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『鑑真和上東征伝』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-04-16 20:50:43 | 私の授業
鑑真和和上東征伝


原文
 是の歳(とし)、唐の天宝元載(がんさい)冬十月、日本の天平十四年、歳次(さいじ)は壬午(じんご)也。時に大和尚(だいわじよう)、揚州(ようしゆう)の大明寺に在りて、衆の為に律を講ず。栄叡(ようえい)・普照(ふしよう)、大明寺に至り、大和尚(だいわじよう)の足下(あしもと)に頂礼(ちようらい)し、具(つぶ)さに本意(ほい)を述べて曰く、「仏法東流して日本国に至る。其の法有りと雖(いえど)も、伝法の人無し。日本国に昔、聖徳太子有りて曰く、『二百年の後、聖教日本に興(おこ)らん』と。今此の運に鍾(あた)る。願はくは大和尚、東遊して化(け)を興(おこ)したまへ」と。
 大和尚答へて曰く、「昔聞く。南岳の慧思(えし)禅師、遷化(せんげ)の後、生を倭国の王子に託し、仏法を興隆して衆生(しゆじよう)を済度(さいど)すと。又聞く、日本国の長屋王、仏法を崇敬して千の袈裟(けさ)を造り、此の国の大徳・衆僧に棄施(きせ)す。其の袈裟の縁上に四句を繍著(しゆうちやく)して曰く、『山川(さんせん)域(いき)を異(こと)にすれども、風月は天を同うす、諸(もろもろ)の仏子に寄せて、共に来縁を結ばん』と。此を以て思量するに、誠に是(これ)仏法興隆有縁(うえん)の国なり。今我が同法の衆中、誰か此の遠請(えんせい)に応(こた)へて、日本国に向ひて、法を伝ふる者有らんや」と。
 時に衆黙然(もくねん)として一(ひとり)も対(こた)ふる者無し。良(やや)久くして、僧祥彦(しようげん)有り。進みて曰く、「彼の国太(はなは)だ遠くして性(生)命存し難し。滄海(そうかい)淼漫(びようまん)として、百に一つも至ること無し。人身は得難(えがた)く、中国には生れ難(がた)し。進修未だ備はらず。道果未だ剋(きざ)まず。是故に、衆僧緘黙(かんもく)して対(こた)ふること無きのみ」と。大和尚曰く、「是法事の為なり。何ぞ身命(しんめい)を惜まん。諸人去(ゆ)かずんば、我即ち去(ゆ)くのみ」と。祥彦曰く、「大和尚若し去(ゆ)かば、彦(げん)も亦随(したが)ひて去かむ」と。・・・・
 宝字七年癸卯(きぼう)の春、弟子の僧忍基(にんき)、夢に講堂の棟梁(とうりよう)、摧折(さいせつ)するを見る。窹(さめ)て驚懼(きようく)す。大和尚遷化(せんげ)せんと欲するの相(そう)也と。仍(より)て諸(もろもろ)の弟子を率(い)て、大和尚の影を摸(うつ)す。是の歳五月六日、結跏趺坐(けつかふざ)し、西に面して化(け)す。春秋七十七。

現代語訳
 年は唐の天宝元年冬十月、日本の天平十四年(742)、干支は壬午(みずのえうま)のことであった。時に鑑真は揚州の大明寺で、多くの僧のために律を講義していた。栄叡(ようえい)と普照(ふしよう)は大明寺を訪れ、鑑真の足下にひれ伏し、(唐まで来た)本来の目的を細かく申し述べて言った。「仏法は東へと伝わり、日本に至りました。しかし仏の教えを説いた法(のり)(戒律)はあっても、それを説き伝える師がいません。日本には昔、聖徳太子という人がいて、『二百年の後、聖なる仏の教が日本で盛んになるであろう』と言われました。今こそその時に当たります。どうか大和尚、日本へお渡りになり、我等を教化して下さいますよう」と。
 すると鑑真が答えて言った。「昔、南岳の慧思(えし)禅師は亡くなられた後、日本の王子(聖徳太子)に生まれ変わり、仏法を盛んにして人々を救済されたと聞いている。また日本の長屋王は仏法を崇敬して千枚の袈裟(けさ)を作り、この国の多くの僧に贈られた。その袈裟の縁(ふち)には、『山川は遠く離れているが、同じ天の下の風が吹き、同じ月を見ている。これを多くの仏弟子に贈り、共に良い仏縁を結びたい』という句が刺繍(ししゆう)されていたという。これらのことを考えると、実に日本は仏法興隆に縁のある国である。今、法を同じくする者達(弟子達)の中で、誰かこの遠国の要請に応じ、日本に行き法(戒律)を伝える者はいるだろうか」と。
 その時、弟子達は皆押し黙ったまま、誰一人答える者がいない。ややしばらくして、僧祥彦(しようげん)が進み出て言った。「その国は大層遠く、生命の危険があります。海は果てしなく、百に一つもたどり着けません。人の身は掛け替えがなく、ましてこの中国に生まれることは難しいことでございます。私達はまだ修行途上であり、その成果をまだ得ておりません。そのため誰もが押し黙ったまま、お答えできないのでございます」と。すると鑑真が言った。「これは仏法の為である。なぜ身命を惜しむのか。お前達が行かないなら、私が行くだけのことである」と。すると祥彦が「大和尚が行かれるなら、祥彦もお供致します」と言った。・・・・
 天平宝字七年(763)癸卯(みずのとう)の春、弟子の僧忍基(にんき)が夢に唐招提寺講堂の棟(むね)や梁(はり)が折れる夢を見た。そして夢から覚めて、これは鑑真が遷化(せんげ)(僧が亡くなること)しようとしている徴(しるし)であるとして、驚き懼(おそ)れた。それで多くの弟子を引き連れて、鑑真の姿を像に写しとった。そしてその年(天平宝字七年、763)の五月六日、西を向いて結跏趺坐(けつかふざ)(坐禅の姿勢)したままの姿で亡くなった。享年(きようねん)は七七歳である。

