一昨日、私の母校・湘南高校の最新のOB・OG名簿が送られてきました。知ってる先輩、同級生、後輩の名前をつい探してしまいましたが、全く消息不明の人、勤め先の連絡先だけを公表し、その他の自宅の連絡先などは一切掲載していない人(私の同級生では、弁護士になった人がそうしていました。やはり私的な情報公開には抵抗があるのでしょう)、無防備に全ての私的情報を公開している人(私もその一人ですが)、様々でした。合唱部の先輩の女性が独身のままドイツのオルガニストになっていたり、やはり合唱部の後輩で魅力的な女性だった人が未だに独身で弁護士をしていたり、そして当時付き合っていた女性が今は私が以前勤めていた江東区に住んでいたりと、感慨深い情報もあったりしました。
さて、黒沢清監督・共同脚本の'85年作品『ドレミファ娘の血は騒ぐ』をスカパーの日本映画専門チャンネルで再見しました。
恥ずかしさを研究する心理学の教授・平山(伊丹十三)の元ゼミ生である吉岡(加藤賢祟)を慕って、田舎から出て来たアキ(洞口依子)が、平山とそのゼミ生たち、吉岡、そしてアキの同級生だった照岡と展開する物語なのですが、あらすじを語るのが無意味に思えるほど、シーンごとに意味が独立していて、60年代後半以降のゴダール映画を見ているようでした。カメラに向かって演説する平山が学生たちからクラッカーを浴び、背をそらせて両手で顔を守りながら、ひたすら部屋の中を後退していくショットは、鈴木清順あるいは無声映画時代のフリッツ・ラングを思わせ、一部のシーンの音楽はまさに小津そのものだったり、ラストの河原の丈の高い草むらの中、煙りがたかれ、2つのグループの間で銃撃戦が行われるのをひたすら手持ちカメラの移動撮影で追うところは、もろゴダールの『アウト・ワン』だったり、映画好きにはたまらないシーンが沢山ありました。当時、フィルムセンターで黒沢さんが仲間の人たちに「旗の映画を作ろうと思っている」と語っていたのをはたで聞いたことが思い出されもしました。若い洞口さんの魅力も味わえるとともに、吉岡がギターを弾く男の指示に従って歌うシーンで(歌は「レミソミーソミー、レミソミーソミー、ソソソドシシララソソミソッレー、といった非常に牧歌的な歌)、次第にギターの男の手酷い扱いに怒り出し、二人で蹴り合いになりながらも、ギターの男はメロディーをひたすら弾こうとし、最後には吉岡もまた歌い出すという抱腹絶倒のシーンがあったことも付け加えておきたいと思います。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
さて、黒沢清監督・共同脚本の'85年作品『ドレミファ娘の血は騒ぐ』をスカパーの日本映画専門チャンネルで再見しました。
恥ずかしさを研究する心理学の教授・平山(伊丹十三)の元ゼミ生である吉岡(加藤賢祟)を慕って、田舎から出て来たアキ(洞口依子)が、平山とそのゼミ生たち、吉岡、そしてアキの同級生だった照岡と展開する物語なのですが、あらすじを語るのが無意味に思えるほど、シーンごとに意味が独立していて、60年代後半以降のゴダール映画を見ているようでした。カメラに向かって演説する平山が学生たちからクラッカーを浴び、背をそらせて両手で顔を守りながら、ひたすら部屋の中を後退していくショットは、鈴木清順あるいは無声映画時代のフリッツ・ラングを思わせ、一部のシーンの音楽はまさに小津そのものだったり、ラストの河原の丈の高い草むらの中、煙りがたかれ、2つのグループの間で銃撃戦が行われるのをひたすら手持ちカメラの移動撮影で追うところは、もろゴダールの『アウト・ワン』だったり、映画好きにはたまらないシーンが沢山ありました。当時、フィルムセンターで黒沢さんが仲間の人たちに「旗の映画を作ろうと思っている」と語っていたのをはたで聞いたことが思い出されもしました。若い洞口さんの魅力も味わえるとともに、吉岡がギターを弾く男の指示に従って歌うシーンで(歌は「レミソミーソミー、レミソミーソミー、ソソソドシシララソソミソッレー、といった非常に牧歌的な歌)、次第にギターの男の手酷い扱いに怒り出し、二人で蹴り合いになりながらも、ギターの男はメロディーをひたすら弾こうとし、最後には吉岡もまた歌い出すという抱腹絶倒のシーンがあったことも付け加えておきたいと思います。
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