うたことば歳時記

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冬の森の月

2015-12-25 15:00:21 | うたことば歳時記
森の中から月が見えるのかって? それがまたよく見えるばかりでなく、なかなかの風情のある見物なのです。もちろん落葉した後の冬の森でのこと。いくらなんでも夏では月は見えません。しかし紅葉が落葉し始める頃には、その枝の隙間から漏れ来る月影の美しさが注目されました。
  ①紅葉葉の雨と降るなる木の間よりあやなく月の影ぞ漏りくる      (後拾遺 秋 362)
  ②風吹けば枝やすからぬ木の間よりほのめく秋の夕月夜かな       (金葉集 秋 175)
  ③秋の夜の月の光のもる山は木の下かげもさやけかりけり        (詞花集 秋 99)
 ①は、もみじの葉が雨のように降る音のする木の間から、おかしなことに月の光が漏れてくることだ、という意味です。雨の降るような音がするのに、木の間から漏れてくるのは雨ではなくて月影であるというのですから、少々理屈っぽい歌ですね。まあそれはさておいて、紅葉が散り始めて葉が疎らになっているのでしょう。その隙間から月が見えるというのです。現代では紅葉の名所では、夜にライトアップをすることが多いのですが、本来ならば自然の月影の美しさを愛でたいところです。しかし月齢によっては月が見えませんから、人工的照明でも仕方がないのでしょう。それにしても落ち葉の音を聞き分ける繊細さにはただ驚くばかりです。
 ②は、風に揺れ動く枝の間から、ほのかに見える夕月であることよ、という意味です。夕方に木々の間から見えたというのですから、その時刻にはまだ高度の低い月と思われます。西空に見える三日月に近い月齢の細い月では、木の間からはあまり見えないでしょうから、この場合の月は、夕方に東の低い空に見える満月に近い月齢の月でしょう。木の間から漏れ来る月影の歌といえば、「木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり」(古今集 秋 184)もよく知られています。
 ③の「もる山」は近江国の「守山」という歌枕を掛けているのですが、その守山では、月の光が漏れてきて、木の下陰でも明るいことだ、というのです
 ここにあげた4首はいずれも秋の歌ですから、まだ落葉しきってはいない時季です。ですから隙間から月影がちらっと見える程度なのでしょう。期せずして「漏れる」という表現が多いのもそのためと思われます。
 これが冬になると木々は葉を落として枝と幹だけになり、月が更によく見えるようになります。
  ④秋はなを木の下かげも暗かりき月は冬こそ見るべかりけれ       (詞花集 冬 148)
  ⑤もみぢ葉を何惜しみけん木の間よりもりくる月は今宵こそ見れ     (新古今 冬 592)
  ⑥小倉山ふもとの里に木の葉散ればこずゑにはるる月を見るかな     (新古今 冬 603)
  ⑦風を寒み木の葉はれゆくよなよなに残る隅なき庭の月かげ       (新古今 冬 605)  ④は、秋は月が明るいと行っても木の下陰はまだ暗かったのに、月は落葉してしまった冬にこそ見るべきものであった、というわけで、冬の木の下で発見した寒月の美しさを詠んでいます。⑤はわかりやすい歌で、紅葉の散るのを何故あれ程までに惜しんだのか。木の間を漏れてくる月影の美しさは、木の葉の散ってしまった今宵こそ見ることができる、という意味です。
 ⑥は西行の歌で、ほの暗いという小倉山で、麓の里の木の葉が散ると、梢には小倉山の印象とは反対に明るい月が見えることだ、という意味です。梢に懸かるように見えるというのですから、月の高度は低く、大きく見える月だったのでしょう。梢越しに見えるというところに面白さを感じているのです。
 ⑦は、風が寒いので木の葉が散って行く夜ごとに、庭から見える次第に隈のなくなる明るい月であることよ、という意味です。
 これらの歌に共通しているのは、梢を背景としたり、梢に近い高度の低い冬の月です。高度の高い冬の月には、それはそれでまた別の風情があるのですが、高度が低い故に、幹や枝の影が影絵のように見えるのでしょう。そこに森の中で見る冬の月の風情があるのです。私は額縁のような枠を拵え、それを両手で月の方にかざして月を眺めてみました。まさに影絵の一場面でした。月を楽しむのは秋に限るなどと決めつけず、厚着をして森の月見を堪能してみて下さい。

年末年始は多忙のため、記事を書く余裕がありません。しばらく休みますが、また再開しますので御覧下さい。 


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