御伽草子
原文
中頃のことなるに、津の国難波(なにわ)の里に、爺(おうじ)と姥(うば)と侍(はんべ)り。姥四十に及ぶまで、子のなきことを悲しみ、住吉(すみよし)に参り、なき子を祈り申すに、大明神(だいみようじん)あはれと思(おぼ)し召して、四十一と申すに、たゞならずなりぬれば、爺喜び限りなし。やがて十月(とつき)と申すに、いつくしき男子(おのこ)をまうけゝ。
さりながら、生まれおちてより後、背(せい)一寸ありぬれば、やがてその名を、一寸法師(いつすんぼうし)とぞ名づけられたり。年月を経(ふ)る程に、はや十二、三になるまで育てぬれども背(せい)も人ならず。つく〴〵と思ひけるは、たゞ者にてはあらざれ、たゞ化物(ばけもの)風情(ふぜい)にてこそ候へ。我らいかなる罪の報(むくい)にて、かやうの者をば住吉より賜りたるぞや、浅ましさよと、見る目も不憫(ふびん)なり。
夫婦思ひけるやうは、「あの一寸法師めを、何方(いずかた)へもやらばやと思ひける」と申せば、やがて一寸法師この由(よし)承(うけたまわ)り、親にもかやうに思はるゝも、口惜(くちおし)しき次第かな。何方(いずかた)へも行かばやと思ひ、刀なくてはいかゞと思ひ、針を一つ姥に請ひ給へば、取り出(い)だし給(た)びにける。すなはち麦わらにて柄鞘(つかさや)をこしらへ、都へ上(のぼ)らばやと思ひしが、自然(しぜん)舟なくてはいかゞあるべきとて、また姥に、「御器(ごき)と箸(はし)と給(た)べ」と申しうけ、名残(なごり)惜しく止むれども、立ち出でにけり。住吉の浦より御器を舟としてうち乗りて、都へぞ上りける。
現代語訳
それ程昔でもないのですが、摂津の国の難波という所に、お爺(じい)さんとお婆(ばあ)さんがいました。お婆さんは四十歳になっても子がいないことを悲しみ、住吉大社にお詣(まい)りして、子を授かるようにお祈りしました。すると住吉大明神はしみじみと思うところがあり、お婆さんが四十一歳の高齢であるのに身ごもったので、お爺さんは大層喜びました。そして「十(と)月(つき)」と申して、かわいらしい男の子をもうけたのでした。
しかし、生まれてから後も背丈が一寸(約三㎝)なので、そのうちに一寸法師と名付けられました。そして年月が経ち、早くも十二、三歳になるまで育てたのですが、背丈は人並みになりません。それでお爺さんとお婆さんは、「これはただ者ではない、まるで化け物のようですよ。私達はどのような罪の報いで、このような子を住吉の神様から授かったのでしょう。何とも残念なことです」とつくづくと嘆くので、見ていても気の毒なことでした。
そして老夫婦が思うことには、「あの一寸法師めを、どこかにやってしまおうかと思うのだが」と話しているのを、やがて一寸法師は知ってしまい、「親にもそのように思われているのは残念なことだ。それなら(何処(どこ)かにやられる前に)自分から何処(どこ)へなりとも行ってしまおう」と思いました。そして「刀がなくてはどうにもならない」と思って、お婆さんに針を一本くれるようお願いすると、取り出して与えてくれました。それで一寸法師は麦わらで針の刀の柄(つか)と鞘(さや)をこしらえて、都へ上ろうとしたのですが、おのずから舟がなくてはどうしたものかと思い、またお婆さんに「お椀(飯を盛る器)と箸(はし)を下さい」と言ってもらいました。(お爺さんとお婆さんはさすがに)名残惜しく引き留めたのですが、一寸法師は旅立っていきました。住吉の浜辺からお椀を舟にして乗り、都へと上って行ったのです。
解説
御伽草子(おとぎぞうし)とは、室町時代から江戸時代初期にかけて作られた、短編物語類の総称です。総数は四百に及ぶとのことですが、類似するものの数え方にもより、確定できません。また多くの場合は作者がわかりません。主人公は貴族や武家や僧侶の他に、名もない庶民が数多く登場します。擬人化された動物や器物が主人公になるなど、子供に受け容れられやすい話もあります。
現在、いわゆる「御伽話(おとぎばなし)」と呼ばれる子供向きの絵本がありますが、これはには明治中期に児童文学者の巖谷小波(いわやさざなみ)が、御伽草子や江戸時代以来の昔話を教育的に改作した、一連の『日本昔噺(むかしはなし)』によるものが多く、「御伽草子」は「御伽話」とは、話の内容が異なる場合があります。
