うたことば歳時記

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日本史授業で使えるエピソード(1)  アクティブラーニングへの疑問

2017-05-05 21:06:48 | 私の授業
 近年、学校ではアクティブラーニングという授業形態がもてはやされ、一斉講義式の授業は旧態依然とした悪い授業のように批判されています。アクティブラーニングは、「主体的・対話的で深い学び」と表現されることもあります。具体的にどのような授業かは、それぞれで検索していただくとして、授業者である先生の「語り」はほとんどないのです。まあ当然ですね。一斉講義は授業者による「語り」によって支えられていますから、それが駄目だとなると、語り手としての先生の出番がありません。かわりに生徒が主体的に授業に参加し、互いに教え合い、考え合い、発表し合いながら課題を解決する力を養うのが目的というのです。考えるための材料は教科書や資料集や先生が提供するプリントなどです。映像で見てみると、先生の出番は、適切なプリント資料を作ったり、課題を設定したり、必要に応じて示唆をするなどで、先生は極力話さないようです。生徒たちは活発に発言し、教室内を移動し、見かけは主体的に学習しているように見えます。感想を聞くと、授業を楽しんでいるようで、良いことばかりのような見えます。

 しかしモデル授業を見ると、生徒の基礎学力は高く、学習意欲に溢れているようです。そういう生徒たちだけなら、授業が成立するのでしょう。しかし私がこれまで担当してきた生徒たちの中には、基礎学力も学習意欲も極めて低い生徒たちも少なくありませんでした。先日の地理の授業では、南の反対が北であることの説明に苦労しました。もちろん国立大学に合格するような生徒のいる学校での経験もありますから、全部が全部低学力ではありませんでしたが・・・・。主体的学習は、主体性がある生徒だから成立するのです。筆記用具も持ってこない。何ごとも指示されるまでは動かない。教科書を読めない。(日本語のわからない生徒もいます。私の貧弱な英語で、四苦八苦して「二酸化炭素」を説明しましたが、ついにわからず、根負けしました。しかし化学記号を書いたらわかってくれたので、拍子抜けしました。)プリントを綴じて保管できない。注意をすると怒って早退してしまう。そういう生徒たちを相手に、どうやってアクティブにやれと言うのでしょうか。品のない言葉ですが、敢えて本音を言えば、「やれるもんならやってみろよ!」と言いたいのです。

 私は議論が苦手で、アクティブラーナーの先生たちと言葉で論争するのはできそうもありません。私は教育の専門職というよりは、「授業の職人」と表現した方がよく、理屈はこねられませんが、感覚的にアクティブラーニングばかりの授業には賛同できません。私が高校時代に習った先生の講義は、ともかく面白く、興味の湧くものでした。黙って聞いていたという外見からすれば、主体的ではなかったでしょう。しかし授業が楽しみでなりませんでした。楽しかった理由はいくつかありますが、その一つは、先生が語ってくれるエピソードでした。教科書には書かれていませんが、学習する内容を補完・補強する楽しい内容でした。いつも「へえ、そうだったのか」と感心させられたものです。

 そういうわけで、私の授業にもそのようなエピソードがたくさん散りばめられています。しかしそのためには膨大な量の読書や体験や研修が必要です。今時はネットですぐに欲しい情報にたどり着けますが、以前はそんな便利な道具はありませんから、ひたすら時間と手間をかけて、そのようなネタを仕入れるしかありませんでした。そういう意味では、私は現代のパソコンを使いこなす若い世代の先生よりは、余程質量共に高い教材研究をしてきたと思っています。今勤務校では最年長の非常勤講師で、若い世代の先生を指導する場面がたくさんあります。しかし若い先生が気軽に質問に来るのはよいのですが、「学問のすすめ一冊すべて読んでから質問に来い」と言いたくなります。

