昨日、足尾銅山跡の探索の旅から帰ってきました。帰りは日光の観光を楽しむだけで帰ってくるつもりでしたが、最後にまた“足尾”が立ち現れるという体験をしました。詳細については、後日改めてご報告させています。
さて、蓮實重彦先生と黒沢清さん、青山真治さんの対談本『映画長話』の中で紹介されていた、岡田茉莉子さんの自伝『女優 岡田茉莉子』を読みました。600ページ近い大著です。
“映画”そのもののようなドラマティックなエピソードに満ち溢れ、それを淡々と書いていく岡田さんの文才にも驚嘆しましたが、私や私の母の人生とも妙に重なる部分が多くあり、読んでいて何度も不思議な感情にとらえられました。そうした部分について、以下、引用させていただきます。
・「(前略)宝塚歌劇出身だった母は、女の子らしいお稽古事も私に習わせてくれた。女の子は6歳の6月6日から芸事の稽古をはじめると、上達が早いという言い伝えがあり、私も6歳のその日から習いはじめた。それは踊りが目的というより、立ち居振舞いが女らしく奥ゆかしくなると、母は考えたからだろう。
日本舞踊のほかにも、琴、三味線、ピアノ、バレエを習ったが、モダンなものより日本舞踊のほうが好きで、子供ながらにも三味線の音色のほうに魅せられた。」
※私の母も、茶道、洋裁、和裁などを、“教養”として両親から習わせてもらっていたそうです。
・「(高校の帰り、演劇部の同級生と偶然に、映画館で、サイレント映画『滝の白糸』を見て、その夜、)母と叔父、それに小学生になっていた姪と夕食をとっていた折り、私は今日見てきたばかりの映画の話をした。その映画の題名が『滝の白糸』であることを、私が口にした瞬間、母と叔母はなにもいわず、目を伏せ、黙ってしまった。(中略)(それから)どれほど時間が過ぎたのだろうか。(自室に戻った)私の背後で、母の声がした。
『許してね。お父さんのことを、あなたになにも話さなくって』私は母の声を、黙って背中で聞くしかなかった。
『あなたのお父さんは、映画俳優だった。岡田時彦。あなたが1歳のとき、30歳の若さで、亡くなったのよ。岡田時彦は、芸名。ほんとうの名は、高橋英一‥‥』
言葉が途切れた。私がようやく母のほうを振り向いたとき、母は両手で顔をおおい、肩を震わせていた。父のない子ゆえに、私をきびしく育ててきた気丈な母が、はじめて見せた、しのび泣く姿だった。
(中略)やがて私に父のことは語らないと決めていた母も、しだいに心の張りが解けてきたのだろうか、岡田時彦について、私に話してくれるようになった。もちろん当然のことながら、父との楽しかった思い出だけを語ってくれた。」
※岡田時彦は戦前の小津の無声映画の常連の1人。『淑女と髭』のユーモラスな演技や、『東京の合唱(コーラス)』での失業者の演技など、印象的なイメージとして、私の記憶にも鮮明に残っている役者さんです。
・岡田時彦は1903年(明治36年)に東京で生まれ、逗子開成中学に入学。文学や映画に熱中し、16歳の時、小田原に居を構えていた谷崎潤一郎を訪ね、親しくなったといいます。(その時、谷崎は33歳で、既に著明な作家でした。)、そして、岡田時彦の命名が谷崎だったということは、初めて知りました。ちなみに、谷崎は私の愛する作家の1人であり、ここでも不思議な縁を感じました。
※ちなみに、私の母は、岡田茉莉子さんと同じ学年。岡田さんの誕生日の前年の11月29日に産まれています。(明日へ続きます‥‥)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
さて、蓮實重彦先生と黒沢清さん、青山真治さんの対談本『映画長話』の中で紹介されていた、岡田茉莉子さんの自伝『女優 岡田茉莉子』を読みました。600ページ近い大著です。
“映画”そのもののようなドラマティックなエピソードに満ち溢れ、それを淡々と書いていく岡田さんの文才にも驚嘆しましたが、私や私の母の人生とも妙に重なる部分が多くあり、読んでいて何度も不思議な感情にとらえられました。そうした部分について、以下、引用させていただきます。
・「(前略)宝塚歌劇出身だった母は、女の子らしいお稽古事も私に習わせてくれた。女の子は6歳の6月6日から芸事の稽古をはじめると、上達が早いという言い伝えがあり、私も6歳のその日から習いはじめた。それは踊りが目的というより、立ち居振舞いが女らしく奥ゆかしくなると、母は考えたからだろう。
日本舞踊のほかにも、琴、三味線、ピアノ、バレエを習ったが、モダンなものより日本舞踊のほうが好きで、子供ながらにも三味線の音色のほうに魅せられた。」
※私の母も、茶道、洋裁、和裁などを、“教養”として両親から習わせてもらっていたそうです。
・「(高校の帰り、演劇部の同級生と偶然に、映画館で、サイレント映画『滝の白糸』を見て、その夜、)母と叔父、それに小学生になっていた姪と夕食をとっていた折り、私は今日見てきたばかりの映画の話をした。その映画の題名が『滝の白糸』であることを、私が口にした瞬間、母と叔母はなにもいわず、目を伏せ、黙ってしまった。(中略)(それから)どれほど時間が過ぎたのだろうか。(自室に戻った)私の背後で、母の声がした。
『許してね。お父さんのことを、あなたになにも話さなくって』私は母の声を、黙って背中で聞くしかなかった。
『あなたのお父さんは、映画俳優だった。岡田時彦。あなたが1歳のとき、30歳の若さで、亡くなったのよ。岡田時彦は、芸名。ほんとうの名は、高橋英一‥‥』
言葉が途切れた。私がようやく母のほうを振り向いたとき、母は両手で顔をおおい、肩を震わせていた。父のない子ゆえに、私をきびしく育ててきた気丈な母が、はじめて見せた、しのび泣く姿だった。
(中略)やがて私に父のことは語らないと決めていた母も、しだいに心の張りが解けてきたのだろうか、岡田時彦について、私に話してくれるようになった。もちろん当然のことながら、父との楽しかった思い出だけを語ってくれた。」
※岡田時彦は戦前の小津の無声映画の常連の1人。『淑女と髭』のユーモラスな演技や、『東京の合唱(コーラス)』での失業者の演技など、印象的なイメージとして、私の記憶にも鮮明に残っている役者さんです。
・岡田時彦は1903年(明治36年)に東京で生まれ、逗子開成中学に入学。文学や映画に熱中し、16歳の時、小田原に居を構えていた谷崎潤一郎を訪ね、親しくなったといいます。(その時、谷崎は33歳で、既に著明な作家でした。)、そして、岡田時彦の命名が谷崎だったということは、初めて知りました。ちなみに、谷崎は私の愛する作家の1人であり、ここでも不思議な縁を感じました。
※ちなみに、私の母は、岡田茉莉子さんと同じ学年。岡田さんの誕生日の前年の11月29日に産まれています。(明日へ続きます‥‥)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)