ここに載せた『一寸法師』は、御伽草子としては比較的新しく、室町時代の成立かどうかは確証がないそうです。それでも一般に知られている「御伽話」との相違点が面白いので、この話を選びました。
現代ならばの四十歳~五十歳はまだまだ働き盛りですが、古来、四十歳から十年ごとに長寿の祝いをしていましたから、四十歳ならば立派に老人でした。二人はせっかく授かった一寸法師を「化物風情」と嘆き、どこかに捨ててしまおうと相談します。それを知った一寸法師は、捨てられるくらいならと、自分から家出をしてしまうのです。
その後、都の宰相の家に仕えた一寸法師は、十三歳になる姫を妻にしようと企みます。原文には「いかにもして案をめぐらし、わが女房にせばやと思ひ」と記されていますから、見かけによらないしたたか者なのです。そして管理を任されている米を粉にして、寝ている姫の口に付け、自分は空(から)の袋を持って泣き真似をします。そして宰相に、私の米を姫が奪ったのだと嘘をつき、宰相が怒って追い出すように仕向け、法師は姫をまんまと連れ出します。そして流れ着いた島で鬼と戦い、鬼が忘れた打ち出の小槌を振るって大きく成るのですが、御伽話のように清水寺に参詣の途中の出来事ではありません。よく似た『小男の草子』という御伽草子には、清水寺に毎日通う場面がありますから、巖谷小波が参考にしたのでしょう。その後、子宝にも恵まれ、殿上人に出世して、年老いた両親も呼んで幸せに暮らしたということは同じです。そして最終的には、住吉社の霊験譚(れいげんたん)になっています。
このように御伽草子の一寸法師は、現代人の感覚からはかなりの「問題児」です。現代の一寸法師は、乱世をしたたかに生きる逞(たくま)しさを失い、教育的配慮から「良い子」に作り変えられてしまいました。現代の幼児に話して聞かせるには、原作のままでは具合が悪いかもしれません。しかし室町時代の庶民の願望や逞しさに触れることも、大切な歴史の学びですから、状況に応じて、使い分けるのがよいのでしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『御伽草子』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
中頃のことなるに、津の国難波(なにわ)の里に、爺(おうじ)と姥(うば)と侍(はんべ)り。姥四十に及ぶまで、子のなきことを悲しみ、住吉(すみよし)に参り、なき子を祈り申すに、大明神(だいみようじん)あはれと思(おぼ)し召して、四十一と申すに、たゞならずなりぬれば、爺喜び限りなし。やがて十月(とつき)と申すに、いつくしき男子(おのこ)をまうけゝ。
さりながら、生まれおちてより後、背(せい)一寸ありぬれば、やがてその名を、一寸法師(いつすんぼうし)とぞ名づけられたり。年月を経(ふ)る程に、はや十二、三になるまで育てぬれども背(せい)も人ならず。つく〴〵と思ひけるは、たゞ者にてはあらざれ、たゞ化物(ばけもの)風情(ふぜい)にてこそ候へ。我らいかなる罪の報(むくい)にて、かやうの者をば住吉より賜りたるぞや、浅ましさよと、見る目も不憫(ふびん)なり。
夫婦思ひけるやうは、「あの一寸法師めを、何方(いずかた)へもやらばやと思ひける」と申せば、やがて一寸法師この由(よし)承(うけたまわ)り、親にもかやうに思はるゝも、口惜(くちおし)しき次第かな。何方(いずかた)へも行かばやと思ひ、刀なくてはいかゞと思ひ、針を一つ姥に請ひ給へば、取り出(い)だし給(た)びにける。すなはち麦わらにて柄鞘(つかさや)をこしらへ、都へ上(のぼ)らばやと思ひしが、自然(しぜん)舟なくてはいかゞあるべきとて、また姥に、「御器(ごき)と箸(はし)と給(た)べ」と申しうけ、名残(なごり)惜しく止むれども、立ち出でにけり。住吉の浦より御器を舟としてうち乗りて、都へぞ上りける。
現代語訳
それ程昔でもないのですが、摂津の国の難波という所に、お爺(じい)さんとお婆(ばあ)さんがいました。お婆さんは四十歳になっても子がいないことを悲しみ、住吉大社にお詣(まい)りして、子を授かるようにお祈りしました。すると住吉大明神はしみじみと思うところがあり、お婆さんが四十一歳の高齢であるのに身ごもったので、お爺さんは大層喜びました。そして「十(と)月(つき)」と申して、かわいらしい男の子をもうけたのでした。