 彼等の基礎的知識や経験の貧弱さに、しばしば驚かされています。木材を乾留すると炭になることを知らないし、やったこともない。生糸も石炭も見て触ったことがない。絹の布に触っても、それが絹だとわからない。漢字だけの万葉集を読んだことがない。麦秋の季節がわからない。子午線の「子午」の意味を知らない。金の比重を知らない。活字を見たことがない。節分の翌日が立春であることを知らない。赤飯は餅米を蒸して作ることを知らない。稲を植えたことがない。黒曜石を触ったことがない。油粕は天ぷらの揚げ玉だと思っている。漆器を見たことがないと思っている。今ここに上げたことがらは、今年の新採用の先生が知らなかったことで、私が本当にびっくりしたことです。もし地歴公民科・社会科の教員採用試験を受けようとするほどの人なら、「都会で育ったので、稲を植える機会がなかった」などというのは、私に言わせれば甘ったれの言い訳に過ぎません。一般の人がそう言うならわかります。しかし教員志望の人の言うことではありません。こんなことは大学を卒業するまでに経験していて当たり前のことなのです。概して政治経済的な知識は十分に持っているのですが、文化的・即物的なことは経験が伴わないので、知識や経験が恐ろしく貧弱なのです。えっ、こんなことも知らないで、どうやって教えるの。見たことも触ったこともないのに、どうやって実感をもって生徒に伝えるの。いつもそのような驚きの連続です。とにかく自身のための勉強量がまったくもって少ないのです。

 一寸本題から離れてしまいましたね。そこで私が日本史の授業で話したことのあるエピソードを、思いつくままにいくつか書き散らしてみました。読者の皆様はかなりの力があると思いますので、余りに簡単で誰もが知っていそうなお話しは載せていません。ある程度の学力のある生徒を対称としたものに限りました。エピソードというものの性格からして、伝聞も含まれますから、全てが事実であるとは限りません。しかし「・・・・のように伝えられてきた」ということ自体は事実ですから、それを承知で活用するなら、少々疑問符のつくことでも、エピソードなら許されるでしょう。あくまでも生徒が授業に興味を持つようになるための方便なのですから。

 話は尽きないほどあるのですが、まずは一日で書けたところまで、公表します。そのうち折りを見て続編も書こうと思っています。

 アクティブラーニングについての私なりの批判は、私のブログの「うたことば歳時記」の中に、「アクティブラーニングの授業と一斉講義式の授業」と題して載せてありますから、そちらを検索して御覧下さい。




紅白歌合戦・・・・・・・平氏が紅(赤)旗を、源氏が白旗を掲げて戦ったとされることから、二軍に分かれる対抗戦の形容として、「紅白○○」という表現が使われるようになった。   

私闘に恩賞なし・・・・後三年の役で白川上皇は私闘であるとして恩賞を与えず、義家は私財から恩賞を与え、東国武士の信望を集めた。ただし当時の記録に根拠があるわけではない。

柳沢吉保の庭園・・・・将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保が、下屋敷として造営した大名庭園。綱吉は58回もここに「御成」。両者の親密さを物語る。

アーモンドの種の目・・・・北魏様式仏像の特色の一つである杏仁形の目。「杏」はアーモンド、「仁」は固い種子の中の柔らかい部分。つまり杏仁豆腐の原料となる部分のこと。

阿弥陀と結ぶ五色の糸・・・・道長は「この世をば」と詠んだ10年後の63歳、病の壮絶な苦しみの中で、阿弥陀の指と自分の指を五色の糸で結び、念仏を称えながら臨終を迎えた。

書斎の柱の鈴・・・・本居宣長は鈴が好きで、書斎の床の間の柱に掛鈴を下げ、息抜きに音色を楽しんでいたので、その書斎を「鈴屋」(すずのや)と名づけた。現存。

仁和寺前の清右衛門・・・・野々村仁清は仁和寺の門前に御室窯(おむろがま)を開設。「仁清」は仁和寺の「仁」と通称の清右衛門の「清」の字をとったもの。

餓島・・・・・・ガダルカナル島の戦いで日本軍は開戦以来初めて退却。米軍の本格的反攻の第一歩。戦死の大半は餓死で、「餓島」と呼ばれた。戦死約2万人中、1.5万人が餓死と戦病死。

