「青年よ大志を抱け」
これは札幌の郊外に今も銅像が立っているクラーク博士の北海道を去るにあたって、日本の若者に残した言葉です。
世の中の殆どの人は「志しの高いことは、人間として立派だ」というように考えております。中国の古典にも「燕や雀には大きな鳥の志しを理解することなどは出来ない」という言葉があります。
しかし私はこの一般的通念には多分に懐疑的なのです。「志し」とはそんなに崇高なものであり、人間にとって必要欠くべからずのものでしょうか?
かって若い日、私もなんの疑いもなくそう信じていた者の一人でした
だが、ある時、まるでパカッと桶の底が抜けたように、すべてのものの姿が見えてきた時、この一般的なるものの考え方が崩れ落ちて、そのはだかの姿が目の前に現れてきたのです
「志し」とは要するに「現在の飢え」ではないでしょうか?
それは、現在に満ち足りていないことであり、それを満ち足りさせる何かにあこがれ求めることではないでしょうか?
本当の飢え、つまりお腹がすくことについて考えてみましょう。我々人間は自然にお腹がすき、放っておくと飢えて死にます。そこで本能として、食べ物を求めるのです。では、この食べ物を求める欲望はは悪でしょうか?または善でしょうか?
もちろん、それは悪でも善でもありません、なざなら、それは自然法則に属するものだかです。同じように志しを求めるのも、精神的な飢えによるものです。それは悪でもなく、といって「たたえられるべき善」でも無論ありません。
これらの飢えの発生は、いわば人間としては「仕方のないものだ」というように私には思えます。
「志し」はまた「未来への期待」であるとも言えます。そしてその期待は現在の飢えを基点として発する意欲でもあります。
食べ物に対する飢えは、その強さは大体万人共通しています、さぜなら胃袋の大きさには、それほどの個人差はないからです。しかし、これが志しに対しての飢えだと、人によっては途方もないほどの個人差があるものです。孔子は「志しがあまりに強大になると狂になり、志し無くなると狷・けん がんこ となる。中庸が大切である」と述べております。
さて次に「期待」について考えてみましょう。
人間は期待する動物であると言ってもいいほど、我々は頻繁にいろいろなものに期待しつづけます。未来にも期待しますし、他人にも期待します。政治にも、社会にも、薬にも、信仰する宗教にも期待します。人生に疑問を抱くある人はその解決を急ぎ求めて・・唱元にも・・期待するではありませんか・・
我々は何かに期待している時は飢えており、そしてその時には安らぎはないのです。そこにあるのは、興奮です、そしてそこには、生き生きとした活発さもあります。しかしそれは静寂ではなく、平和でもないのです。このことの意味をよく理解する必要があります。一言にしてい言えば、それは「飢えとは足りていないこと」だからです。
この精神的飢餓感は、狂おしいまでに、志しの方向へむけて人々を駆り立てるのです。「志し定まれば、氣さかんなり」これは吉田松陰の言葉です。
たしかに志しに対しての決心が定まれば、意気盛んとなり、情熱は火のように燃え上がりましょう。しかし、この時に知っていなければならないのは、生氣エネルギーはチャージされないまま消費し続けているということです。そして、この生氣エネルギーの枯渇は、その人の生命を破壊に導くのです。事実松陰は若くして命を失っております。
氣が盛んと燃えていることは、たしかに生き生きとしていることです、しかし、ここで忘れてならぬことは、燃料補給です、そしてその補給は、心が静寂の内に安らいでいる時においてこそ自動的に供給されるものなのです。
肉体にとって活動と睡眠は必要なように、精神にも興奮と安息が必要なことに氣がついている人は非常に少ないことを、我々は明記しなければなりません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
期待なし 希望あり
音楽を聴くなり、散歩なり、心を静寂と活動・・現実と非日常の・・世界へ
何事も中庸であって・・右にブレ 左にブレ・・真中が・・
此れも 波風たたない 心 静寂が
これは札幌の郊外に今も銅像が立っているクラーク博士の北海道を去るにあたって、日本の若者に残した言葉です。
世の中の殆どの人は「志しの高いことは、人間として立派だ」というように考えております。中国の古典にも「燕や雀には大きな鳥の志しを理解することなどは出来ない」という言葉があります。
しかし私はこの一般的通念には多分に懐疑的なのです。「志し」とはそんなに崇高なものであり、人間にとって必要欠くべからずのものでしょうか?
