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ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊(下)』その2

2011-07-09 06:40:00 | ノンジャンル
 昨日、東京の恵比寿までジョセフ・クーデルカの写真展を見に行ってきましたが、展覧会独自のパンフレットはなく、結局写真集「クーデルカ 1968」を手に入れることはできませんでした。が、帰り、厚木の有隣堂に寄って時間つぶしをしていたら、今月号の『jazz Life』に「ビル・エヴァンス『ワルツ・フォー・デビイ』録音50周年記念特集」という巻頭記事があるのを発見し、その場で衝動買いすることができました。『Sunday at the Village Vanguard』収録の『Alice in Wonderland』のスコアまで掲載されているお特本です。ビル・ファンの方、すぐに書店へGO!
 
 さて、昨日の続きです。
 3つ目の例、江戸時代の日本は、外の世界から孤絶した(鎖国中だった)人口密度の高い島で、重要物資の輸入がほとんどなく、持続可能な自給自足生活を続けていた点でティコピコ島と類似していますが、ティコピコ島の十万倍の人口と、先進的な産業経済、裕福で強力な支配層に束ねられた高度な階層社会、さらに環境問題解決に向けての上意下達型の強固な体制を有する点で、ティコピコ島と大きく異なっていました。戦国時代の終わりから江戸時代の初期にかけて、平和の持続と生産性の高い作物の伝来による農業生産力の向上、湿地開拓・水害対策の進歩による水稲生産の増大などによって、総人口が倍増し、建築・燃料・飼料用としての木材への要求が増すなどして、一旦は森林破壊を招きましたが、1657年の明暦の大火を契機にして、持続性のある木材資源への関心が高まり、幕府は3つの方針転換をしました。その1つ目は、農業に対する圧力を緩和するための、魚介類やアイヌとの貿易で得た食料への依存の増大、2つ目は、晩婚化、授乳期間の長期化による授乳性無月経、堕胎、嬰児殺などによる人口ゼロ増加の実現(これには、夫婦レベルでの自主的な産児制限も多分に与っていたようです)、そして3つ目は、石炭の使用増加や木造以外の建築物の増加、燃費のよい竈の設置、火鉢の使用などによる木の消費の削減奨励です。やがて植林による森林管理が進み(この実現には、江戸時代の日本が単独の政府に統治されていたこと、樹木の生長に有利な条件に恵まれていたことなどが、多分に関与していました)、“トップダウン”方式による環境問題解決の良例となったのでした。
 もちろんここに上げた3つの例以外にも、環境問題を解決した例は多く存在し、過去2、3世紀の間だと、ドイツ、デンマーク、スイス、フランス、その他の西ヨーロッパ諸国は日本同様のトップダウン方式で問題を解決してきました。
 さて、これまでは過去の例について検証してきましたが、以下では現代のトピックをいくつかピックアップして論じていきます。
 第10章では、ルワンダとその隣国ブルンジで起こった大虐殺について語られます。この2国の人口密度はアフリカで最も高く、世界でも最も高い部類に入ります。両国では多数派のフツ族が少数派ツチ族を虐殺する事件が起こりましたが、これは1980年以降、人口の増加に食料の増加がついていけず、1994年になってついに食料調達のための所有地の再編成と人口の過剰分の一掃を目的とする大虐殺が始まったと著者は説明していますが、一方で、人口圧力が必ず大虐殺につながる訳ではないと念を押してもいます。
 第11章では、イスパニョーラ島を二分する西のハイチと東のドミニカについて語られます。元々島全体は広く森林に覆われていましたが、現在ハイチ側は不毛の平野、ドミニカ側は緑の風景が広がっています。どちらも一旦は森林伐採で緑を失いましたが、ハイチ側は土地が痩せていたのに対し、ドミニカ側は多雨だったこと、ハイチ側ではフランスが奴隷による大規模なプランテーションを早々と実現したのに対し、ドミニカ側はスペインからの移民が多かったこと、ドミニカ側が組織的な環境対策を講じることができたのに対し、ハイチ側は度重なる独裁政権の交代の中で、そうした対策を講じることができなかったことが、現在の景観の相違を生んだのだと著者は説明します。(またまた続きは明日へ‥‥)

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/