また昨日の続きです。
その夜、昼間の条件を伝えると、里美はたちまち表情を暗くし、「あ、そう」とため息をついた。「みんな、自分たちにどれだけ便宜を図ってくれるのか、そればかりなのよね」「しょうがないよ。世間ってそういうものだから」「毎日そんな住民エゴに直面して、ちょっとうんざりしてる。わたしやめたくなってきた」「政治って、きっときれいごとじゃ済まないんだよ。いいじゃん。一方通行にします、街灯をLEDにします、だからわたしに入れてくださいって言えば。当選すればこっちのもんだから、それで有権者のエゴをかわしながら、一歩ずつ理想に向かって進めばいいじゃん。深々と頭を下げて、何を言われても笑顔で通して、嫌がられても握手の手を差し出して、人が集まるところには図々しく押し掛けて、そうやって名前を覚えてもらわないと、先に進めないのが政治の世界なんだよ」里美が眉をひそめ、康夫を見つめていた。「選挙戦だって、きちんと事務所を構えて、ウグイス嬢を雇って、フル装備でやればいいじゃないか。ドブ板選挙、大いに結構。プライドをかなぐり捨てて、駅前で通勤通学の市民と握手して、自転車にのぼりを立てて走り回って、そういうことしてやっと勝てるのが選挙なんだよ。おれはいくらでも協力する」「ありがとう。頑張ってみる」とうるんだ目で言い、椅子から立ち上がった。テーブルを回り、康夫のところへ来て抱きつく。そのままソファに押し倒された。「ただいま!」タイミングがいいのか悪いのか、そのとき洋介が帰って来て、二人は慌てて離れた。
翌日、夫の協力が得られそうだという里美の話を聞いたサルビアの会の安田が自宅まで押しかけてきた。「ホームページに推薦文を書くとかならいいですけどね」「あっ、それはぜひお願いします。奥さんの人となりがうかがえるエッセイなんかを、ぜひ」「あとビラ配りとか、選挙カーの運転とか、そういうのも手伝えますけど」「それからお金の話で恐縮ですが、大塚さんからカンパしていただけるそうで」「じゃあ百万円」「ちょっと、金額はよく考えて、あとで決めましょう」里美が目を丸くし、即座に制した。
話が決まると、早速地元商店街の空き店舗を2週間だけ借り、即席の選挙事務所を開設した。「言いたいことはわかってるから、言わないように」里美はポスターを手にした康夫に、すかさず釘を刺した。それは機嫌がよろしくないときの、事務的な口調だった。そうやって準備を進める中、あっという間に告示日がやって来て、立候補届を提出し、1週間の選挙運動が始まった。里美にとっては就職試験以来、25年振りくらいの合否判定だろう。
選挙運動が始まると、康夫は選挙カーの運転手を買って出た。主婦の家事が一段落した11時頃を狙って、大型団地の入口に選挙カーを停めた。ビールケースを逆さにして置き、両脇にのぼりを立てた。里美が登場し、スピーチを開始する。道行く人は誰も立ち止まらなかった。里美が声を張り上げて演説する。スピーチ原稿は康夫が書いたものだった。20分ほど演説をしたが、反応はゼロだった。意気消沈しそうになるも、里美が「じゃあ次、行きましょう」と空元気を出し、みんなで明るく振る舞った。そんなこんなで初日は散々だった。「勝てそうな気がしない」力なく声を発する。「そんなこと言うな。みんながサポートしてるんだぞ」康夫が叱咤した。
翌日も選挙運動は盛り上がらず、空振りしている感は拭えなかった。三日目に、商店街で演説していたときは、自民党の現職の市議候補がやって来て、「あと十分で替わってください」と勝手なことを言われた。仕方なく譲ったところ、そこに二世の国会議員でハンサムな党青年局長が応援演説に現われ、一瞬にして凄い人だかりとなった。さすがに里美もへこんだようだった。康夫の中でふつふつと使命感が沸き起こった。ここで妻を助けないと、夫の価値はないのではないか。「おれがしゃべる。応援演説だ。君は少し休んでろ」「……うそでしょ?」安田がマイクを取り、駅前を行き交う人に呼び掛けた。「みなさん、こちらは市議会議員候補・大塚里美です。大塚里美の夫は、はるな市在住のN木賞作家・大塚康夫さんです。ベストセラーになった〈井端さん一家〉シリーズはテレビドラマ化もされたので、みなさんもご存知かと思います。今日はその夫が妻の応援に駆けつけました。それでは大塚康夫さん、お願いします」驚いたことに、何人かが安田のアナウンスに足を止めた。ユーモアをこめて話始めた康夫のスピーチに、あちこちで笑いが起こった。おお、ウケている。康夫は体が熱くなった。何事かと人が足を止め、集団心理からあっという間に人垣が出来た。(また明日へ続きます……)
