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『更級日記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2024-03-03 08:08:33 | 私の授業
更級日記

原文
. あづま路の道の果(は)てよりも、なほ奥つ方(かた)に生(お)ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか、世の中に物語といふ物のあんなるを、いかで見ばやと思ひつゝ、つれ〴〵なる昼間、宵居(よいい)などに、姉継母(ままはは)などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、所々語るを聞くに、いとゞゆかしさまされど、わが思ふまゝに、そらにいかでかおぼえ語らむ。
 いみじく心もとなきまゝに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして、人まに密(みそ)かに入りつゝ、「京(みやこ)にとく上げ給ひて、物語の多く候ふなる、あるかぎり見せ給へ」と、身を捨てゝ額(ぬか)をつき祈り申すほどに、十三になる年、のぼらむとて、九月(ながつき)三日門出して、いまたちといふ所に移る。
 年ごろ遊び馴(な)れつる所を、あらはに毀(こほ)ち散らして、たち騒ぎて、日の入り際(ぎわ)の、いとすごく霧渡りたるに、車に乗るとてうち見やりたれば、人まには参りつゝ、額(ぬか)をつきし薬師仏の立ち給へるを、見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。

現代語訳
 「東路(あずまじ)(東海道)の道のはて」(と歌に詠まれた常陸の国)より、さらにもっと田舎(上総国)に育った私は、(京育ちの人から見れば)どれほどか田舎じみて見えていたでしょう。それなのにいったい何を思い始めたのか、世の中に物語というものがあると知り、どうにかして読んでみたいと思いつめて、昼間の暇な時や、夜更かししている時などに、姉や継母といった人々が、その物語、あの物語、光源氏の様子などについて、あれこれと語るのを聞いていると、ますます読みたい思いがつのるのです。しかし私が納得する程には、みな覚えていて語ってくれたりできません。
 とてももどかしいので、身の丈程の薬師仏を造ってもらい、手を洗い清めるなどして、人目のないときにこっそりと(薬師仏の部屋に)入っては、「私を早く京の都に上らせて、たくさんあるという物語を、あるだけ皆読ませて下さい」と、ひれ伏してお祈り申し上げていました。すると十三歳になる年、(父の国司としての任期が終わり)上洛するということで、九月三日に門出(の儀式)をして、一まずいまたちという所へ移りました。
 ここ数年遊びなれた家の、内部が丸見えになるほどに(調度を)とり払って、(旅立ちの準備のために)忙しく立ち働き、日の沈む頃、ひどく物寂しげな霧が一面にたちこめたのですが、牛車に乗るというので(我が家の方を)振り返って見ると、人目をしのんでお参りしては、額づいてお祈りしていた薬師仏が立っていらっしゃるのを、お残し申し上げることの悲しさに、人知れず泣けてくるのでした。
解説
 『更級日記(さらしなにつき)』は、菅原道真五世の孫にあたる菅原孝標(たかすえ)の次女(1008~1059以後)により書かれた回想録です。母の異母姉は『蜻蛉(かげろう)日記』の作者である藤原道綱の母ですから、文芸に優れた遺伝子を、両親から受け継いだのかもしれません。また三蹟の一人である藤原行成の娘の書蹟を、手本として大切にしていたり、姉や継母が物語を語ってくれていたというのですから、文芸が身近にある生活環境で成長しました。
 父の菅原孝標は上総の国司(上総介(かずさのすけ))となり、寛仁元年(1017)に、十歳の作者とその姉、継母を伴って赴任しました。国府の位置は、現在の千葉県市原市です。上総国は、一等国司である上総守(かずさのかみ)に親王が任官する親王任国なのですが、実際には赴任しませんから、二等国司の上総介が事実上の最高位の国司でした。国司は都でこそ中級貴族ですが、任国では最高位の官職ですから、作者はそれなりの生活環境で成長したはずです。父の任期満了に伴い上洛し、新たな住居となったのは、荒れていたとはいえ、一町四方もある三条院(三条上皇御所)跡ですから、それを買い取るだけの財力を、国司の任期中に蓄えていたのでしょう。
