西洋紀聞
原文
天既に寒くして、其(その)衣薄ければ、衣与へしに受ず。その故は、其教戒に、その法を受ざる人の物、受(うく)ることなきによれり。・・・・
こゝに至て、彼(かの)人通事に向ひて、「某(それがし)こゝに来りし事は、我教を伝へまいらせて、いかにも此土の人をも利し、世をも済(すく)はむといふにあり。それに某が来りしより、人々をはじめて、多くの人を煩はし候事、誠に本意にあらず。此所(ここ)に来りし後、年既に暮むとし、天また寒く、雪も程なく来(きた)らむとす。これにありあふ御侍を初て、人々日夜の境もなく、某を守り居給ふを見るに忍びず。・・・・・昼はいかにも候へかし。夜る〳〵は手枷(てかし)足枷(あしかし)をも入られて、獄中につなぎ置(おか)れ、人々をば夜を心安くゐ寝られ候やうに、よきに申して給るべし」と言ふ。奉行の人々も其由を聞て、あはれと思ひし気色(けしき)ありしを、某「此者は思ふにも似ぬ、偽(いつわり)あるものかな」と言ひしを、大きに恨み思ひし気色にて、「すべて人の誠なき程の恥辱は候はず。まして妄語(もうご)の事に至ては、我法の大戒に候ものを。某、事の情をわきまへしより此かた、つゐに一言の偽(いつわり)申したる事は候はず。殿には、いかにかゝる事をば仰候ぞや」と申す。
「今汝の言ひし所は、年暮れ天も寒きに、こゝに候者の夜昼となく、汝を守り居るが、見るに堪がたさに、かくは申すか」と問ふ。「其事に候」と答ふ。「さればこそ、其(その)申す所は偽にてあるなれ。彼等が汝を守るも、奉行の人々の命を重んじぬるが故也。又奉行の人々も、公(おおやけ)の仰(おおせ)を受けて、汝を守らせ給ひぬれば、汝がいかにも事故なからむ事を思ひ給ふが故に、衣薄く肌寒からむ事を憂へて、衣給らむとのたまふ事度々(たびたび)に及びぬ。もし今汝が申す所の誠ならむには、などか此人々の憂へ思ひ給ふ所を、安じまいらせざらむ。もし此人々の憂へ給ふ所をも、汝が法のために顧みざる所あらば、何条こゝに候者共の、法のために汝を守る事、顧み思ふには及ぶべき。されば汝の前(さき)に申せし所の誠ならむには、今申す所は偽れる也。今申す所の誠ならむには、前に申せし所は偽れる也。此事いかにも申披(もうしひら)くべし」と言ひしかば、大きに恥思ひし気色にて、「今の仰(おおせ)を承り候へば、前に申せし事は、誠に誤り候き。さらばいかにも衣給りて、御奉行の心を安むじまいらすべきに候」と申す。
現代語訳
既に気候が寒くなったのに、その衣が薄いので、(さらに)衣を与えたのに受け取らない。そのわけは、キリスト教を信じない人からは、施しを受けないという教戒による。・・・・
この時になってシドッチが通訳に言うには、「某(それがし)(私)がここに参りましたのは、某の信ずる教えをお伝えして、何としてもこの国の人のために役立ち、また世をも救おうということで御座います。それなのに某が参ってからというもの、皆様を初めとして、多くの人達を煩わせておりますことは、実に不本意なことで御座います。ここに参りましてから、もう年も暮れようとし、気候も寒く、程なく雪も降ることでございましょう。(それにもかかわらず)ここにおいでの御侍の方々を初めとして、皆様が昼となく夜となく、某を見守り下さるのは、見るに忍びないことで御座います。・・・・昼はともかく、夜は手枷(てかせ)や足枷(あしかせ)を付けて獄につなぎ置き、警護の方々が安心して眠れるようにするが宜しいかと存じます」と言う。奉行達もそのわけを聞き、感心なことと思った様子であったが、某(白石)が「この者は思いのほかに偽り者であるぞ」と言うと、大層不満の様子で、「およそ人として誠実でないこと程、恥ずかしいことは御座いません。まして偽(いつわり)などはもっての外(ほか)、我が教えの大戒で御座います。某は物心ついてより、未(いまだ)かつて一言の偽も言ったことは御座いません。殿はなぜこのようなことを仰せられるので御座いましょう」と申した。
そこで「今お前が言うには、年も暮れて寒くなり、ここにおる者達が昼夜お前を見守っていることに恐縮して、そのように申すのか」と問うと、「その通りで御座います」と答えた。「だからこそ、お前の申すことは偽なのである。この者達がお前を守るのは、奉行達の命令を重んじるが故のことである。また奉行達も御上の仰せを受けて、お前をお守りになるのだから、お前に何としても事故がないようにと案じて下さる故に、衣が薄くては肌寒いであろうと心配して、衣をつかわそうと再三言われたのである。もし今お前が申すことに誠があるというならば、なぜこの人達の思い煩いがなくなるように、してさしあげないのか。もしこの人達の思い煩いを、お前の信じる教えを理由に一顧だにしないならば、どうしてここにおる者達が仰せによりお前を守ることを、なぜお前が心配するのか。(するわけがないではないか)。そうであるから、お前が前に申したことが誠ならば、今申したことは偽である。今申したことが誠ならば、前に申したことは偽である。このこと(矛盾)についてどのように申し開きをするのか」と言ったところ、大層恥じ入ったようすで、「今の仰せをうかがえば、前に私が申し上げたことは、誠に誤りで御座いました。では仰せの如く衣をいただき、御奉行様のお心を安んじて差し上げるべきと存じます」と申した。