かって若い日、私もなんの疑いもなくそう信じていた者の一人でした
だが、ある時、まるでパカッと桶の底が抜けたように、すべてのものの姿が見えてきた時、この一般的なるものの考え方が崩れ落ちて、そのはだかの姿が目の前に現れてきたのです
「志し」とは要するに「現在の飢え」ではないでしょうか?
それは、現在に満ち足りていないことであり、それを満ち足りさせる何かにあこがれ求めることではないでしょうか?
本当の飢え、つまりお腹がすくことについて考えてみましょう。我々人間は自然にお腹がすき、放っておくと飢えて死にます。そこで本能として、食べ物を求めるのです。では、この食べ物を求める欲望はは悪でしょうか?または善でしょうか?
もちろん、それは悪でも善でもありません、なざなら、それは自然法則に属するものだかです。同じように志しを求めるのも、精神的な飢えによるものです。それは悪でもなく、といって「たたえられるべき善」でも無論ありません。
これらの飢えの発生は、いわば人間としては「仕方のないものだ」というように私には思えます。
「志し」はまた「未来への期待」であるとも言えます。そしてその期待は現在の飢えを基点として発する意欲でもあります。
食べ物に対する飢えは、その強さは大体万人共通しています、さぜなら胃袋の大きさには、それほどの個人差はないからです。しかし、これが志しに対しての飢えだと、人によっては途方もないほどの個人差があるものです。孔子は「志しがあまりに強大になると狂になり、志し無くなると狷・けん がんこ となる。中庸が大切である」と述べております。
さて次に「期待」について考えてみましょう。
人間は期待する動物であると言ってもいいほど、我々は頻繁にいろいろなものに期待しつづけます。未来にも期待しますし、他人にも期待します。政治にも、社会にも、薬にも、信仰する宗教にも期待します。人生に疑問を抱くある人はその解決を急ぎ求めて・・唱元にも・・期待するではありませんか・・
我々は何かに期待している時は飢えており、そしてその時には安らぎはないのです。そこにあるのは、興奮です、そしてそこには、生き生きとした活発さもあります。しかしそれは静寂ではなく、平和でもないのです。このことの意味をよく理解する必要があります。一言にしてい言えば、それは「飢えとは足りていないこと」だからです。
この精神的飢餓感は、狂おしいまでに、志しの方向へむけて人々を駆り立てるのです。「志し定まれば、氣さかんなり」これは吉田松陰の言葉です。
たしかに志しに対しての決心が定まれば、意気盛んとなり、情熱は火のように燃え上がりましょう。しかし、この時に知っていなければならないのは、生氣エネルギーはチャージされないまま消費し続けているということです。そして、この生氣エネルギーの枯渇は、その人の生命を破壊に導くのです。事実松陰は若くして命を失っております。
氣が盛んと燃えていることは、たしかに生き生きとしていることです、しかし、ここで忘れてならぬことは、燃料補給です、そしてその補給は、心が静寂の内に安らいでいる時においてこそ自動的に供給されるものなのです。
肉体にとって活動と睡眠は必要なように、精神にも興奮と安息が必要なことに氣がついている人は非常に少ないことを、我々は明記しなければなりません。
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期待なし 希望あり
音楽を聴くなり、散歩なり、心を静寂と活動・・現実と非日常の・・世界へ
何事も中庸であって・・右にブレ 左にブレ・・真中が・・
此れも 波風たたない 心 静寂が