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奥田英朗『我が家のヒミツ』その1

2016-11-20 05:21:00 | ノンジャンル
 今日はトルストイが亡くなってから、ちょうど106年となる日です。トルストイが今でも生きていたら、今の世界情勢をどのように見たでしょうか?

 さて、奥田英朗さんの’15年作品『我が家のヒミツ』を読みました。6つの短編からなる本です。
「虫歯とピアニスト」
 朝イチで電話をかけてきた患者は「ゆうべから親知らずが痛くて我慢できないので、これから行ってもいいですか」と訴えた。「オオニシフミオ」という名前を聞いて、敦美はドキリとした。まさか、同姓同名だとは思うのだが……。しかし、やって来た患者は、ピアニストの大西文雄本人であった。敦美は何年も前からこのピアニストのファンだったのだ。
 31歳の小松崎敦美は東京は広尾の歯科医院に事務員として勤務していた。大西さんは音楽雑誌でエッセイも書くが、自分の失敗談を面白おかしく書いたものが多く、気取らない人柄が敦美は大好きだった。レントゲン写真を撮ると、手術を要するころが分かり、大学病院の口腔外科を紹介することになった。大西さんの公演スケジュールはどうなっているのだろう。毎年桜のシーズンは、その北上に合わせるかのように全国ツアーをしているが、今はまさにそのシーズンだ。病院に問い合わせると、明後日の午前10時なら手術できるという受諾の回答が得られた。帰りゆくうしろ姿を見送りながら、心が弾んだ。ファンだった大西さんに会えた。人生、ときにはいいこともある。
 その日、家に帰ると、まずはインターネットで大西さんの公演スケジュールを調べた。やはり全国ツアーの最中で、九州から北上し、今は関東圏を回っているところだった。明後日は日比谷でコンサートがある。うそ、手術したその夜じゃん。頬の腫れはまだ引いていないはずだ。ファンと言いつつ、ここ最近コンサートはずっとご無沙汰していた。夫の孝明は結婚以来、三ヶ月に一度のペースで、自分が建てる理想の家の間取り図とデザイン画を描いてきた。その中の出来のいいものが、額に入れて飾ってある。ただしここ一年ほど、孝明は間取り図を描いていない。どうやら自分たち夫婦には子供が出来そうにないと、薄っすら感じ始めたからだ。この額、外そうかな。敦美は胸の中でつぶやいた。
 2日後の午後、大西さんが頬を腫らした姿を現した。腫れが引くのにどれくらいかかるか、気にしている。今夜の公演は予定通り行うらしい。プログラムは確かムソルグスキー作曲『展覧会の絵』のはずだ。あんな大作を、親知らずを抜いたばかりで大丈夫だろうか。大西さんは、20代の頃はとても尖っていた。その頃、女優と結婚して一般マスコミの注目も浴びた。強く記憶に残っているのは、その結婚がすぐに破綻し、相手の女優が「退屈な人」とコメントして話題になったことだ。大西さんは、30代になるとウィーンに移住し、日本から姿を消した。その間、何をしていたかは不明で、自分でも多くを語らない。ピアノに全く触れない期間もあったらしい。大西さんは40歳になって日本に帰ってきた。そして変わった。ギラギラした部分が消え、スタッカート奏法も抑え気味になり、レガートでよく弾くようになった。全体にシンプルでおとなしくなったのだ。敦美は5歳から母親の言いつけでピアノを習い始めたが、ついた先生がどれも厳しかったせいで、あまり楽しく思うことはなかった。それはクラッシック音楽を嫌う結果ともなった。変わったのは社会人になって、帰国後の大西さんの演奏を聴いてからだっただから大西さんには感謝したいのだ。大西さんが腫れた頬を押さえて帰っていく。窓の外では並木の桜が満開だった。
 その夜は、大西さんのコンサートが気になって、何をしていても上の空だった。その時、義姉から電話があった。夫の母が敦子たちに子供がいないのを気にしていて、一度病院で診てもらったらと言っているらしい。いきなり義母に切り出されてショックを受ける代わりに、事前に知らせておいた方がいいかなと思ったと義姉は言った。敦子は義姉に礼を言って、電話を切った。その後、スマートフォンでツイッターをチェックすると〈今夜はなんか鬼気迫ってた。どうしたの大西さん。歯を食いしばる大西さんを久しぶりに見ました〉「あはは」憂鬱な気分なのに、笑ってしまった。
 土曜日の午後、八王子へ大西さんのコンサートを聴きに行った。早めに会場に着いてしまったので、ロビーに併設されているカフェでコーヒーを飲んだ。この会場にいるのは全員、大西さんのファンである。周囲の人々を眺めまわし、客層の幅広さに改めて感心した。基本は女性ファンだが、中学生からお年寄りまでいる。共通するのは、みんなカジュアルな服装で、全体にリラックスムードが漂っているところだ。演奏は素晴らしかった。こんなに無垢でナチュラルな『展覧会の絵』を聴いたのは初めてだった。(明日へ続きます……)

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