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福永武彦『草の花』その1

2014-03-20 10:16:00 | ノンジャンル
 今日は『奇跡』の映画監督、カール・テオドール・ドライヤーの47回忌です。素晴らしい映画を残してくれたことに改めて感謝したいと思います。

 さて、山田詠美さんが紹介していた、福永武彦さんの'54年作品『草の花』を読みました。
 「冬」 私は汐見茂思(しおみしげし)という人物を紹介するためにこの稿を起こした。私は東京郊外のサナトリウムの一病室に、彼と隣り合って、一年足らずの月日を過ごした。ストレプトマイシンがそろそろ出廻り出した頃で、値段はまだ高かった。成形手術は普及したが、肺葉摘出の手術はその緒に就いたばかりだった。私たち患者は皆、自分の死という観念に憑かれ、汐見が他人の死という観念に憑かれていたのを知ったのはずっと後のことだった。汐見が私の心を捉えたのは、何よりも、その精神の剛毅さだった。また、自分の過去のついては一切口を緘していたから、彼の孤独の原因が何であるのか、私に知るところはなかった。汐見は周囲の反対にもかかわらず、危険を伴う肺葉摘出の手術を強く希望し、枕の下のノオト二册を自分が死んだら私にあげると言った。汐見の手術は失敗し、彼は死んだ。私は、この手術は、基督教の洗礼を受けた汐見が故意に自分を殺すための方便ではなかったかと疑った。ひとり私は汐見茂思の二册のノオトに読み耽った。
 「第一の手帳」 人はすべて死ぬだろうし、僕もまたそのうちに死ぬだろう。ただ、人はそれがいつであるのか予め知ることが出来ないから、安んじて日々の生活の中に、空しく月日を送って行くのだ。僕は昔から孤独だった。愛する者たちは僕を去った。しかし愛している時に僕は生きていた。その時には生命の充足感があり、眩暈(げんうん)のような恍惚感はしばしば僕を訪れた。そのような幸福は何処へ去ったか。僕は徒らに現在の状態に苦しむのをやめて、僕の眼を過去に向けることにした。このあとに、僕は僕の過去から、十八歳の時の春と、二十四歳の時の秋との、二つの場合を選んで、各々を出来るだけ正確に再現してみたいと思う。
 十八歳で高等学校の二年生であった僕は、学年末の弓道部の合宿のために、伊豆半島の漁村にある大学寮へ来ていた。1年生の藤木の眼、――いつも僕の心を捉えて離さなかったのは、この黒い両(ふた)つの眼だ。あまりに澄み切って、冷たい水晶のように輝く、それがいつも僕の全身を一息に貫くのだ。僕は後輩から、「もっとどんどん藤木と話をしたりしなきゃ駄目だ。遠くでこそこそしてるから、かえって藤木だって気にするんですよ、しょっちゅう汐見さんに監視されてるみたいだと、この前言ってた」と言われた。僕は藤木の家に行ったこともあり、彼の妹とも親しくしていた。僕はその時、皆がポンポン船で大学寮に行くのに対し、船酔いする藤木のために二人で山越えしようと計画していたが、彼は皆と船で行くと言い、僕の意識の中を、失意の記憶が素早く過ぎて行った。それ以降、藤木は少しずつ僕から遠ざかった。ある日、岬の突端の近くで藤木の姿を見た。しかしその場所に行ってみると、彼の姿はなかった。またある日先輩から「靱(つよ)く人を愛することは自分の孤独を賭けることだ」と言われ、僕は「藤木の魂を理解しているのは僕だけです」と答えた。ある晩、遅れて合宿に合流した者の歓迎会でしこたま酔った僕は、波打ち際にしゃがんでると、藤木が声をかけてきた。僕は「君を愛しているので苦しくてしかたがない」と言うと、藤木は「汐見さんが僕のことで苦しんでいるのなんか厭だ」と言い、「愛するというのは自分に責任を持つことでしょう、僕にはその責任が持てないんです」と言った。僕は「遠くから君を愛しているだけでいい」と言い、明日の晩のコンパに一緒に行き、そこでもう一度考えてほしいと頼み、藤木は頷いた。
 僕はここまで書いた。藤木は高等学校の三年の冬休みに、敗血症で死んだ。発病してから3日の死だった。人間は死を迎えても、人々の記憶という形でなお生きている。したがって藤木はまだ僕の中で生きている。 
 合宿の打ち上げの日、僕と藤木と森と矢代の4人は小舟で会場に向かったが、途中で櫓を落としてしまい、森と矢代は陸を目指して泳ぐことになった。僕は藤木を抱き寄せるようにし、世界は二人だけのものとなった。そして翌日、母が病気ということで先に帰ることになった藤木は見送りに行った僕を一瞬見てくれ、僕の中に溢れるような幸福感が、胸いっぱいにふくらんだ。(明日へ続きます‥‥)

 →「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

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