また昨日の続きです。
・━━戦後民主主義の代表的知識人と言えば、東京大学の名誉教授だった丸山眞男(1914~96、政治思想史)です。すでに戦前戦中から福澤研究に着手されていて、戦後、現在のような福澤像を定着させることにもなりました。
「リベラル陣営だけにとどまらず、戦後日本のアカデミズムにおける最高権威だった方ですから、本来なら福澤の本質に早くから気づいておかしいような諸先生までが、みなさん、丸山眞男の「典型的な市民的自由主義者」だという福澤評に、右へ倣えしてしまったのですね。
日清戦争以降の福澤が帝国主義者に転向したとは丸山も認めていましたが、そういうことでもないんです。福澤という人は、その場その場の状況次第で言うことがコロコロ変わる人ではありましたが、その思想は終始一貫しています。日本のアジア侵略戦争と帝国主義への道のりは、福澤によって先導されたと言っても過言ではありません。
・それにしても、安倍首相の演説です。あれは福沢諭吉の思想が彼ら自身とほぼ同じであることを示している。ところが一般の国民は福澤を民主主義の先駆者と誤解しているため、安倍首相たちが福澤を持て囃(はや)す意図がわからないのでは。自民党は何もかもわかってしまっているんですね。
・あの1968年にも政府は、“明治100年”を大々的に祝った。今回ほどには帝国主義の再評価じみた企図は感じられず、敗戦で失われた自信の回復、さらには“愛国心”の涵養(かんよう)に重点が置かれていた印象だが、10月23日の記念式典をはじめ、やはり凄まじい情熱をもって、多彩なイベントが展開され、国民運動のようなムーブメントが演出されたものである。
・激動の時代であった。ベトナム反戦運動の高まり、プラハの春、文化大革命、パリ五月革命、日本でも安保闘争前夜……という国内外の情勢のもとで、とりわけ知識層の反発は根強く、歴史学者らを中心とする54の学会が批判声明を出した。労働組合や市民団体の抵抗も今回とは比較にならないほどだったが、国策はやはり強力だ。“明治100年”は、この4年前の東京オリンピックの開催と東海道新幹線の開通、二年後の大阪万博などとも連動して、物質文明万能の社会心理を大いに盛り上げたと同時に、「戦後」という時代区分のあり方や価値基準に、相当の冷や水を浴びせたとも言われる。
話を現代に戻す。“明治150年”に先立つ2015年8月12日。安倍首相は地元・山口市内で開かれた「内閣総理大臣を囲む会」で講演し、「明治50年が寺内正毅(まさたけ)、100年が佐藤栄作。私が〔今後の総裁選で〕頑張って、平成30年まで行けば、〔明治150年も〕山口県出身の安倍晋三が首相ということになる」と語った。維新以降の一世紀半にもわたって、節目の年はすべて長州閥で、というわけだ。
・先にも引いた『時事小言』には、福沢諭吉のエッセンスが詰め込まれているかのようだ。弱肉強食、適者生存の新自由主義グローバリズムに呑(の)み尽くされゆく世界にあって、世襲だらけの安倍自民党がこれから日本の何をどうしようとしているのかがよくわかる。政治権力を私物化し、まるで先祖伝来の家業でもあるかのように継承し続ける自意識の肥大化は、とりわけ安倍首相の一族に顕著である。彼の母親で岸信介元首相の娘でもある安倍洋子氏(1928年生まれ)が、『文藝春秋』2016年6月号のインタビューで、その前年に安保法制を可決・成立させた息子について、1960年に日米安保条約の改定を強行した岸氏を引き合いに出して、「父と同じように国家のために命を懸けようとする晋三の姿を見ていると、宿命のようなものを感じずにはいられませんでした」と語っていた。記事のタイトルは「晋三は「宿命の子」です」だった。
・この種の勘違い人間にとって、藩閥政治を正当化した福澤の主張は実に都合がよい。
・社会ダーウィニズムのロジックは、権力や資本のあらゆる蛮行を正当化してしまえるように見えやすい。帝国主義、侵略戦争、民族差別、労働者の搾取、障害者の“安楽死”政策、不妊手術、世襲による支配……。福澤諭吉に代表された明治の日本の思想潮流は、この悪魔の思想をアジアで最も早く受容し、わがものとして、周辺諸国に対する優越意識を肥大化させながら近代化を進めていったが、そのことは必然的に、先達としての欧米列強の絶対的優位を認めるしかない軛(くびき)を伴った。ゆえに蓄積されるコンプレックスの反動が暴発したアジア・太平洋戦争の一時期を例外として、そのことは現代に至ってもなお日本人の心性を規定し続けている。政治や経済、市民生活の現実と、第2章で取り上げた元外交官・岡崎久彦や安倍首相のアングロ・アメリカ信仰とも言うべき態度は、そうした実態をきわめてわかりやすく示しているとは言えまいか。
(また明日へ続きます……)
→「Nature Life」(表紙が重いので、最初に開く際には表示されるまで少し時間がかかるかもしれません(^^;))(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