下らない酒・・・・江戸時代に上方で生産された酒は品質が良く、「下り酒」と呼ばれた。その逆の下らない酒は上級品ではなく、採るに足らないことを意味する「下らない」の語源となった。将軍の御膳酒に指定された伊丹酒の『剣菱』も下り酒の一つで、現在もなお生産されている。

琵琶湖に映る月影・・・・紫式部が石山寺に参籠し、琵琶湖の水面に映える月に着想を得て『源氏物語』を起筆したとされる。北村季吟の『源氏物語』の注釈書は『湖月抄』という。

蟠桃は番頭・・・・山片蟠桃は、無鬼論(無神論)の主張、地動説などを論じた『夢の代』を著した。名前は升屋の番頭をしていたことからもじったもの。

意図して衰弱死し怨霊となる・・・・桓武天皇の弟で皇太子に立てられていた早良親王は、造長岡宮使藤原種継暗殺事件に連座して廃されて幽閉された。しかし無実であるとして絶食し、淡路国に配流される途中に河内国で衰弱死。その後、皇太子に立てられた安殿親王が発病、桓武天皇の皇妃が4人病死、桓武天皇の母の高野新笠が病死し、怨霊の祟りと恐れられた。

野球用語の造語者・・・・正岡子規は野球の愛好者で、「打者」「走者」「四球」「死球」「直球」「飛球」などを飜訳造語した。子規が野球をした上野には、今も上野恩賜公園正岡子規記念球場がある。野球の普及に貢献した功績により2002年には野球殿堂入り。

弟を毒殺・・・・足利尊氏の片腕として二頭政治を担ってきた弟の直義は、尊氏と対立して観応の擾乱を引きおこした。そして突然病死するが、『太平記』は毒殺されたと記している。他に文献史料がなく真相は不明であるが、結果として尊氏に有利な状況が生まれたことは事実。

阿弥陀像の大量生産・・・・定朝が完成させた寄木造りの造仏技法は、一木造に比べて巨像が可能となり、効率的木取りによる素材の節約、分割による作業の同時進行化、パーツの規格化による大量生産が可能となった。その背景には、たくさん作ることに功徳があるという理解や、九体仏の需要増加などがあった。阿弥陀仏のプラモデル化と考えればわかりやすい。

桐生・東京間の日帰りサイクリング・・・・岩宿遺跡の発見者相沢忠洋は、大学教授の指導を受けるために、片道130㎞を往復18時間かけ、未舗装の道を「おんぼろ」自転車で往復した。

一円で自宅に文学図書館を・・・・大正15年~昭和初期、1冊1円で売り出された文学全集などのいわゆる「円本」のキャッチコピー。当時の1円は、大卒初任給の約2%で、現代の感覚としては安くはないが、当時は廉価であった。それだけ本という物は高価な物だったということ。

大根おろしの消化促進効果・・・・高峰譲吉は麹菌からデンプン分解酵素を抽出し、「タカジアスターゼ」と命名して商品化。三共薬品の事実上の初代社長となっている。ジアスターゼは大根にも多量に含まれているので、辛み餅は理に適っている。

後鳥羽上皇慰霊の歌・・・・応仁の乱などの乱世は、後鳥羽上皇の怨霊に起因すると信じられ、250回忌の法要に際して慰霊のために、『水無瀬三吟百韻』がゆかりの水無瀬宮に奉納されたもの。発句「雪ながら山本かすむ夕べかな」は、上皇御製「見渡せば山本かすむ水無瀬川夕は秋となに思ひけむ」を下敷きにしている。

後白河法皇崩御の年・・・・頼朝は征夷大将軍就任を熱望していたが、後白河法皇が許さなかった。それで法皇の崩御後、後鳥羽天皇によって許された。つまり頼朝が征夷大将軍になった年と後白河法皇が崩御したのは同じ年のことになる。

入内8年目の我が子を失った哀しみ・・・・平徳子は17歳で6歳年下の高倉天皇の女御となった。24歳でようやく子(安徳天皇)を授かるが、31歳の時、壇ノ浦の戦いで入水するも、自分だけが助けられた。以後は大原寂光院で我が子の冥福を祈りつつ過ごした。

