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斎藤貴男『「明治礼賛」の正体』その4

2020-12-23 06:08:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

・岡崎氏の主張の前提となっていた「資源の乏しい島国」という自国への認識は正しい。さらに言えば、日本は国土が狭く、地震国で、ひっきりなしに台風などによる水害に見舞われる。何よりも少子高齢化が進む一方だ。大国でいられる要素など、何ひとつありはしないのである。無理をしようとするから他国に暴虐の限りを尽くした揚げ句に焼け野原にされ、アメリカへの隷属構造が、今、この時代により深化させられようとしているのだ。

・新しい「小日本主義」を構築していく以外には、この国に未来はないと、筆者は考えている。
 「小日本主義」とは、日露戦争の前後から大正の前期にかけて、幸徳秋水(1871~1911)や安部磯雄(1865~1949)、内村鑑三(1861~1930)、三浦銕(てつ)太郎(1874~1972)らが藩閥政治による帝国主義に抗(あらが)って提唱した思潮だ。ルーツは自由民権運動家だった中江兆民(なかえちょうみん)(1847~1901)の「小国主義」とされる。

・筆者が「小日本主義」にあえて「新しい」の形容を加えたのは、三浦らの考え方が、武力による膨張には異を唱えても、他国に対する経済的な支配というベクトル自体は否定していなかったことによる。

・なるほど経済成長はみんなが幸福になるための有効な“手段”になり得はする。だが日本では絶えず、これを手段ならぬ“目的”として捉えてきた。だから人権や生命、尊厳、人倫といった重要な価値が、時にこれを阻害しかねない要因と見なされ、忌むべき対象とされる。

・もうそろそろ私たちは、武力によろうとよるまいと、支配・被支配という社会構造からの脱皮と、真の成熟とを、本気で目指してもよい時期なのではあるまいか。

・振り返ってみれば、日本は黒船の衝撃からわずか五十年にして、西欧列強に伍(ご)して植民地争奪の列に加わり、松陰が「幽囚録」に描いた誇大妄想ともいえる青写真の過半を現実のものとしていたのである。しかも、多くの人びとがその現実に疑いをはさむことはなかっただけではなく、酔い痴れてさえいたといえなくはない。

・明治という時代は半ばまでこそ新しい時代の幕開けに向けた期待があったが、日清・日露の戦争での勝利を境に、多少なりとも萌芽しつつあった民主主義の息の根が止められてしまったように思えてなりません。明治30~40年代は帝国主義と言ってしかるべきでしょう。

・石橋湛山は大正10(1921)年の段階で、週刊経済誌『東洋経済新報』に、台湾と朝鮮に独立を認めるべきだ、満州も放棄せよという重要な社説「一切を捨つるの覚悟」を書いています。彼は未来を見据えていた。その後の昭和は、社会全体がそうした眼力を失っていった時代ではないでしょうか。

・私たちの国は、植民地にはされずに済んだ代わりに、かけがえのないものを失い、あまりに多くの人々を傷つけ過ぎている。悲しい近代史を経て、現代の私たちがまず為すべきは、「明治」を取り戻すことなどでは断じてない。“明治150年”の間に溜(た)まりに溜まった負の遺産の清算なのである。

 私たちがこれからどのような道を進むべきか、多くの示唆に富んだ本でした。

 →「Nature Life」(表紙が重いので、最初に開く際には表示されるまで少し時間がかかるかもしれません(^^;))(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

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