年の瀬の飛鳥川の流れもはやく、そろそろ正月に関わることを書いてみようと思いました。そこで何となく思い付いたのが、元旦に鳴く初烏のことです。我が家の近くの森には烏のねぐらがあって、毎朝早くから烏が煩いほどに鳴き、夕暮には三々五々帰って来ます。その数はおそらく数百羽はいそうです。
元旦に限らず、烏が早朝まだ薄暗い時から鳴くことは、『万葉集』にも詠まれています。
①暁(あかとき)と夜烏鳴けどこの山の木末(こぬれ)の上はいまだ静けし(万葉集 1263)
②朝烏早くな鳴きそ我が背子が朝明(あさけ)の姿見れば悲しも(万葉集 3095)
①の「暁」は現代人の曖昧な理解とは異なってまだ暗い時ですから、「夜烏」と呼ばれています。②は、烏にそんなに朝早くから鳴くな。私の愛する人が朝になったと帰ってしまうから、という意味で、当時の妻問婚が背景となっています。早朝に鳴いて、共寝する恋人との別れを促す烏は、その後「やもめ烏」と呼ばれるようになります。烏そのものを恨んでいるわけではありませんが、烏は割の合わない役目をさせられているわけです。神武天皇を熊野の山中で導いた八咫烏のような例もありますが、概して烏は嫌われることが多く、『枕草子』の中でも「憎きもの」として数えられています。
しかし普段は嫌われ者でも、江戸時代には元旦の烏は「初烏」と称して、目出度いものと理解されていました。それは初日の出を尊ぶ風習と表裏一体となっています。古代中国では、太陽には烏が住んでいると理解されていて、そのような理解は7世紀には日本に伝えられています。大津皇子が謀叛の疑いで処刑される前に詠んだ辞世の詩には、「金烏西舎に臨(て)らひ 鼓声短命を催(うなが)す」という有名な詩句があるように、烏は太陽の象徴でもありました。初日の出に向かって飛ぶように見える烏は、鶴にも優る瑞鳥としして理解されていたのです。
そのような元旦の烏を詠んだ川柳をいくつか上げてみましょう。
③明烏 元日ばかり 憎からず (誹風柳多留 71)
④元日の 烏は年の 手力雄 (誹風柳多留 101)
⑤元朝の烏 鶴にも 優る声 (誹風柳多留 131)
④は天岩戸に籠もった天照大神を、手力雄命が怪力を以て押し開き、天照大神が再び姿を表したことを、初日の出に擬えているわけです。初日の出を背景にして飛翔する鶴の姿は、正月用の掛け軸の画題として好まれたものでした。
そんなわけで、普段は嫌われ者かもしれませんが、元旦の初烏を目出度いものとして御覧になってみませんか。
元旦に限らず、烏が早朝まだ薄暗い時から鳴くことは、『万葉集』にも詠まれています。
①暁(あかとき)と夜烏鳴けどこの山の木末(こぬれ)の上はいまだ静けし(万葉集 1263)
②朝烏早くな鳴きそ我が背子が朝明(あさけ)の姿見れば悲しも(万葉集 3095)
①の「暁」は現代人の曖昧な理解とは異なってまだ暗い時ですから、「夜烏」と呼ばれています。②は、烏にそんなに朝早くから鳴くな。私の愛する人が朝になったと帰ってしまうから、という意味で、当時の妻問婚が背景となっています。早朝に鳴いて、共寝する恋人との別れを促す烏は、その後「やもめ烏」と呼ばれるようになります。烏そのものを恨んでいるわけではありませんが、烏は割の合わない役目をさせられているわけです。神武天皇を熊野の山中で導いた八咫烏のような例もありますが、概して烏は嫌われることが多く、『枕草子』の中でも「憎きもの」として数えられています。
しかし普段は嫌われ者でも、江戸時代には元旦の烏は「初烏」と称して、目出度いものと理解されていました。それは初日の出を尊ぶ風習と表裏一体となっています。古代中国では、太陽には烏が住んでいると理解されていて、そのような理解は7世紀には日本に伝えられています。大津皇子が謀叛の疑いで処刑される前に詠んだ辞世の詩には、「金烏西舎に臨(て)らひ 鼓声短命を催(うなが)す」という有名な詩句があるように、烏は太陽の象徴でもありました。初日の出に向かって飛ぶように見える烏は、鶴にも優る瑞鳥としして理解されていたのです。
そのような元旦の烏を詠んだ川柳をいくつか上げてみましょう。
③明烏 元日ばかり 憎からず (誹風柳多留 71)
④元日の 烏は年の 手力雄 (誹風柳多留 101)
⑤元朝の烏 鶴にも 優る声 (誹風柳多留 131)
④は天岩戸に籠もった天照大神を、手力雄命が怪力を以て押し開き、天照大神が再び姿を表したことを、初日の出に擬えているわけです。初日の出を背景にして飛翔する鶴の姿は、正月用の掛け軸の画題として好まれたものでした。
そんなわけで、普段は嫌われ者かもしれませんが、元旦の初烏を目出度いものとして御覧になってみませんか。