金槐和歌集
原文
正月一日詠める
①けさ見れば山も霞みてひさかたの天の原より春は来にけり
道のほとりに、幼き童(わらわ)の母を尋ねていたく泣くを、 そのあたりの人に尋ねしかば、「父母なむ身罷(みまか)りにし」 と答へ侍りしを聞きて詠める
②いとほしや見るに涙もとゞまらず親もなき子の母を尋ぬる
建暦元年七月、洪水天に浸(はびこ)り、土民愁嘆(しゆうたん)せむことを 思ひて、独り本尊に向ひ奉り聊(いささ)か祈念を致して曰く
③時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ
箱根の山をうち出でゝみれば、波の寄る小島あり。「供 の者、この海の名は知るや」と尋ねしかば、「伊豆の海 となむ申す」と答へ侍りしを聞きて
④箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見 ゆ
太上天皇の御書下し預りし時の歌
⑤山は裂け海は浅(あ)せなむ世なりとも君に二心わがあらめやも
現代語訳(詞書は省略)
①今朝遙かに眺めると、山が霞んでいる。春は大空からやっ て来たのだ
②可愛そうなことだ。見ていると涙を堰(せ)くことができない。 親を失った幼児が、母を捜し求めているのは
③時によって度を過ぎては、却って民衆を嘆かせることにな ってしまう。(水神の)八大龍王よ、雨を降らせるのをお止 め下され
④箱根の山路を越えて来ると、伊豆の海の沖の小島に、波が 打ち寄せるのが見えることだ
⑤山が裂けて崩れ、海が干上がってしまう世となっても、上 皇様に二心を懐く様なことは、決してございません
解説
『金槐和歌集(きんかいわかしゆう)』は、源実朝(1192~1219)の和歌集です。藤原定家が書写させた伝本の奥書によれば、建暦三年(1213)、実朝二二歳の時に、実朝自ら撰したとされ、六六三首が収められています。書名は一般には、「金」が「鎌倉」、「槐」が「槐門」、つまり大臣のことを表すので、「鎌倉の右大臣の家集」の意味であるとされていますが、もちろん後世の呼称です。
「槐」は「えんじゅ」と訓み、古代中国では「大臣」の象徴とされていました。エンジュは現在でも普通に街路樹となっているマメ科の樹木で、同じ仲間のハリエンジュは「ニセアカシア」とも呼ばれ、歌謡曲や童謡では「あかしあ」と歌われています。ハリエンジュは五月上旬に芳香のある真白い藤の花の様な花を、枝一杯に咲かせます。「槐」が樹木であるとわかれば、少なくとも「金塊和歌集」とは書かないでしょう。
鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』には、実朝と和歌の関わりについて、多くの記述があります。十四歳の年には、十二首の歌を詠み(元久二年四月)、いち早く披露前の『新古今和歌集』を贈られ(同年九月)、十七歳の年に『古今和歌集』を手に入れ(承元二年五月)、十八歳で藤原定家に自詠三十首を送って指導を受け(承元三年七月)、二二歳の年に定家から定家の著した歌論書らしき「和歌文書」や『万葉集』を贈られ(建暦三年八・十一月)、「御入興(ごじゆきよう)の外(ほか)、他無し」、「御賞翫の他無し。重宝、之(これ)何物に過ぐる乎(か)」と大喜びしている様子が記されています。
当時の鎌倉には、実朝に和歌を指導できる程の歌人は居なかったでしょうから、実朝は『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』から直に学びました。一般に実朝の歌は万葉調であると評されるのですが、それは事実とは異なります。実際にはそれらの三歌集から、定家が苦言を呈する程に過剰な本歌取りをしていて、決して万葉調ばかりではありません。