解説
『西洋紀聞(せいようきぶん)』は、将軍徳川家宣・家継のもとで政権を主導した新井白石(1657~1725)が、日本に潜入したイタリア人宣教師のヨハン・シドッティ(1668~1714)を尋問して得た情報などにより、世界情勢やキリスト教などについて叙述した書物です。キリスト教に関する叙述が多く、新井家に秘蔵されていたのですが、後に幕府に献上され、白石の自筆本が伝えられています。ですから明治十五年(1882)に出版されるまで、一般にはほとんど知られていませんでした。初稿の成立時期については、上巻末に「正徳五年(1715)乙未二月中澣(ちゆうかん)(中旬)」という日付があります。シドッティが四八歳で獄死したのはその前年の十月二一日ですから、その死に衝撃をうけたのか、何らかの影響を与えたものと思われます。
シドッティが屋久島に上陸したのは、宝永五年(1708)八月二九日のことでした。月代(さかやき)を剃り、腰には大小を差し、着物をまとっていても、身長六尺にわずかに足りないという大男で(江戸時代の日本人男性の平均身長は156㎝とのこと)、しかも話がよく通じません。それで長崎奉行所に連行したのですが、日本人通詞のオランダ語は通じず、ラテン語を話すオランダ人を通して、渡来の意図など概略がわかっただけでした。結局は通事三人に伴われて、十一月一日に江戸に着き、十一月末から十二月初めにかけて、新井白石が四回尋問をしています。それは渡来してから一年三カ月後のことですから、シドッティの日本語もそれなりに上達していたようです。
ここに載せたのは、上巻の尋問の場面です。シドッティは防寒用の衣を辞退するのですが、白石がその理由の論理的矛盾を鋭く衝くと、彼はそれを素直に認めて衣を受け取りました。それでも絹は遠慮して、木綿を希望しています。表面上は尋問者の高飛車な理屈の押し付けですが、そこには自らを厳しく律する態度や、命懸けで使命を果たそうとすることに感服した、白石なりの思いやりを見て取ることができます。
実際白石は、シドッティの為人(ひととなり)について、高く評価していました。「五百年の間に一人ほど生れ出る如き人」、「凡そ其人、博覧強記にして、彼方多学の人と聞こえて、天文地理の事に至りては、企及ぶべしとも覚えず」と記しています。また自力では歩けず、両脇を抱えられてやっと椅子に坐る程に衰弱していても、「泥塑(でいそ)の像の如く」長時間微動だにせず、白石や奉行達が席を立つ時には、必ず自分も立って礼をすると記して、その立ち居振る舞いの謹厳かつ上品であることに感心しています。
その後のシドッティの処置については、白石は尋問終了後、直ちに『羅馬(ろーま)人処置献議』を上程し、上策として「本国へ返さるゝ事」、中策として「囚となしてたすけ置るゝ事」、下策として「誅せらるゝ事」を提言しています。そして「其志の堅き有様を見るに、彼がために心を動かさゞる事あたはず。しかるを、我国法を守りてこれを誅せられん事は、其罪に非ざるに似て古先聖王の道に遠かるべし」と述べています。白石は表向きには儒教的視点から下策を退け、上策を推したようですが、個人的には感服していたからなのでしょう。結局は切支丹(きりしたん)屋敷に拘禁されることになりました。そして世話役の老夫婦があてがわれ、毎年二五両余が支給されることになりましたから、束縛は緩いものだったはずです。しかし正徳三年(1713)十一月、世話役の長助・はる夫婦が受洗したことを自首したため、翌年三月にはシドッチを地下牢に移し、長助とシドッチは同年十月に亡くなりました。平成二六年(2014)、文京区小日向町の切支丹屋敷跡を発掘調査したところ、三体の人骨が発見され、そのうち一体は日本人、もう一体はミトコンドリアDNA鑑定により、イタリア系中年男性であると判明し、シドッチの可能性がかなり高いということです。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『西洋紀聞』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