革命の安全弁・・・・普通選挙法を成立させた護憲三派内閣の浜口雄幸内相は、議会で「普通選挙法は革命の安全弁」と答弁。国民の権利伸張よりも、社会主義革命を未然に防止するのが狙い。

埴輪の左前・・・・着物の右前は養老律令で唐風に統一。古墳時代の埴輪や高松塚古墳壁画では左前。左前は騎射に適していて、古墳時代に騎馬の風習と共に大陸から伝えられた。

木戸孝允の最期の言葉・・・・西南戦争が始まると、予てから重態であった木戸孝允は、大久保利通の手を握り締め、「西郷、いいかげんにせんか」と言い遺して没した。つまり「維新三傑」のうちまず木戸が西南役最中に死に、西郷が死んで西南役が終わり、翌年、不平士族によって大久保が殺され、維新三傑みな没したことになる。以後は大久保の後継を自認する伊藤博文と、大隈重信が政局の主導権を争うことになった。

首里城の龍の爪・・・・明・清に朝貢し冊封関係にあった琉球王国では、国王のシンボルの龍の爪は、明・清の皇帝を表す龍の爪が5本であるのに対して、1本少ない4本であった。

本名はヘップバーン・・・・明治学院創設者でヘボン式ローマ字の考案者であるヘボンの姓はHepburn。彼は日本風に「平文」と表記し、ヘボンと読んでいた。彼がアメリカで死んだ当日の同時刻、明治学院のヘボン館が焼失したのは、嘘のような本当の話。

二・二六事件の官邸「女中」の機転・・・・二・二六事件で首相秘書官の迫水久常が官邸に行くと、「女中」が襖を背にして坐っていた。「怪我はなかったか」と尋ねると、「御怪我はございません」と応えたので、迫水は岡田首相が無事に押し入れに隠れていることを察した。そこから極秘の救出策戦が始まる。

since 1869・・・・サッポロビールは開拓使が設立した開拓使麦酒醸造所に始まり、現在も瓶や缶には「since 1869」と表記され、開拓使のシンボルの北極星が商標として描かれている。

横浜繁栄の功績者像・・・・寂れた漁村であった横浜は、幕末の貿易の開始に伴って欧米へ開かれた窓口となった。一般には人気のない井伊直弼であるが、無勅許条約調印を大胆に推進したことにより、横浜では繁栄の恩人として、掃部山公園に銅像が立てられている。

三つ目の仏像・・・・東大寺法華堂本尊不空羂索観音には、ヒンドゥー教の神像の影響。シヴァ神のように額に第三の目・複数の腕があり、肩に鹿皮(シヴァも毛皮をまとっている)を掛けている。『不空羂索呪経』には、「自在天の如し」と説かれているが、自在天とはシヴァ神の漢名。

神様に脱帽・・・・第一次護憲運動において、「憲政の神様」と呼ばれる尾崎行雄が演台に上ると、聴衆から「脱帽」という声が上がった。

ミロのヴィーナスの返礼・・・・昭和39年にミロのヴィーナス、同49年にモナリザが日本で公開された返礼の一つとして、鑑真像がフランスに渡って公開展示された。また平成22年には、中国の故郷の江蘇省揚州市に里帰りした。

中国の超イケメン革命家・・・・法政大学に学び、孫文の側近として活躍した汪兆銘は、映画俳優もとても及ばないような超イケメンだった。晩年はそれなりだったが、若い頃の写真をネットで検索してみて。

聖徳太子の水浴・・・・室町期に立花を体系化した池坊のある京都六角堂は、聖徳太子創建と伝えられる。「池坊」は太子が水浴した池があることに因る呼称。

北面する天皇陵・・・・吉野山から京都回復を悲願とした後醍醐天皇の陵は、天皇陵としては唯一北向きとなっており、「北面の御陵」と呼ばれた。

大風呂敷の昭和通り・・・・関東大震災後に内相となった前東京市長後藤新平は、震災を不幸中の幸いとし、将来を見越して幅10間(72m)の道路を企画。余りに広すぎるとして反対され、道幅は24間(44m)となったが、現在の東京の昭和通り(他に靖国通・明治通も)は、彼の先見性を示す。あだ名は「大風呂敷」だった。