しかし、生まれてから後も背丈が一寸(約三㎝)なので、そのうちに一寸法師と名付けられました。そして年月が経ち、早くも十二、三歳になるまで育てたのですが、背丈は人並みになりません。それでお爺さんとお婆さんは、「これはただ者ではない、まるで化け物のようですよ。私達はどのような罪の報いで、このような子を住吉の神様から授かったのでしょう。何とも残念なことです」とつくづくと嘆くので、見ていても気の毒なことでした。
そして老夫婦が思うことには、「あの一寸法師めを、どこかにやってしまおうかと思うのだが」と話しているのを、やがて一寸法師は知ってしまい、「親にもそのように思われているのは残念なことだ。それなら(何処(どこ)かにやられる前に)自分から何処(どこ)へなりとも行ってしまおう」と思いました。そして「刀がなくてはどうにもならない」と思って、お婆さんに針を一本くれるようお願いすると、取り出して与えてくれました。それで一寸法師は麦わらで針の刀の柄(つか)と鞘(さや)をこしらえて、都へ上ろうとしたのですが、おのずから舟がなくてはどうしたものかと思い、またお婆さんに「お椀(飯を盛る器)と箸(はし)を下さい」と言ってもらいました。(お爺さんとお婆さんはさすがに)名残惜しく引き留めたのですが、一寸法師は旅立っていきました。住吉の浜辺からお椀を舟にして乗り、都へと上って行ったのです。
解説
御伽草子(おとぎぞうし)とは、室町時代から江戸時代初期にかけて作られた、短編物語類の総称です。総数は四百に及ぶとのことですが、類似するものの数え方にもより、確定できません。また多くの場合は作者がわかりません。主人公は貴族や武家や僧侶の他に、名もない庶民が数多く登場します。擬人化された動物や器物が主人公になるなど、子供に受け容れられやすい話もあります。
現在、いわゆる「御伽話(おとぎばなし)」と呼ばれる子供向きの絵本がありますが、これはには明治中期に児童文学者の巖谷小波(いわやさざなみ)が、御伽草子や江戸時代以来の昔話を教育的に改作した、一連の『日本昔噺(むかしはなし)』によるものが多く、「御伽草子」は「御伽話」とは、話の内容が異なる場合があります。
ここに載せた『一寸法師』は、御伽草子としては比較的新しく、室町時代の成立かどうかは確証がないそうです。それでも一般に知られている「御伽話」との相違点が面白いので、この話を選びました。
現代ならばの四十歳~五十歳はまだまだ働き盛りですが、古来、四十歳から十年ごとに長寿の祝いをしていましたから、四十歳ならば立派に老人でした。二人はせっかく授かった一寸法師を「化物風情」と嘆き、どこかに捨ててしまおうと相談します。それを知った一寸法師は、捨てられるくらいならと、自分から家出をしてしまうのです。
その後、都の宰相の家に仕えた一寸法師は、十三歳になる姫を妻にしようと企みます。原文には「いかにもして案をめぐらし、わが女房にせばやと思ひ」と記されていますから、見かけによらないしたたか者なのです。そして管理を任されている米を粉にして、寝ている姫の口に付け、自分は空(から)の袋を持って泣き真似をします。そして宰相に、私の米を姫が奪ったのだと嘘をつき、宰相が怒って追い出すように仕向け、法師は姫をまんまと連れ出します。そして流れ着いた島で鬼と戦い、鬼が忘れた打ち出の小槌を振るって大きく成るのですが、御伽話のように清水寺に参詣の途中の出来事ではありません。よく似た『小男の草子』という御伽草子には、清水寺に毎日通う場面がありますから、巖谷小波が参考にしたのでしょう。その後、子宝にも恵まれ、殿上人に出世して、年老いた両親も呼んで幸せに暮らしたということは同じです。そして最終的には、住吉社の霊験譚(れいげんたん)になっています。
このように御伽草子の一寸法師は、現代人の感覚からはかなりの「問題児」です。現代の一寸法師は、乱世をしたたかに生きる逞(たくま)しさを失い、教育的配慮から「良い子」に作り変えられてしまいました。現代の幼児に話して聞かせるには、原作のままでは具合が悪いかもしれません。しかし室町時代の庶民の願望や逞しさに触れることも、大切な歴史の学びですから、状況に応じて、使い分けるのがよいのでしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『御伽草子』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。