その夜、昼間の条件を伝えると、里美はたちまち表情を暗くし、「あ、そう」とため息をついた。「みんな、自分たちにどれだけ便宜を図ってくれるのか、そればかりなのよね」「しょうがないよ。世間ってそういうものだから」「毎日そんな住民エゴに直面して、ちょっとうんざりしてる。わたしやめたくなってきた」「政治って、きっときれいごとじゃ済まないんだよ。いいじゃん。一方通行にします、街灯をLEDにします、だからわたしに入れてくださいって言えば。当選すればこっちのもんだから、それで有権者のエゴをかわしながら、一歩ずつ理想に向かって進めばいいじゃん。深々と頭を下げて、何を言われても笑顔で通して、嫌がられても握手の手を差し出して、人が集まるところには図々しく押し掛けて、そうやって名前を覚えてもらわないと、先に進めないのが政治の世界なんだよ」里美が眉をひそめ、康夫を見つめていた。「選挙戦だって、きちんと事務所を構えて、ウグイス嬢を雇って、フル装備でやればいいじゃないか。ドブ板選挙、大いに結構。プライドをかなぐり捨てて、駅前で通勤通学の市民と握手して、自転車にのぼりを立てて走り回って、そういうことしてやっと勝てるのが選挙なんだよ。おれはいくらでも協力する」「ありがとう。頑張ってみる」とうるんだ目で言い、椅子から立ち上がった。テーブルを回り、康夫のところへ来て抱きつく。そのままソファに押し倒された。「ただいま!」タイミングがいいのか悪いのか、そのとき洋介が帰って来て、二人は慌てて離れた。
翌日、夫の協力が得られそうだという里美の話を聞いたサルビアの会の安田が自宅まで押しかけてきた。「ホームページに推薦文を書くとかならいいですけどね」「あっ、それはぜひお願いします。奥さんの人となりがうかがえるエッセイなんかを、ぜひ」「あとビラ配りとか、選挙カーの運転とか、そういうのも手伝えますけど」「それからお金の話で恐縮ですが、大塚さんからカンパしていただけるそうで」「じゃあ百万円」「ちょっと、金額はよく考えて、あとで決めましょう」里美が目を丸くし、即座に制した。
話が決まると、早速地元商店街の空き店舗を2週間だけ借り、即席の選挙事務所を開設した。「言いたいことはわかってるから、言わないように」里美はポスターを手にした康夫に、すかさず釘を刺した。それは機嫌がよろしくないときの、事務的な口調だった。そうやって準備を進める中、あっという間に告示日がやって来て、立候補届を提出し、1週間の選挙運動が始まった。里美にとっては就職試験以来、25年振りくらいの合否判定だろう。
選挙運動が始まると、康夫は選挙カーの運転手を買って出た。主婦の家事が一段落した11時頃を狙って、大型団地の入口に選挙カーを停めた。ビールケースを逆さにして置き、両脇にのぼりを立てた。里美が登場し、スピーチを開始する。道行く人は誰も立ち止まらなかった。里美が声を張り上げて演説する。スピーチ原稿は康夫が書いたものだった。20分ほど演説をしたが、反応はゼロだった。意気消沈しそうになるも、里美が「じゃあ次、行きましょう」と空元気を出し、みんなで明るく振る舞った。そんなこんなで初日は散々だった。「勝てそうな気がしない」力なく声を発する。「そんなこと言うな。みんながサポートしてるんだぞ」康夫が叱咤した。
翌日も選挙運動は盛り上がらず、空振りしている感は拭えなかった。三日目に、商店街で演説していたときは、自民党の現職の市議候補がやって来て、「あと十分で替わってください」と勝手なことを言われた。仕方なく譲ったところ、そこに二世の国会議員でハンサムな党青年局長が応援演説に現われ、一瞬にして凄い人だかりとなった。さすがに里美もへこんだようだった。康夫の中でふつふつと使命感が沸き起こった。ここで妻を助けないと、夫の価値はないのではないか。「おれがしゃべる。応援演説だ。君は少し休んでろ」「……うそでしょ?」安田がマイクを取り、駅前を行き交う人に呼び掛けた。「みなさん、こちらは市議会議員候補・大塚里美です。大塚里美の夫は、はるな市在住のN木賞作家・大塚康夫さんです。ベストセラーになった〈井端さん一家〉シリーズはテレビドラマ化もされたので、みなさんもご存知かと思います。今日はその夫が妻の応援に駆けつけました。それでは大塚康夫さん、お願いします」驚いたことに、何人かが安田のアナウンスに足を止めた。ユーモアをこめて話始めた康夫のスピーチに、あちこちで笑いが起こった。おお、ウケている。康夫は体が熱くなった。何事かと人が足を止め、集団心理からあっという間に人垣が出来た。(また明日へ続きます……)