中には三歌集の歌に酷似している歌もあり、初期の習作と考えられます。いくつか御紹介しましょう。「奥山の岩根に生(お)ふる菅の根のねもころ〴〵に降れる白雪」は、『万葉集』の「高山の巌(いわお)に生ふる菅の根のねもころ〴〵に降り置く白雪」の模倣です。「水鳥の鴨の浮き寝のうきながら玉藻の床に幾夜(いくよ)経ぬらむ」は、『新古今和歌集』の「水鳥の鴨の浮き寝のうきながら波の枕に幾夜経ぬらむ」の第四句以外は全く同じです。またこれ程似ていなくても、特徴のある歌言葉で、本歌が直ぐに思い浮かぶ歌はいくつもあります。これをどのように評価するかは意見の分かれるところですが、都から遠く離れ、身近に指導してくれる歌人もいない境遇で、模倣してでも三歌集から独りで学び取ろうとしている過程と考えれば、やむを得なかったでしょうし、また好感を持てます。
ここに載せたのは、いずれも実朝の歌としてはよく知られているものばかりです。①は巻頭歌で、巻頭に春霞を詠むことは、『古今和歌集』の模倣です。②は両親を失った幼子に同情する歌ですが、その優しい心は現代人の感覚と全く同じであり、これが武家の棟梁の歌であることに驚くことでしょう。③は民を苦しめる長雨の止むことを仏に祈る歌ですが、為政者の立場もさることながら、②にも共通する繊細で優しい心が滲み出ています。④には具体的な詞書があり、状況がよくわかります。大らかな万葉調の歌で、『万葉集』巻十(2185番歌)の「大坂をわが越え来れば二上に・・・・」を下敷きにしたものでしょう。「箱根山を出(いず)ると伊豆(いず)の海が見えた」というのは、ひょっとしたらギャグかもしれません。⑤は巻末歌で、後鳥羽上皇から御書を賜り、畏敬の念を詠んでいます。この歌をわざわざ巻末に置いたのには、それなりの意図があるはずで、実朝の忠誠心の顕れでしょう。しかし実朝暗殺の翌々年、後鳥羽上皇が北条義時追討を命じた承久の乱が起きるのは、何とも皮肉と言うしかありません。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『金槐和歌集』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
正月一日詠める
①けさ見れば山も霞みてひさかたの天の原より春は来にけり
道のほとりに、幼き童(わらわ)の母を尋ねていたく泣くを、 そのあたりの人に尋ねしかば、「父母なむ身罷(みまか)りにし」 と答へ侍りしを聞きて詠める
②いとほしや見るに涙もとゞまらず親もなき子の母を尋ぬる
建暦元年七月、洪水天に浸(はびこ)り、土民愁嘆(しゆうたん)せむことを 思ひて、独り本尊に向ひ奉り聊(いささ)か祈念を致して曰く
③時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ
箱根の山をうち出でゝみれば、波の寄る小島あり。「供 の者、この海の名は知るや」と尋ねしかば、「伊豆の海 となむ申す」と答へ侍りしを聞きて
④箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見 ゆ
太上天皇の御書下し預りし時の歌
⑤山は裂け海は浅(あ)せなむ世なりとも君に二心わがあらめやも
現代語訳(詞書は省略)
①今朝遙かに眺めると、山が霞んでいる。春は大空からやっ て来たのだ
②可愛そうなことだ。見ていると涙を堰(せ)くことができない。 親を失った幼児が、母を捜し求めているのは
③時によって度を過ぎては、却って民衆を嘆かせることにな ってしまう。(水神の)八大龍王よ、雨を降らせるのをお止 め下され
④箱根の山路を越えて来ると、伊豆の海の沖の小島に、波が 打ち寄せるのが見えることだ
⑤山が裂けて崩れ、海が干上がってしまう世となっても、上 皇様に二心を懐く様なことは、決してございません
解説
『金槐和歌集(きんかいわかしゆう)』は、源実朝(1192~1219)の和歌集です。藤原定家が書写させた伝本の奥書によれば、建暦三年(1213)、実朝二二歳の時に、実朝自ら撰したとされ、六六三首が収められています。書名は一般には、「金」が「鎌倉」、「槐」が「槐門」、つまり大臣のことを表すので、「鎌倉の右大臣の家集」の意味であるとされていますが、もちろん後世の呼称です。