天既に寒くして、其(その)衣薄ければ、衣与へしに受ず。その故は、其教戒に、その法を受ざる人の物、受(うく)ることなきによれり。・・・・
こゝに至て、彼(かの)人通事に向ひて、「某(それがし)こゝに来りし事は、我教を伝へまいらせて、いかにも此土の人をも利し、世をも済(すく)はむといふにあり。それに某が来りしより、人々をはじめて、多くの人を煩はし候事、誠に本意にあらず。此所(ここ)に来りし後、年既に暮むとし、天また寒く、雪も程なく来(きた)らむとす。これにありあふ御侍を初て、人々日夜の境もなく、某を守り居給ふを見るに忍びず。・・・・・昼はいかにも候へかし。夜る〳〵は手枷(てかし)足枷(あしかし)をも入られて、獄中につなぎ置(おか)れ、人々をば夜を心安くゐ寝られ候やうに、よきに申して給るべし」と言ふ。奉行の人々も其由を聞て、あはれと思ひし気色(けしき)ありしを、某「此者は思ふにも似ぬ、偽(いつわり)あるものかな」と言ひしを、大きに恨み思ひし気色にて、「すべて人の誠なき程の恥辱は候はず。まして妄語(もうご)の事に至ては、我法の大戒に候ものを。某、事の情をわきまへしより此かた、つゐに一言の偽(いつわり)申したる事は候はず。殿には、いかにかゝる事をば仰候ぞや」と申す。
「今汝の言ひし所は、年暮れ天も寒きに、こゝに候者の夜昼となく、汝を守り居るが、見るに堪がたさに、かくは申すか」と問ふ。「其事に候」と答ふ。「さればこそ、其(その)申す所は偽にてあるなれ。彼等が汝を守るも、奉行の人々の命を重んじぬるが故也。又奉行の人々も、公(おおやけ)の仰(おおせ)を受けて、汝を守らせ給ひぬれば、汝がいかにも事故なからむ事を思ひ給ふが故に、衣薄く肌寒からむ事を憂へて、衣給らむとのたまふ事度々(たびたび)に及びぬ。もし今汝が申す所の誠ならむには、などか此人々の憂へ思ひ給ふ所を、安じまいらせざらむ。もし此人々の憂へ給ふ所をも、汝が法のために顧みざる所あらば、何条こゝに候者共の、法のために汝を守る事、顧み思ふには及ぶべき。されば汝の前(さき)に申せし所の誠ならむには、今申す所は偽れる也。今申す所の誠ならむには、前に申せし所は偽れる也。此事いかにも申披(もうしひら)くべし」と言ひしかば、大きに恥思ひし気色にて、「今の仰(おおせ)を承り候へば、前に申せし事は、誠に誤り候き。さらばいかにも衣給りて、御奉行の心を安むじまいらすべきに候」と申す。
現代語訳
既に気候が寒くなったのに、その衣が薄いので、(さらに)衣を与えたのに受け取らない。そのわけは、キリスト教を信じない人からは、施しを受けないという教戒による。・・・・
この時になってシドッチが通訳に言うには、「某(それがし)(私)がここに参りましたのは、某の信ずる教えをお伝えして、何としてもこの国の人のために役立ち、また世をも救おうということで御座います。それなのに某が参ってからというもの、皆様を初めとして、多くの人達を煩わせておりますことは、実に不本意なことで御座います。ここに参りましてから、もう年も暮れようとし、気候も寒く、程なく雪も降ることでございましょう。(それにもかかわらず)ここにおいでの御侍の方々を初めとして、皆様が昼となく夜となく、某を見守り下さるのは、見るに忍びないことで御座います。・・・・昼はともかく、夜は手枷(てかせ)や足枷(あしかせ)を付けて獄につなぎ置き、警護の方々が安心して眠れるようにするが宜しいかと存じます」と言う。奉行達もそのわけを聞き、感心なことと思った様子であったが、某(白石)が「この者は思いのほかに偽り者であるぞ」と言うと、大層不満の様子で、「およそ人として誠実でないこと程、恥ずかしいことは御座いません。まして偽(いつわり)などはもっての外(ほか)、我が教えの大戒で御座います。某は物心ついてより、未(いまだ)かつて一言の偽も言ったことは御座いません。殿はなぜこのようなことを仰せられるので御座いましょう」と申した。
そこで「今お前が言うには、年も暮れて寒くなり、ここにおる者達が昼夜お前を見守っていることに恐縮して、そのように申すのか」と問うと、「その通りで御座います」と答えた。「だからこそ、お前の申すことは偽なのである。この者達がお前を守るのは、奉行達の命令を重んじるが故のことである。また奉行達も御上の仰せを受けて、お前をお守りになるのだから、お前に何としても事故がないようにと案じて下さる故に、衣が薄くては肌寒いであろうと心配して、衣をつかわそうと再三言われたのである。もし今お前が申すことに誠があるというならば、なぜこの人達の思い煩いがなくなるように、してさしあげないのか。もしこの人達の思い煩いを、お前の信じる教えを理由に一顧だにしないならば、どうしてここにおる者達が仰せによりお前を守ることを、なぜお前が心配するのか。(するわけがないではないか)。そうであるから、お前が前に申したことが誠ならば、今申したことは偽である。今申したことが誠ならば、前に申したことは偽である。このこと(矛盾)についてどのように申し開きをするのか」と言ったところ、大層恥じ入ったようすで、「今の仰せをうかがえば、前に私が申し上げたことは、誠に誤りで御座いました。では仰せの如く衣をいただき、御奉行様のお心を安んじて差し上げるべきと存じます」と申した。