校則は「Be Gentleman」・・・・日本の役人から、札幌農学校の生徒を厳しく指導するために作られた校則を見せられたクラーク教頭は、校則は「Be Gentleman」だけで十分であるとして、案を退けた。 彼が在任したのはわずか8カ月だったが、大きな精神的感化を及ぼした。

財閥解体とスバル・・・・富士産業株式会社(旧中島飛行機)は戦後15社に解体されたが、昭和28年、その内の5 社出資による新会社富士重工業株式会社が発足。5社を統合(統べる)して1社となることの象徴として、古来「六連星」(むつらぼし)と呼ばれた「すばる」(統ばる)がシンボルとされた。星の大きさも意図して、1つは大きく、他5つは小さくデザインされている。

千両の重さ・・・・金の比重は約20(19.32)、慶長小判は18g弱だから、千両箱に詰めると、約25㎏。天保小判は約11gだから、千両箱入りなら約20㎏。盗賊が小脇に抱えて逃走することなどできるはずもない。

助さんの推薦状・・・・徳川光圀は『農業全書』を見て、「これ人の世に一日もこれ無かるべからざるの書なり」と絶賛。家臣の「助さん」こと佐々宗淳に命じて、推薦状を書き送らせた。以後増刷された『農業全書』には、その手紙の筆跡もそのままに掲載されている。

長男の名はカノー・・・・日本美術の復興に命を懸けたフェノロサは、仏教に改宗し、長男にカノー(狩野)と命名。遺骨は遺言により分骨されて日本に埋葬された。美術の専門家のように思えるが、専門としたのは政治学や哲学。

命懸けの観音像・・・・妻に先立たれて打ちひしがれ、絵筆を執らなくなってしまった狩野芳崖に、フェノロサは再び観音図を描くことを勧めた。一年をかけて『悲母観音像』を完成させた4日後、芳崖は亡くなった。観音には妻の印象が重なっていたかもしれない。

対馬島の日制定・・・・韓国の旧馬山市(現 昌原市)は、2005年、1419年の応永の外寇で李氏朝鮮軍が対馬征伐のために馬山浦を出発した6月19日を、条例により「対馬島の日」に制定。同条例には 「対馬島が韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と明記。

木になる綿・・・・「綿」とは本来は蚕の繭をほぐしたもののこと。室町時代に朝鮮から本来の綿によく似た木になるものが伝えられ、「木綿」と呼ばれた。そのためそれと区別するために、本来の綿は「真綿」と呼ばれるようになった。今日では真綿を見る機会が少なく、「綿」と言えば木綿の綿になってしまった。

フランスの 大学院首席卒業の日本人・・・・フランス流民法を巡る民法典論争で、賛成の立場をとった梅謙次朗は、フランスのリヨン大学大学院を飛び級で首席卒業。民法は全文完璧に暗記していた。

マカオの仇を長崎で・・・・慶長13年、有馬晴信の朱印船がポルトガル領マカオでマードレ・デ・デウス号の船員との間で乱闘事件を起こし、60余名の日本人水夫が殺害され、その積荷までが奪われた。その報復の機会を窺っていた有馬晴信は、慶長15年、これを焼き討ちし、同号は爆沈した。その大砲は引き揚げられ、現在は天理図書館に展示されている。

黒曜石製土壌改良材・・・・ホームセンターで売られている園芸用の土の中に含まれている白い真珠のような粒子は、パーライトと呼ばれている。これは主に黒曜石を高温で焼き、ポップコーンのように発泡させた物。

池田首相の退陣の日・・・・首相の病気は政局に影響するので極秘事項であるが、池田首相は東京オリンピックの閉会を見届け、翌日に佐藤栄作を後継総裁に指名して退陣を表明した。