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保坂和志『未明の闘争』

2014-01-31 10:14:00 | ノンジャンル
 蓮實重彦先生が紹介していた、アルノー・デプレシャン監督の'08年作品『クリスマス・ストーリー』をDVDで見ました。1965年アベルとジュノン(カトリーヌ・ドヌーヴ)は第一子ジョセフを授かり、2年後に長女のエリザベートが生まれますが、ジョセフは幼稚園生の時急性白血病にかかり、唯一の治療手段である骨髄移植でも相手が見つからず、3人目の子供のアンリが生まれて1年半後に6歳で亡くなります。6年後、最後の子イヴァンが生まれます。そして3人の子が大人に成長した時、アンリは劇場を買い取り、エリザベートの劇を上演しますが、失敗し、エリザベートはそれによってアンリが負った負債を全て自分が買い取るので、今後アンリが家庭に出入りすることを拒否し、承認されます。そして6年後、ジュノンはジョセフと同じ病にかかり、骨髄移植の相手としてアンリとエリザベートの息子ポールが適合していることが分かりますが、ポールが精神的に病弱な子だということもあって、ジュノンはアンリの骨髄をもらうことを選びます。そして晴れてアンリは家族に迎えられ、ジュノンの病気も全快するのでした。
 登場人物がやたらに多く人間関係も錯綜し、台詞もまたやたらに多く、途中からストーリーを追うのを諦めました。アイリスインを多様していたことを記しておきたいと思います。

 さて、朝日新聞の特集記事で藤沢周さんが推薦していた、保坂和志さんの'13年作品『未明の闘争』を読みました。
 夜明けに玄関のチャイムが鳴ったことについて、21ページから書き始められていて、そのことについたあれこれと書き手が考えたことが39ページまで書かれています。途中の部分を引用させていただくと、「(前略)チェーホフの『学生』も、ペテロは最初、焚火に手をかざして当たるという姿によって、農婦のワシリーサだけでなく学生自身が自分を重ね合わせていた。しかし終わりには、ペテロを身近に感じたのは学生ではなく、ワシリーサだった。ペテロとワシリーサという二人を重ね合わせて見る学生がいることによって、ペテロとワシリーサは重なり合った。ワシリーサがペテロに直接重なったのではない。『学生』は文庫で六ページぐらいしかないが、その短さの中でそういうズレが起こった。
 人は死んで霊となってこの世界にとどまるわけではないということだ。『学生』で言えば、ペテロはペテロとしてペテロの領域の中で泣き、農婦のワシリーサはただワシリーサとしてワシリーサの領域の中で泣いた。学生が目撃者となってこの二つを関係づけた。学生という目撃者がいなければ、ペテロが泣いたこととワシリーサが泣いたことは別々の出来事のままなのだが、学生が目撃したことでペテロがj泣いたこととワシリーサが泣いたことの関係が発見された。
 学生によって二つが関係づけられたと私は言っているのではない。二つの関係が学生によって発見されたのだ。だから私は、あのとき私の家の玄関のチャイムを押したのが通りすがりの酔っ払いだったとして、その酔っ払いに篠島の霊が働きかけてチャイムを押させたのではない。酔っ払いはただチャイムを気紛れで押してしまっただけだ。気紛れでなく、酔っ払いんの断固たる意思だったとしてもかまわない。
 もともと酔っ払いはかねてから帰宅途中にある私の家の玄関チャイムを押してみたくてしょうがなかった。帰宅途中といっても私の家は彼がいつも歩くルートにあったわけではない。私の家は小田急の線路と緑道がだいたい平行に通っているそのニ本の平行線の中間にある。緑道には高く真っ直ぐに伸びる北米原産のユリの木の並木がある。その緑道に沿って緑道とは別に歩道がついている車道が通っている。小田急の線路のようにそれに沿って狭めの、それでも車一台分の一方通行の道が通っている。観葉植物をレンタルする店のスピードを落とさずに私の家の前の坂を走ってくるトラックが走ってゆく道だ。(後略)」
 500ページを超える全体の30ページを読んだ辺りで、先を読むのを断念しました。描写の細かさと、ところどころで何を言っているのか理解できなかったからです。“文学”が好きな方は楽しく読めるかもしれません。

 →「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

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