解説
『西洋紀聞(せいようきぶん)』は、将軍徳川家宣・家継のもとで政権を主導した新井白石(1657~1725)が、日本に潜入したイタリア人宣教師のヨハン・シドッティ(1668~1714)を尋問して得た情報などにより、世界情勢やキリスト教などについて叙述した書物です。キリスト教に関する叙述が多く、新井家に秘蔵されていたのですが、後に幕府に献上され、白石の自筆本が伝えられています。ですから明治十五年(1882)に出版されるまで、一般にはほとんど知られていませんでした。初稿の成立時期については、上巻末に「正徳五年(1715)乙未二月中澣(ちゆうかん)(中旬)」という日付があります。シドッティが四八歳で獄死したのはその前年の十月二一日ですから、その死に衝撃をうけたのか、何らかの影響を与えたものと思われます。
シドッティが屋久島に上陸したのは、宝永五年(1708)八月二九日のことでした。月代(さかやき)を剃り、腰には大小を差し、着物をまとっていても、身長六尺にわずかに足りないという大男で(江戸時代の日本人男性の平均身長は156㎝とのこと)、しかも話がよく通じません。それで長崎奉行所に連行したのですが、日本人通詞のオランダ語は通じず、ラテン語を話すオランダ人を通して、渡来の意図など概略がわかっただけでした。結局は通事三人に伴われて、十一月一日に江戸に着き、十一月末から十二月初めにかけて、新井白石が四回尋問をしています。それは渡来してから一年三カ月後のことですから、シドッティの日本語もそれなりに上達していたようです。
ここに載せたのは、上巻の尋問の場面です。シドッティは防寒用の衣を辞退するのですが、白石がその理由の論理的矛盾を鋭く衝くと、彼はそれを素直に認めて衣を受け取りました。それでも絹は遠慮して、木綿を希望しています。表面上は尋問者の高飛車な理屈の押し付けですが、そこには自らを厳しく律する態度や、命懸けで使命を果たそうとすることに感服した、白石なりの思いやりを見て取ることができます。
実際白石は、シドッティの為人(ひととなり)について、高く評価していました。「五百年の間に一人ほど生れ出る如き人」、「凡そ其人、博覧強記にして、彼方多学の人と聞こえて、天文地理の事に至りては、企及ぶべしとも覚えず」と記しています。また自力では歩けず、両脇を抱えられてやっと椅子に坐る程に衰弱していても、「泥塑(でいそ)の像の如く」長時間微動だにせず、白石や奉行達が席を立つ時には、必ず自分も立って礼をすると記して、その立ち居振る舞いの謹厳かつ上品であることに感心しています。
その後のシドッティの処置については、白石は尋問終了後、直ちに『羅馬(ろーま)人処置献議』を上程し、上策として「本国へ返さるゝ事」、中策として「囚となしてたすけ置るゝ事」、下策として「誅せらるゝ事」を提言しています。そして「其志の堅き有様を見るに、彼がために心を動かさゞる事あたはず。しかるを、我国法を守りてこれを誅せられん事は、其罪に非ざるに似て古先聖王の道に遠かるべし」と述べています。白石は表向きには儒教的視点から下策を退け、上策を推したようですが、個人的には感服していたからなのでしょう。結局は切支丹(きりしたん)屋敷に拘禁されることになりました。そして世話役の老夫婦があてがわれ、毎年二五両余が支給されることになりましたから、束縛は緩いものだったはずです。しかし正徳三年(1713)十一月、世話役の長助・はる夫婦が受洗したことを自首したため、翌年三月にはシドッチを地下牢に移し、長助とシドッチは同年十月に亡くなりました。平成二六年(2014)、文京区小日向町の切支丹屋敷跡を発掘調査したところ、三体の人骨が発見され、そのうち一体は日本人、もう一体はミトコンドリアDNA鑑定により、イタリア系中年男性であると判明し、シドッチの可能性がかなり高いということです。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『西洋紀聞』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
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