解説
 『鑑真和上東征伝(がんじんわじようとうせいでん)』(唐大和上東征伝)は、宝亀十年(779)、文人官僚の淡海三船(おうみのみふね)(722~785)が、鑑真(688~763)渡来の経緯を叙述した記録です。共に来日した弟子の思託(したく)が、鑑真が亡くなった直後に伝記を著していたのですが、難解であったため、思託の依頼で淡海三船が日本人向けに書いたダイジェスト版なのです。なお「和上(わじよう)」(和尚)は僧侶への敬称、「征」はこの場合は「旅立つ」という意味です。
 当時、僧となるには国家の承認が必要なのですが、僧侶は非課税とされたため、課役(かえき)から逃れるために、勝手に僧を自称する私度僧(しどそう)が横行していました。また正式に僧と認められたとしても、その教育は不十分なものでした。唐では僧を志す者は、十人以上の高僧の前で、「戒」と「律」の遵守を誓う、「授戒」を行わなければなりませんでした。「戒」とは、悟りに至るため心に誓う自発的な生活規範の事、「律」とは、悟りに導くための他律的な教団の集団生活規範のことです。聖武天皇はそのような正式な授戒制度を日本にも採り入れて、僧侶の質を向上さるため、その指導者(伝戒師)を招こうとしたわけです。伝戒師となれるのは、仏法に通じ、徳のある僧でなければなりません。そのような高僧を前にして仏に誓うからこそ、その誓いは確かなものとなり、信仰は純化されるわけです。
 伝戒の師となれる高僧を日本に招聘(しようへい)する使命を帯び、天平五年(733)に栄叡(ようえい)と普照(ふしよう)という若い僧が唐に渡りました。ここに載せたのは、入唐十年後の天平十四年(742)、栄叡と普照が鑑真に渡日を懇願し、鑑真がそれを決意した場面です。その後、鑑真は弟子による妨害や遭難のために五回も失敗し、天平勝宝五年(753)、六六歳の時に六回目の試みでようやく日本に渡ることができました。それは日本に渡航する決意をしてから、十二年目のことでした。ただし栄叡はその間に病死し、帰国はできませんでした。
 渡日を決意させた要因は、栄叡と普照の熱意だったでしょうが、その他に、中国の天台宗の開祖の一人である慧思(えし)に、転生(生まれかわり)の伝承があったことも影響しています。聖徳太子に転生したとという記述は中国にはありませんが、聖徳太子の慧思(えし)転生説が、渡来した鑑真の弟子たちにより信じられていました。慧思の没年(577年)と聖徳太子の生年(574年)が近接し、慧思に転生願望があったことが背景となり、渡来した鑑真の弟子たちが聖徳太子の事績を知るに及び、そのような説が日本で形成された可能性があります。
 また渡日を決意させたもう一つの要因は、長屋王(天武天皇の孫)が唐の僧侶に贈った千枚の袈裟(けさ)でした。その袈裟に刺繍(ししゆう)されていた詩句が、鑑真の心を揺り動かしたのです。そしてその詩句は、この現代にも良い働きをしてくれました。令和二年二月、新型コロナウィルスの流行で中国のマスクが品薄になったとき、日本青少年育成協会という団体が、マスク約二万枚と体温計を中国に送る箱に、「山川異域 風月同天」という袈裟の刺繍の一句を書いたところ、中国で大きな反響を呼んだということです。

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