「槐」は「えんじゅ」と訓み、古代中国では「大臣」の象徴とされていました。エンジュは現在でも普通に街路樹となっているマメ科の樹木で、同じ仲間のハリエンジュは「ニセアカシア」とも呼ばれ、歌謡曲や童謡では「あかしあ」と歌われています。ハリエンジュは五月上旬に芳香のある真白い藤の花の様な花を、枝一杯に咲かせます。「槐」が樹木であるとわかれば、少なくとも「金塊和歌集」とは書かないでしょう。
鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』には、実朝と和歌の関わりについて、多くの記述があります。十四歳の年には、十二首の歌を詠み(元久二年四月)、いち早く披露前の『新古今和歌集』を贈られ(同年九月)、十七歳の年に『古今和歌集』を手に入れ(承元二年五月)、十八歳で藤原定家に自詠三十首を送って指導を受け(承元三年七月)、二二歳の年に定家から定家の著した歌論書らしき「和歌文書」や『万葉集』を贈られ(建暦三年八・十一月)、「御入興(ごじゆきよう)の外(ほか)、他無し」、「御賞翫の他無し。重宝、之(これ)何物に過ぐる乎(か)」と大喜びしている様子が記されています。
当時の鎌倉には、実朝に和歌を指導できる程の歌人は居なかったでしょうから、実朝は『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』から直に学びました。一般に実朝の歌は万葉調であると評されるのですが、それは事実とは異なります。実際にはそれらの三歌集から、定家が苦言を呈する程に過剰な本歌取りをしていて、決して万葉調ばかりではありません。
中には三歌集の歌に酷似している歌もあり、初期の習作と考えられます。いくつか御紹介しましょう。「奥山の岩根に生(お)ふる菅の根のねもころ〴〵に降れる白雪」は、『万葉集』の「高山の巌(いわお)に生ふる菅の根のねもころ〴〵に降り置く白雪」の模倣です。「水鳥の鴨の浮き寝のうきながら玉藻の床に幾夜(いくよ)経ぬらむ」は、『新古今和歌集』の「水鳥の鴨の浮き寝のうきながら波の枕に幾夜経ぬらむ」の第四句以外は全く同じです。またこれ程似ていなくても、特徴のある歌言葉で、本歌が直ぐに思い浮かぶ歌はいくつもあります。これをどのように評価するかは意見の分かれるところですが、都から遠く離れ、身近に指導してくれる歌人もいない境遇で、模倣してでも三歌集から独りで学び取ろうとしている過程と考えれば、やむを得なかったでしょうし、また好感を持てます。
ここに載せたのは、いずれも実朝の歌としてはよく知られているものばかりです。①は巻頭歌で、巻頭に春霞を詠むことは、『古今和歌集』の模倣です。②は両親を失った幼子に同情する歌ですが、その優しい心は現代人の感覚と全く同じであり、これが武家の棟梁の歌であることに驚くことでしょう。③は民を苦しめる長雨の止むことを仏に祈る歌ですが、為政者の立場もさることながら、②にも共通する繊細で優しい心が滲み出ています。④には具体的な詞書があり、状況がよくわかります。大らかな万葉調の歌で、『万葉集』巻十(2185番歌)の「大坂をわが越え来れば二上に・・・・」を下敷きにしたものでしょう。「箱根山を出(いず)ると伊豆(いず)の海が見えた」というのは、ひょっとしたらギャグかもしれません。⑤は巻末歌で、後鳥羽上皇から御書を賜り、畏敬の念を詠んでいます。この歌をわざわざ巻末に置いたのには、それなりの意図があるはずで、実朝の忠誠心の顕れでしょう。しかし実朝暗殺の翌々年、後鳥羽上皇が北条義時追討を命じた承久の乱が起きるのは、何とも皮肉と言うしかありません。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『金槐和歌集』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます