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05/28   南部煎餅&草加せんべい

2014年05月28日 | スイ-ツ・お菓子

【南部煎餅】

「南部煎餅」は、小麦粉を原料にした煎餅の一種。八戸南部氏が藩主だった旧八戸藩地域に伝承の焼成煎餅である。
青森県南部地方、岩手県全域が主な生産・消費地で、同地域の名物になっている。

『由来』

その由来には諸説あるものの、大方は「長慶天皇創始説」を取っている。

「長慶天皇創始説」

南北朝時代の頃、南朝の長慶天皇か名久井岳の麓(現・水戸郡南部街)、長谷寺を訪れ、食事に困った時に家臣の赤松助左衛門が近くの農家から蕎麦粉とゴマを手に入れ、自分の鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを天皇に食事として出した。この食べ物が後の「南部煎餅」の始まりであるとする説である。

さらに天皇はその風味を非常に好んで度々、赤松に作らせ、天皇は煎餅に赤松の家紋「三階松」と南朝の忠臣、楠木正成の家紋「菊水」の印を焼き入れることを許したという。現在の「南部煎餅」には確かに「菊水」と「三階松」の紋所か刻まれている。昭和20年代初頭、八戸煎餅組合によって「南部せんべい」の創始起源の再整理が行われた際、この説を中心に整理された。

「八戸南部氏創始説」

応永18年の「秋田戦争」で八戸軍の兵士たちが戦場で蕎麦粉にゴマと塩を混ぜ鉄兜で焼いて食べたところ、将兵の士気大いに上がり、戦勝することが出来た。その後多くの合戦に携行され、「南部せんべい」の始まりとなったとする。

「キリスト創始伝承」

昭和10年頃に新郷村の盆踊り「ナニャドラ」から、突如誕生した新郷村「イエス・キリスト日本渡来伝説」と共に湧いた話の一つ。ゴルゴダの丘での処刑を逃れたキリストは、シベリア経由で日本に渡来した。八戸の八太郎に上陸して新郷村の沢口や迷ヶ平で生活したという。この時、キリストの郷里で食べていたパン(マッツアー)に似せて作ったとも、モーゼ伝説におけるマナだともいう。聖書ではマナは煮ても焼いてもよいとされ、煎餅状にしたものが、現在の「南部せんべい」の始まりであるという説である。

『歴史』

元々は八戸藩で作られた非常食である。現在は青森県と隣接する岩手県にまたがる地域、そして北海道にも存在する。

旧弘前藩側の津軽地方では「津軽煎餅」、「八戸煎餅」と呼ぶ。これは青森県西側に位置した弘前藩初代藩主・津軽為信は元々主南部家の家臣であり、南部家の領土の一部を後の弘前藩として独立したため、南部家支配下時代の風習がそのまま残ったことに由来する。

『概要』

小麦粉を水で練って円形の型に入れて堅く焼いて作る。これは、日本の古い煎餅作りの方法である。縁に「みみ」と呼ばれる薄くカリッとした部分があるのが特徴。

通常の「白せんべい」と呼ばれるものの他にゴマ、クルミ、落花生などを加えて焼いたものもある。近年ではイカ、カボチャ、リンゴ、ココアなどバリエーションが豊富である。クッキー状の生地で作られるものもある。

「白せんべい」はそのまま食べる他に、水飴や赤飯を挟んで食することもある。水飴を挟んだものは「飴せん」と呼ばれ、津軽地方の「津軽飴」を用いることが多い。

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【草加せんべい】

「草加せんべい」のルーツについては諸説あるが、最も親しまれているのは「おせんさん」説である。
草加が日光街道の宿場町として栄えた頃、「おせんさん」という女性が街道で旅人相手の茶屋で団子を売っていた。
この団子はたまに売れ残ってむしまうこともあった。団子は日持ちがしない。おせんさんはその団子を捨ててしまうのはもったいないと悩んでいた。ある日、茶屋の前を通りかかった侍から「団子を平らにつぶして天日で乾かし、焼き餅として売るむというアイデアをもらう。
早速焼き餅を作って売り出したところ、たちまち評判となり、その焼き餅は街道の名物になったという話が語り継がれている。

草加の観光マップなどで紹介されるこの話は、実は昭和時代に作られた物語である。

『歴史』

草加は昔から米所と言われ、多くの米が採れたことから、農家の人達は余った米を保存するために団子状にした米を乾かしたものを保存食として作っていた。

江戸時代になり、草加宿ができると、茶屋や物売りが軒を並べるようになる。この頃から保存食だった煎餅も店で売られるようになり、広まって行ったと考えられている。
当初は生地に塩を練り込んだものであったが、醤油が普及し始めた幕末から、焼いた煎餅に醤油が塗られるようになった。
明治後半になると、煎餅屋が増えてくるが、当時は煎餅屋としてではなく、雑貨などの商売の片手間に行われていた。

大正時代以降、煎餅の認知度が高くなる。そのきっかけは当時川越で行われた特別大演習で、「煎餅」が埼玉の名産品として天皇に献上されたことにある。
これが「天皇が召し上がったおいしい草加の煎餅」として名称が広がっていった。この頃から煎餅作りは地場産業として発達していった。

昭和に入っても順調だった煎餅産業は、太平洋戦争の激化から配給物資の統制により材料の米が手に入らず、煎餅屋は次々に廃業。警察の厳しい闇米取締の中、どうにか材料の米を手に入れて製造を続けた業者もいたが、煎餅産業にとって受難の時代がしばらく続いた。

しかし、この時危険を冒してまでも技術の伝承を途切れさせなかった事が後に幸いした。

昭和30年代米の統制解除や高度経済成長の波に乗って、駅屋デパートでの即売会などで、「草加せんべい」の知名度は飛躍的に上がった。

しかし、「草加せんべい」の知名度が上がるにつれ、草加以外の煎餅屋の製品や、異なる製法によるものに「草加せんべい」の名称を使う業者が横行し、その結果「草加せんべい」は全国的な知名度を得たものの、類似品や模倣品によって信頼が低下してしまった。
こうした状況を打開し、正真正銘の「草加せんべい」ブランドの復権と確立に向けて、草加市と業者が一致団結し、「本場の本物」の設定に続き「地域団体商標」を登録した。

『本場の本物』

その地域で伝統的に培われた「本場」の製法とその地域の材料を使った「本物」の味を作り続ける加工食品に対し、農林水産省が所管する「食品産業センター」が認定する地域食品ブランド表示基準により、平成18年に「草加せんべい」他6品目が第一号として認定された。
「草加せんべい」の基準は次のとおり。

・製造地ー草加・八潮・川口・越谷・鳩ヶ谷で製造

・材料ー関東近県で収穫された良質の粳米

・製造ー最低10年の経験を持つ職人が製造を管理

・焼き方ー押し瓦での型焼き叉は押し瓦方式を取り入れた堅焼き

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