【軽羹】
「軽羹」は、鹿児島県をはじめとする九州特産の和菓子である。
名前の由来には諸説があるが、「軽い羹」という意味であるとされる。本来は棹物菓子であるが、近年は饅頭状として餡を仕込んだ「かるかんまんじゅう」が一般的になっている。
『製法』
原料としては、かるかん粉、砂糖、山芋を用いる。かるかん粉は米の粉であるが、特に軽羹用に鹿児島県を中心とした数社で製粉されている。
山芋については、大和芋(長芋)などよりも自然薯が適しているとされる。
これらの原料に水を加えて蒸し、弾力性の有る白色の半スポンジ様に仕上げたのが「軽羹」である。一般的な市販の「軽羹」は、水分が約40%、糖度は約40%、気孔率が約1.3センチ/グラムとなっている。
『歴史』
「軽羹」は、定亨3年(1686年)から正徳5年(1715年)頃に薩摩藩で誕生したとみられ、正徳5年の藩主用の献立には、羊羹などとともに「軽羹」の記載がある。薩摩藩で「軽羹」が成立した要因としては、原料の山芋が藩内のシラス台地で自生し、琉球や奄美群島で生産される砂糖も入手しやすかったことなどが挙げられる。
一方で近世の砂糖は高級品であり、天明6年(1801年)に菓子類の値下げが発令された頃には、「軽羹」一箱は日本酒一斗と同程度の価格だった。
その後、享和元年(1801年)の御船奉行の食事の記録にも「軽羹」の名出ている。鹿児島県には「ふくれ菓子」言われる黒砂糖、小麦粉、重曹を用いた一種の蒸しパンが古くからあり、この菓子が参考にされたとも言われる。
なお、20世紀後半までは、島津齋彬が江戸から招聘した明石出身の菓子職人・八島六兵衛によって安政元年(1854年)に「軽羹」が考案されたとうのが一般的だった。「軽羹」の誕生が安政以前に遡ることは明らかになったものの、誕生当時の「軽羹」がどのような品質のものであったかについては記録がなく、八島六兵衛が「軽羹」に何らかの改良を加えたのではないかとする説もある。
現在では、鹿児島県内の多数の菓子舖で作られている。宮崎県でも鹿児島県産の「軽羹」が広く販売されているとともに、県内でも製造されている。大分県別府市の菓子舖でも1952年以来、「軽羹」が製造・販売されており、別府を代表する銘菓となっている。最近では関東や関西でも和菓子の一種として使われるようになっている。
「軽羹饅頭」
【練り切り】
「練り切り」は、白餡に求肥やつくね芋を混ぜて練った生菓子の和菓子である。
適度な柔らかさと粘度があり、これを様々な形に彫刻した木型に押し付けたり、手やへらで整形して加工を施し、食紅やクチナシなどの食用色素で彩色した仕上げる。
季節に合わせた色、形の物が作られる。