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・━━戦後民主主義の代表的知識人と言えば、東京大学の名誉教授だった丸山眞男(1914~96、政治思想史)です。すでに戦前戦中から福澤研究に着手されていて、戦後、現在のような福澤像を定着させることにもなりました。
「リベラル陣営だけにとどまらず、戦後日本のアカデミズムにおける最高権威だった方ですから、本来なら福澤の本質に早くから気づいておかしいような諸先生までが、みなさん、丸山眞男の「典型的な市民的自由主義者」だという福澤評に、右へ倣えしてしまったのですね。
日清戦争以降の福澤が帝国主義者に転向したとは丸山も認めていましたが、そういうことでもないんです。福澤という人は、その場その場の状況次第で言うことがコロコロ変わる人ではありましたが、その思想は終始一貫しています。日本のアジア侵略戦争と帝国主義への道のりは、福澤によって先導されたと言っても過言ではありません。
・それにしても、安倍首相の演説です。あれは福沢諭吉の思想が彼ら自身とほぼ同じであることを示している。ところが一般の国民は福澤を民主主義の先駆者と誤解しているため、安倍首相たちが福澤を持て囃(はや)す意図がわからないのでは。自民党は何もかもわかってしまっているんですね。
・あの1968年にも政府は、“明治100年”を大々的に祝った。今回ほどには帝国主義の再評価じみた企図は感じられず、敗戦で失われた自信の回復、さらには“愛国心”の涵養(かんよう)に重点が置かれていた印象だが、10月23日の記念式典をはじめ、やはり凄まじい情熱をもって、多彩なイベントが展開され、国民運動のようなムーブメントが演出されたものである。
・激動の時代であった。ベトナム反戦運動の高まり、プラハの春、文化大革命、パリ五月革命、日本でも安保闘争前夜……という国内外の情勢のもとで、とりわけ知識層の反発は根強く、歴史学者らを中心とする54の学会が批判声明を出した。労働組合や市民団体の抵抗も今回とは比較にならないほどだったが、国策はやはり強力だ。“明治100年”は、この4年前の東京オリンピックの開催と東海道新幹線の開通、二年後の大阪万博などとも連動して、物質文明万能の社会心理を大いに盛り上げたと同時に、「戦後」という時代区分のあり方や価値基準に、相当の冷や水を浴びせたとも言われる。
話を現代に戻す。“明治150年”に先立つ2015年8月12日。安倍首相は地元・山口市内で開かれた「内閣総理大臣を囲む会」で講演し、「明治50年が寺内正毅(まさたけ)、100年が佐藤栄作。私が〔今後の総裁選で〕頑張って、平成30年まで行けば、〔明治150年も〕山口県出身の安倍晋三が首相ということになる」と語った。維新以降の一世紀半にもわたって、節目の年はすべて長州閥で、というわけだ。
・先にも引いた『時事小言』には、福沢諭吉のエッセンスが詰め込まれているかのようだ。弱肉強食、適者生存の新自由主義グローバリズムに呑(の)み尽くされゆく世界にあって、世襲だらけの安倍自民党がこれから日本の何をどうしようとしているのかがよくわかる。政治権力を私物化し、まるで先祖伝来の家業でもあるかのように継承し続ける自意識の肥大化は、とりわけ安倍首相の一族に顕著である。彼の母親で岸信介元首相の娘でもある安倍洋子氏(1928年生まれ)が、『文藝春秋』2016年6月号のインタビューで、その前年に安保法制を可決・成立させた息子について、1960年に日米安保条約の改定を強行した岸氏を引き合いに出して、「父と同じように国家のために命を懸けようとする晋三の姿を見ていると、宿命のようなものを感じずにはいられませんでした」と語っていた。記事のタイトルは「晋三は「宿命の子」です」だった。
・この種の勘違い人間にとって、藩閥政治を正当化した福澤の主張は実に都合がよい。
・社会ダーウィニズムのロジックは、権力や資本のあらゆる蛮行を正当化してしまえるように見えやすい。帝国主義、侵略戦争、民族差別、労働者の搾取、障害者の“安楽死”政策、不妊手術、世襲による支配……。福澤諭吉に代表された明治の日本の思想潮流は、この悪魔の思想をアジアで最も早く受容し、わがものとして、周辺諸国に対する優越意識を肥大化させながら近代化を進めていったが、そのことは必然的に、先達としての欧米列強の絶対的優位を認めるしかない軛(くびき)を伴った。ゆえに蓄積されるコンプレックスの反動が暴発したアジア・太平洋戦争の一時期を例外として、そのことは現代に至ってもなお日本人の心性を規定し続けている。政治や経済、市民生活の現実と、第2章で取り上げた元外交官・岡崎久彦や安倍首相のアングロ・アメリカ信仰とも言うべき態度は、そうした実態をきわめてわかりやすく示しているとは言えまいか。
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