 『更級日記』には、十三歳の寛仁四年(1020)から、夫の橘俊通(たちばなのとしみち)に先立たれた翌年、五二歳の康平二年(1059年)までの約四十年間が綴られています。物語への憧れと耽溺を主題としながらも、次々に続く家族や身近な人との悲しい別れ、姉が夢で藤原行成の娘の生まれ変わりと示されたという不思議な猫のこと、また十一もの不思議な夢が語られています。これらが綾なす世界こそが、『更級日記』の面白さです。
 ここに載せたのは冒頭部です。「あづま路」とは東海道のことで、その終点は常陸国です。しかし上総国は下総国から分岐して行きますので、「東路のさらに奥」とは矛盾します。しかしあくまでも著者の印象であって、合理的に解釈する必要はありません。父の国司の任期が満了したため、一家で上洛するのですが、実際に出発したのは九月十五日(太陽暦十月十日)、京に着いたのは七五日後の十二月二日(太陽暦十二月二四日)です。九月三日に門出の儀式を終えてからまた新たに出立の準備をしているのは、当時の風習として、実際の出立とは別に前もって吉日を選んで門出の儀式を行ったからです。家族・使用人・護衛・現地雇いの人夫・駄馬などを引き連れての旅ですから、一日に進める距離は、せいぜい十~十数㎞でしょう。
 作者は漸く京に着いてから、憧れの物語を手に入れています。田舎から上洛してきた叔母が、姪のためにと、『源氏物語』全巻や『伊勢物語』などを贈ってくれました。そして時を忘れて読み耽けります。その時の気持ちを、「引き出でつゝ見る心地、后(きさき)の位も何にかはせむ」、つまり『源氏物語』を読むことは、皇后になるよりも比べものにならない程嬉しいと表現しています。そして年頃になれば、髪も伸び、夕顔や浮舟の様になれるかもと夢見ているのでした。
 しかし物語に耽溺(たんでき)しつつも、作者の深層心理には微妙な陰翳(いんえい)が認められます。『源氏物語』に熱中した後、夢の中に僧が現れ、女人成仏を説く「法華経五の巻をとく習へ」と諭されたとか、清水寺に参籠した際に、「ゆくさきのあはれならむも知らず、さもよしなし事(とりとめもない事)をのみ」と、たしなめられたと記されています。夢に見たというのは、後ろめたさを感じていたからなのでしょう。
 それでも成人して憧れの宮仕え(後朱雀天皇の娘で、藤原頼通の孫に当たるまだ幼児の祐子内親王に仕えた)をしたり、親に勧められた結婚をすると、現実と向き合わざるを得なくなります。三三歳での結婚は、当時としては大層な晩婚です。ついに「光の君」は現れず、夫の栄達と我が子と我が身の幸福を願う、平凡な結婚生活が続くばかり。そのうち子は独立し、五一歳の時に夫に先立たれて、孤独になります。そして最後は仏に救いを求める様になるのです。
 そして漸くこの陰翳ははっきりと自覚され、「昔より、よしなき物語歌のことをのみ心に占めで、夜昼思ひて行ひ(修行)をせましかば、いとかゝる夢の世をば見ずもやあらまし」と述懐します。若い時から役にも立たない物語や歌などにうつつをぬかさず、しっかり仏道に励んでいたら、この様な儚い人生を送ることはなかったでしょうにと、溜息をついているのです。夫の死の三年前に、阿弥陀如来が来迎する夢を見たことが記されているのですが、日付まで記されています。『更級日記』で年月日まで記されているのはこの時だけですから、余程に心に刻まれたのでしょう。こうして「この夢ばかりぞ後(来世)の頼み」と願うようになるのでした。
 夫に先立たれた翌年、ひょっこりと甥が訪ねてきました。その時「月も出でゞ闇にくれたる姥捨(うばす)てになにとて今宵たづね来つらむ」と詠みます。これは、『古今和歌集』の「我が心慰めかねつ更級(さらしな)や姥捨山に照る月をみて」(878番歌)という歌を本歌としています。更科は姥捨山のある信濃国の地名ですが、信濃は夫橘俊通の国司としての最後の任国ですから、亡き夫のこともかすめたはずですし、「姥捨」は自分自身の晩年の境遇を、自虐的に象徴しています。



 昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を100余冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『更級日記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。


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