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浅間山大噴火の痕跡 日本史授業に役立つ小話・小技37

2024-04-29 08:02:46 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

37、浅間山大噴火の痕跡
 天明三年(1783)の新暦8月5日に浅間山が大噴火をしました。火山灰は関東甲信越一帯に降り積もり、噴煙が日光を遮ると、気温が上昇しません。噴火は既に5月から始まっていましたから、稲の生育期にまともに重なり、その年は著しい冷害となりました。飢饉は既に前年から始まっていましたから、浅間山の噴火が直接の契機ではないのですが、それが飢饉を増幅したことは確かです。
 嬬恋村の鎌原地域が火砕流で壊滅したことは、現代の発掘調査でよく知られています。また浅間山の北側にある鬼押出しは、この噴火で流れ出した溶岩によって形成された物ですから、それを見ればどれ程の規模であったか、推して察しが付きます。
 かつて三宅島が噴火した際、教材研究の絶好の機会であると島に渡ったことがあります。不謹慎は承知の上で、授業を他の日に移動させてまでして見学に行きました。島民が避難しているくらいですから、観光客は皆無です。至る所でガス・水蒸気が噴出し、3階建ての阿古小中学校の屋上近くまで溶岩が押し寄せ、まだ危険な状態でした。校舎の中に入ってみると、理科室には溶岩が浸入していないにもかかわらず、実験用ガラス器具が溶けているのを目の当たりで見て、私なりに火山噴火のすさまじさを体験しました。
 天明の大噴火では、火山泥流は利根川を流れ下り、江戸にまで達したという記録があります。その痕跡を何とか確認したいと思い、利根川中流域の群馬県の境町に行き、町内の工事現場を探して歩きました。川に近いところの地下には、必ずその痕跡があるはずと目星を付けたからです。運良く道路工事で道を掘り起こしている現場を見つけて覗いてみると、案の定、川で流されて摩滅し、角のとれた軽石が堆積している地層を発見しました。そして現場の監督にお許しをいただいて、大量の軽石を教材用に持ち帰りました。今から30年の前のことです。石は多くの先生方に教材として差し上げてしまい、もう残っていませんが、貴重な体験でした。運がよかったのは確かですが、何でも調べてみるものだと、つくづく思ったことです。勝手に掘り起こすことはできませんが、水道工事の際にきっと見つかるはずですから、興味のある方は水道局に相談するとよいと思います。


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