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うたことば歳時記

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初烏

2018-12-04 09:58:11 | うたことば歳時記
 年の瀬の飛鳥川の流れもはやく、そろそろ正月に関わることを書いてみようと思いました。そこで何となく思い付いたのが、元旦に鳴く初烏のことです。我が家の近くの森には烏のねぐらがあって、毎朝早くから烏が煩いほどに鳴き、夕暮には三々五々帰って来ます。その数はおそらく数百羽はいそうです。
 
 元旦に限らず、烏が早朝まだ薄暗い時から鳴くことは、『万葉集』にも詠まれています。
①暁(あかとき)と夜烏鳴けどこの山の木末(こぬれ)の上はいまだ静けし(万葉集 1263)
②朝烏早くな鳴きそ我が背子が朝明(あさけ)の姿見れば悲しも(万葉集 3095)

 ①の「暁」は現代人の曖昧な理解とは異なってまだ暗い時ですから、「夜烏」と呼ばれています。②は、烏にそんなに朝早くから鳴くな。私の愛する人が朝になったと帰ってしまうから、という意味で、当時の妻問婚が背景となっています。早朝に鳴いて、共寝する恋人との別れを促す烏は、その後「やもめ烏」と呼ばれるようになります。烏そのものを恨んでいるわけではありませんが、烏は割の合わない役目をさせられているわけです。神武天皇を熊野の山中で導いた八咫烏のような例もありますが、概して烏は嫌われることが多く、『枕草子』の中でも「憎きもの」として数えられています。    

 しかし普段は嫌われ者でも、江戸時代には元旦の烏は「初烏」と称して、目出度いものと理解されていました。それは初日の出を尊ぶ風習と表裏一体となっています。古代中国では、太陽には烏が住んでいると理解されていて、そのような理解は7世紀には日本に伝えられています。大津皇子が謀叛の疑いで処刑される前に詠んだ辞世の詩には、「金烏西舎に臨(て)らひ 鼓声短命を催(うなが)す」という有名な詩句があるように、烏は太陽の象徴でもありました。初日の出に向かって飛ぶように見える烏は、鶴にも優る瑞鳥としして理解されていたのです。

 そのような元旦の烏を詠んだ川柳をいくつか上げてみましょう。
③明烏 元日ばかり 憎からず  (誹風柳多留 71)
④元日の 烏は年の 手力雄   (誹風柳多留 101)
⑤元朝の烏 鶴にも 優る声   (誹風柳多留 131)

④は天岩戸に籠もった天照大神を、手力雄命が怪力を以て押し開き、天照大神が再び姿を表したことを、初日の出に擬えているわけです。初日の出を背景にして飛翔する鶴の姿は、正月用の掛け軸の画題として好まれたものでした。

 そんなわけで、普段は嫌われ者かもしれませんが、元旦の初烏を目出度いものとして御覧になってみませんか。

往く秋・秋の暮

2018-10-31 20:28:46 | うたことば歳時記
 ようやく秋の花である菊が咲き始めたというのに、あと一週間、11月7日は立冬です。まだ冬が近いとは思えませんが、確実に秋は深まっています。ある季節が深まって次の季節が間近になることは、古には「季節が往く」とか「季節が暮る」と表現されました。他にもいろいろに表現を歌の中から拾い出せます。このようなことばを探し出すのは簡単です。和歌集の秋の部の終わりのあたりを、片端から探せばよいからで、あらためて探してみました。見つかったものを並べてみましょう。秋終る・暮れてゆく秋・秋は限り・過ぎ行く秋・秋の分れ路(じ)・秋の別れ・秋の泊まり・秋の湊・ゆく秋・暮るる秋・秋の暮れゆく・秋は去(い)ぬ・秋の残り・秋も末・秋の果て・暮れはつる秋などいくらでもありました。漢語では九月尽という表現もあり、俳句や現代短歌にはときどき見られますが、無骨すぎて私の日本的感性では馴染めません。いずれも秋を惜しむうたばかりで、夏と冬にはこのような言葉はありません。もちろん春を惜しむ歌もたくさんあります。やはり夏と冬は過ごしにくいので、早く過ぎ去ることを期待するからなのでしょう。

