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川上未映子『発光地帯』

2011-09-26 06:38:00 | ノンジャンル
 川上未映子さんの'11年作品『発光地帯』を読みました。読売新聞ウェブサイト「ヨリモ」に'09年3月2
日から'10年2月15日の間に連載されたエッセイに加筆修正を施し、書下ろしを加えて作られた本です。
 週刊誌の連載エッセイといったように、特定の読者を想定されたものではなく、一つのエッセイの字数制限もなく書かれたもののようでしたが、そうすると読者へのサービス精神は著しく低下するようでもあり、前著『夏の入り口、模様の出口』に比べると、かなり「暗い」印象を持ちました。
 しかし一方で、未映子さんは自由に文章を書くと、それは自然と「詩」になっていく傾向があるようでもあり、例えばあとがきの最後の文章、「みんなにとってそれが何回目なのかはわからないけれど、いまは冬です。一度きりの何かが一度きりの何かにたいして過ぎ去ろうとしている一度きりの最大の最中、でもいつだって、初めての気がしないのはなぜだろうって、そしてまたいつの日か、ちゃんともどって来ることができるようなそんな気がしてしまうのはなぜだろうってそんなことを、いつも思って。」などにそれを強く感じました。
 その他にも、子どものころ母親に連れていかれた教会で、神さまの証拠を見せてほしいと著者がいうと、「風は見えますか?」「見せません」「何によって風が吹いているのがわかりますか?」「木が揺れたり、音がしたりするからです」「それとおなじことが起こっていませんか?」「わかりません」「つまり、目には見えない、けれどもそこにあるとわかること。それが神さまの証拠です」という会話がなされた話とか、「14歳のときに曲線を走るバスから顔を出して、町は白くて、ああもうぜんぶのことに感想を持つのをやめればいいのだつまり生きる生きられる生きてゆくための方法はたったそれだけなのだと気づいたときに、これはとんでもない発見だと思って思って安心して、そのまま殴られるように眠ったことを思いだす。なんて静かなんだろう、なんて静かなんだろうと、眠りながら思って。」という文章とか、「(力がみなぎっている時と、そうでない時があって)そういうことって、生きていればよくあることで、いつだってそこに思い至る原因があれば納得することもできるしその原因を取り除こうとしてつぎの行動を思うこともできるけど、こういうのって、理由がないから、じっとしているよりほかない。」という文章とか、「中原中也賞の授賞式には愉しむつもりで出かけたんですが、式が始まると、胸がつまり、作品のことや詩や創作のことをスピーチしようと考えていた内容が散り散りになってしまい、考えていたことはひとつも話せなかった(ほとんど考えていなかったけれど)、そのかわりに涙がぽろぽろと汗のように出た。『ユリイカ』に寄稿したときのこと、詩集を一冊つくって、この世界に存在させることを思うと興奮して夜も眠れなかったこと、たくさんたくさん詩を書いたこと、真夏に青土社の薄暗いひんやりした階段をあがって、うなだれ、詩を読んでもらいに行ったことなどを思いだした。」という文章とか、「なにかを乗り越えようとして生きている人を思えばぐっと胸が熱くなる。がんばればぜんぶのことが報われる、なんてことは言えないけれど、かんがれなんてもう言ってはいけない世間になってるらしいけれど、それでもがんばれがんばれ、見てるから、がんばれがんばれって思ってしまう。」という文章とか、それはもう、いい「話」がたくさんあり、また、「柴田元幸さんの家に数名が集まり、談話、そしてお茶を飲んだ」という「縁」を感じる文章もあって、また未映子さんとの距離が縮まったような錯覚に陥らせてくれる、そんな素晴らしい本でした。
 ここに引用させてもらった文章を読まれて、少しでも興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、是非とも本を直接手に取ってお読みいただきたいと思います。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

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