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小林秀雄『学生との対話』

2014-07-07 08:50:00 | ノンジャンル
 川島雄三監督の'62年作品『しとやかな獣』をスカパーの日本映画専門チャンネルで再見しました。息子が会社で横領した金と小説家(山茶花究)の愛人の娘が小説家から借りた金で生活している老夫婦(伊藤雄之助、山岡久乃)の暮らしている団地の一室だけで進行するドラマで、息子が勤めている芸能プロの社長を高松英郎、その芸能プロの会計で、息子や社長、税理士、税務署員(船越英二)と関係を結び、自分の旅館を手に入れる女を若尾文子、インチキジャズシンガーを小沢昭一、銀座のママをミヤコ蝶々が演じ、伊藤が以前の赤貧の暮らしを思い出させた時の山岡の空虚な表情、無気味な夕焼け、若尾がアパートを去った後の風、若尾や高松や、飛び降りた船越を見物しに行く団地の住民たちが昇り降りする象徴的な長い階段などが印象に残りました。

 さて、朝日新聞で紹介されていた、'14年刊行の小林秀雄作品『学生との対話』を読みました。
 「はじめに」の部分から引用させていただくと、「本書は、小林秀雄氏が、昭和36年(1961)から53年(1978年)の間に、5回にわたって九州に赴き、全国60余の大学から集まった3、4百名の学生や青年と交した対話の記録です」。
 その中で印象に残った文は、染井吉野は明治になってから広まった桜の新種で、なぜはやったかというと、最も植木屋が育てやすかったからだそうで、植木屋を後援したのが文部省だったこと、小学校の校庭はどこにも桜があるが、あれは文部省と植木屋が結託して植えたようなものだということ、「匂う」という言葉はもともと「色が染まる」という意味だったこと、「大和心」や「大和魂」という言葉は、平安朝の文学に初めて出て来て、それ以後なくなってしまった言葉であること、大和魂とは学問ではなく、もっと生活的な知恵を言うこと、ある国の歴史はその国の言葉と離す事が出来ないということ、歴史を知るというのは、古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞こえたりするような、想像上の経験をいうこと、経験というものは、人間昔から誰でもしていることだが、この人間の経験なるものを、科学的経験というものに置き換えたということは、この300年来のことだということ、本居宣長によると、「考える」の古い形は「かむかふ」で、「か」は特別な意味のないことば、「む」は「み」すなわち自分の身、「かふ」は「交わる」ということ、だから、考えるということは、自分が身を以て相手と交わるということ、つまり、宣長の言によると、考えるとはつきあうという意味だということ、武士は禄をもらっているのだから、農民や町民を指導しなくてはいけない、これが武士道であること、学問をしたいというのは、人間の本能であり、学問をしたいのが本能じゃなくなったのは現代ぐらいなものであること、政治には正しい思想なんてなく、政治は事業であり、みんなで社会を作って、平和に、立派に生きていく、そういう方法であること、したがって政治で何々主義にするとかしないとかいうのは、技術的問題にすぎないこと、政治的に物を考えることは、一つの風習で、こんな風習とは戦わなくてはならないこと、凡人が、自分は死んでもこのほうが正しいと思うと、人を殺すこと、現代の教育に一番欠けているのは感情の教育、情操の教育であること、子供が一番深く影響を受けるのは、家庭の精神的、感情的雰囲気というものだということ、親が本当に子供に深い愛情を持っていれば、子供は直ちにこれに感応して、現実的な態度を取るものだということ、デカルトには、何か近代人の及びもつかない単純性があり、明るくて、建設的なものがあり、陰気なものは影も形もないこと、織田信長という人間の性格は、『信長公記(しんちょうこうき)という本を読めば、理解でき、読み終わって「ああ、信長ってやつは、こんなやつか」と思ったのなら、「俺は信長ってやつに興味を抱いてるな」とわかるし、あるいは、嫌なやつだと思ったら、「信長を嫌うものが自分の中にあるな」とわかる、これこそ自分を知ることであること、創作の喜びというものは、やっぱり自分で自分のナマの経験というものを整理したいという欲求があるということ、などです。
 難解な文章はなく、すらすらと読むことができました。

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

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