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『増鏡』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-01-21 15:32:38 | 私の授業
増鏡


原文
 泰時を前に据(す)ゑて言ふやう、「己(おのれ)をこの度(たび)都に参らする事は、思ふ所多し。本意(ほい)の如くきよき死をすべし。人に後(うしろ)見えなんには、親の顔又見るべからず。今を限りと思へ。賤(いや)しけれども、義時、君の御為(おんため)に後めたき心やはある。されば、横ざまの死をせん事はあるべからず。心を猛(たけ)く思へ。己うち勝つならば、再び足柄(あしがら)・箱根山は越ゆべし」など、泣く〳〵言ひ聞かす。「まことに然(しか)なり。又親の顔拝まむ事もいと危(あやう)し」と思ひて、泰時も鎧(よろい)の袖をしぼる。互(かたみ)に今や限りとあはれに心細げなり。
 かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時たゞ一人、鞭(むち)をあげて馳せ来たり。父、胸うち騒ぎて、「いかに」と問ふに、「戦(いくさ)のあるべきやう、大方の掟(おきて)などは、仰(おおせ)の如くその心を得侍(はべり)ぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、忝(かたじけな)く鳳輦(ほうれん)を先立てゝ、御旗(みはた)をあげられ、臨幸(りんこう)の厳重なる事も侍らむに参りあへらば、その時、進退(しんだい)はいかゞ侍(はべる)べからむ。この一事(ひとこと)を尋ね申さむとて、一人馳せ侍き」と言ふ。
 義時、とばかりうち案じて、「かしこくも問へる男(おのこ)かな。其の事なり。まさに君の御輿(みこし)に向ひて弓を引く事は、如何(いかが)あらむ。さばかりの時は、兜(かぶと)を脱ぎ、弓の弦(つる)を切りて、偏(ひとえ)にかしこまりを申(もうし)て、身をまかせ奉るべし。然(さ)はあらで、君は都におはしましながら、軍兵(ぐんぴよう)を給(たまわ)せば、命を捨てゝ、千人が一人になるまでも戦ふべし」と言ひも果てぬに、急ぎ立ちにけり。

現代語訳
 (父義時が嫡男の)泰時を前にして言うには、「そなたをこの度(たび)上洛させるに当たり、色々思うことが多い。予(かね)て覚悟しているとは思うが、(討死するなら)潔く死なねばならぬ。敵に背を見せて逃げ戻るようでは、再び親の顔見てはならぬ。今日が最後と思え。この義時、賤しい臣下の身とはいえ、帝(みかど)の御為には、後ろ暗い心などあるはずがない。されば、無様(ぶざま)な死を遂げることがあってはならぬ。心を強く持て。そなたが勝つならば、また足柄の関・箱根の関を越えられるであろう」などと、泣く泣く言い聞かせたことであった。
 (泰時も)「実に仰せの通り。再び親の顔を拝することもおぼつかない」と思い、鎧の袖で涙を拭った。そして(義時も泰時も)互いにこれが今生の別れかもと、つくづく心細く思ったことであった。
 こうして出発した翌日、思いがけなく泰時がただ一騎、馬に鞭を上げて、急いで馳せもどって来た。父の義時は驚き心配して、「いかがしたか」と尋ねると、泰時は、「戦のやり方や事態の処置の概要は、父上の仰せの通り心得てございますが、もし途中で思いもかけず、畏れ多くも鳳輦(ほうれん)を先頭に、錦の御旗を押し立てられ、上皇様御自らお出ましになられることでもございましたら、その時の身の処し方は如何いたすべきでございましょう。この一事をお尋ねいたしたく、一人馳せ戻りました」と言う。義時は暫く考えてから、「よくぞ尋ねてくれた。さすがは我が子ある。いかにもその事である。まさしく君の御輿に弓を引き奉ることは、是非もない。左様な時には、兜(かぶと)を脱ぎ、弓の弦(つる)を切り、ひたすら畏まり申し上げ、身の御処置をお任せ申し上げるがよい。しかし左様ではなく、上皇様は都に在らせられて、ただ軍兵だけをお遣わしになられたというならば、命を捨て、千人の者が皆討ち死にして、ただ一人になるまでも戦うがよい」と諭すと、その言葉の言いも終わらぬうちに、泰時は急いで出発して行ったことである。

解説
 『増鏡(ますかがみ)』は、南北朝期に成立した歴史書で、嵯峨の清凉寺(せいりようじ)に詣でた百歳の老尼が、昔を回想して語るという設定で書き始められています。このような歴史書は、「歴史物語」と呼ばれ、平安時代の『大鏡』『今鏡』、鎌倉時代の『水鏡』、そしてこの『増鏡』を合わせて「四鏡(しきよう)」と呼ばれています。作者は不明ですが、朝廷の内部事情に詳しくなければ書けない内容であり、関白の二条良基(よしもと)という説が有力です。内容は、後鳥羽天皇の即位から、隠岐に流された後醍醐天皇が京に戻るまでの約百五十年のでき事や宮廷の生活が、公家の立場から叙述されています。「増」とは「真澄(ますみ)」のこと、「鏡」はこの場合は「過去を映し見る物」を意味していています。
 ここに載せたのは、第二巻「新島守(にいじまもり)」の承久の乱の場面です。この故事は『増鏡』にしか記述がなく、朝廷や公家の立場で書かれた歴史物語ですから、朝廷の威光には武家もひれ伏したというこの話は、史実ではない可能性があります。また乱後に後鳥羽上皇や順徳上皇を、隠岐や佐渡に配流するという厳しい処分を下した北条義時が、上皇には恭順せよと諭したというのは理解しがたいものです。しかしその様に伝えられていたこと自体は歴史事実ですから、条件付きで理解すればよいでしょう。
 「御旗(みはた)」については、『太平記』巻三の「笠置(かさぎ)軍事(いくさのこと)」に、「城の中を屹(きつ)と見上げければ、錦の御旗に日月を金銀にて打て着けたるが、白日に輝きて光り渡りたる」と記されていますから、鎌倉時代に既に天皇在陣を表す「錦の御旗」があったことを確認できます。ですから『増鏡』の「御旗」は、『太平記』に記された「錦の御旗」に近いものであったと推定することは許されるでしょう。太陽と月を象(かたど)った「御旗」は、大宝元年(701)の文武天皇朝賀の儀式以来用いられ、現在の天皇即位式にも飾られています。
 『吾妻鏡』には幕府軍の進発について、政所と問注所の長官であった大江広元と三善康信は、日時がたつと異論が出るので、「大将軍一人は先ず進発さるべきか」と主張したため、承久三年(1221)五月二二日、「武州(武蔵守泰時)、京都へ進発す。従軍十八騎也」、つまり泰時主従十八騎が鎌倉を出発したと記されています。しかし泰時が鎌倉を発(た)ったと聞き、他の御家人達は遅れてならじと追いかけ、最終的には十九万人の大軍となったと記されています。十九万人は誇張ですが、大軍勢に膨れあがってからでは、総大将が一時的に姿を消すことはできません。しかし初日ならまた戻れたのでしょう。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『増鏡』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。







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