曲を聴きましたが・・演奏会でも取上げる機会が無い様ですね・・
C.M.v.ウェーバー/全3幕【ドイツ語上演/字幕付】
オペラ劇場
森と狩人の物語。
百発百中の魔法の弾丸で射止めようとした愛の行方は?
上演時間:約2時間25分(休憩含む)14時ー17時
イタリア・オペラ全盛の時代にジングシュピール(台詞が入ったドイツ語の歌芝居)の様式でドイツの森を舞台に誕生した斬新な作品。初演は大成功を収め、瞬く間に世界中を席捲しました。このドイツ・ロマン派オペラの記念碑的作品によって、作曲家はドイツの国民オペラの創始者といわれています。劇的なオーケストレーションはワーグナーやR.シュトラウスに多大な影響を与え、アリアに匹敵するほど重きをおかれた合唱もこの作品の聴き所。ものがたり
17世紀、ボヘミアの森。若い猟師マックスは、森林保護官の娘アガ-テと恋仲にある。射撃大会で優勝すれば恋人との結婚と保護官後継が認められるのだが、調子が悪い。そこへ、悪魔に魂を売った猟師仲間のカスパールが、百発百中の魔弾を使うよう唆し、深夜の狼谷で魔弾を入手。領主臨席の大会当日、マックスが撃った最後の1発が悪魔の意でカスパールに命中。領主は魔弾の秘密を告白したマックスに追放を命じるが、事の顛末を見ていた隠者のとりなしで許される。
芸術監督】若杉 弘
【指 揮】ダン・エッティンガー
【演 出】マティアス・フォン・シュテークマン
【美 術】堀尾 幸男【衣 裳】ひびの こづえ
【照 明】沢田 祐二 【舞台監督】村田 健輔
キャスト
【オットカール侯爵】大島 幾雄 【クーノー】平野 忠彦
【アガーテ】エディット・ハッラー 【エンヒェン】ユリア・バウアー*
【カスパール】ビャーニ・トール・クリスティンソン
【マックス】アルフォンス・エーベルツ
【隠者】妻屋 秀和 【キリアン】山下 浩司
【花嫁に付き添う四人の乙女】鈴木 愛美、田島 千愛、高橋 絵理、中村 真紀
【ザミエル】池田 直樹
【合唱指揮】三澤 洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
*エンヒェン役に出演を予定しておりました、リディア・トイシャーは、健康上の理由により来日が出来なくなりました。代わって、ユリア・バウアーが出演いたします。詳細はこちら
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
音楽を語りで繋ぐジングシュピール・歌唱劇・せりふの入った歌劇・・
その後も旅先で音楽教育を受け、ザルツブルクではミヒャエル・ハイドン(ヨセフ・ハイドンの弟)、ウィーンではフォーグラーにも師事している。
1804年、ブレスラウ(現ヴロツワフ)の歌劇場の指揮者に就任。しかし自身の理想主義的傾向や、父の投機的な性格が災いし、2年後には楽長を退く。この年にエッチング用の硝酸を誤飲し声を出せなくなった。(声を失うまではかなりの美声だったと言われている。)その後カールスルーエ、ミュンヘンなどドイツ各地を転々とする。
1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力する。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』上演以後、低落していた歌劇場を見事に再興させた。
1817年、ザクセン宮廷の楽長に任命され、ドレスデン歌劇場に移る。当時宮廷ではイタリア・オペラが主流であったが、彼は自身のドイツ・オペラをもって彼らに戦いを挑む。結果は見事成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功する。また、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行った。
1821年、ベルリンで『魔弾の射手』が初演される。大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てた。この『魔弾の射手』を観て、ヴァーグナーやベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人物が作曲家を志したとも言われている。この頃からヴェーバーの作風に暗い影が漂い始め、ピアノソナタ第4番の極度に厭世的な冒頭を持つ第1楽章などにその兆候が現れ始める。
1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』を作曲する。そのとき彼は結核を患っていたが、家族を養うため病苦を押して渡英し(家族には病状を隠していた)、自ら指揮棒を振り大成功を収めた。しかしその後病状が悪化、その年の6月5日にロンドンで客死した。その遺骨は、18年のちの1844年、彼の音楽的な遺志をつぐこととなったヴァーグナーの力添えにより、息子マックスに見守られながらドレスデンに帰還した。ウェーバー