 それでは手許のデータから、秋の往くことを惜しむ歌を、気の向くままにいくつか上げてみました。
①夕月夜小倉の山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらむ(古今集 311)
②深山より落ち来る水の色見えて秋は限りと思ひ知りぬる(古今集 310)
③秋はただ今日ばかりぞとながむれば夕暮にさへなりにけるかな(後拾遺 374)
④草の葉にはかなく消ゆる露をしも形見に置きて秋の行くらむ(金葉集 272)
⑤さりともと思ふ心も虫の音も弱りはてぬる秋の暮かな(千載集 333)

①について、嵐山に近い小倉山は、古来鹿の名所として知られていました。鹿の声は哀愁を帯びたものですが、それが夕月夜に聞こえるのですから、ますます侘しくなります。少々脱線しますが、粒の形の残っている小豆餡を小倉餡といいますが、これは小豆の粒を鹿の背中の斑模様に見立てたものです。そんなわけで、私はこの時季に食べる和菓子には、敢えて小倉餡を使っているものを選んだりします。

②の「水の色」とは、流れるもみぢの色のことです。もみぢと言わずに、水の色と表現しているところに、作者の感性が冴えています。思わず私も真似したくなります。流れるもみぢに往く秋を惜しむと言う発想の歌はたくさんあります。陳腐と言ってしまえばそれまでですが、それは多分に歌を文芸と見做してしまう現代短歌的価値観であって、往時にはにたような発想の歌を詠むことは、それ程問題にされてはいません。

③は、秋の最後の日の夕暮を詠んだ歌です。「春は曙」に対して「秋は夕暮」が趣あるものとする理解がありましたから、季節が暮れることとその日が暮れることが重なって、寂寥感が増幅されるのです。平成30年の九月尽は11月6日ですから、その日の夕暮をしみじみと眺めてみるのもよいでしょう。四神思想では秋は方角では西に当てはめられますから、ただでさえ秋には「西」の印象が付いて回ります。 

④は、葉末の露を行く秋の形見と見ています。「形見を置いて行く」という表現に、秋を擬人的に理解している工夫が見られます。秋は竜田姫という女神に象徴して理解されることが、このような擬人的理解の背景となっているのでしょう。ちなみに春の女神は佐保姫と呼ばれています。この露が霜になると冬になったことが実感させられるわけで、露は秋の夜の重要な景物でした。

⑤の「さりともと思ふ心」とは、「いくら何でも、少しくらいはよいことがあってもよさそうなのに」と、かないそうもない儚い期待をする心のことです。そのような期待する心も虫の声も、すっかり弱くなってしまった秋の暮であることよ、という意味です。弱まる虫の声は作者の気力そのものなのでしょう。

5首をならべてみましたが、鹿の鳴き声・みもぢ・夕暮・露・虫の声などが詠まれていました。まだいくらでもあるのですが、夕暮から夜に懸けての情景が多いことが特色です。まあもみぢには当てはまりませんが。ここには上げませんでしたが、秋の重要な景物である月も夜のものですから、行く秋を惜しむ心は、夜に増幅されると言うことができるでしょう。立秋までこれから一週間あります。しみじみと行く秋を味わってみたいと思います。

 今朝の散歩の途中、早くもジョウビタキやコガモの姿を見ました。もう冬が間近な徴です。とりとめもないことを書いてしまって済みません。

和泉式部の葛の葉の歌について

2018-08-02 20:35:32 | うたことば歳時記
 先日、私のブログ「うたことば歳時記」の読者の方から、2015年8月9日に投稿した「葛の裏風」という拙文の和泉式部がらみの歌についてご質問がありました。忙しさにかまけてご返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。忙しさに変わりはないのですが、わざわざのお問い合わせですので、わかる範囲でお答えいたします。

 お問い合わせの歌は 「うつろはでしばし信太の森を見よかへりもぞする葛の裏風」(新古今 雑 1820)
という歌です。これにはいろいろな背景があるのですが、それを省略してしまったので、お問い合わせがあったようです。

 御存知のように和泉式部は恋多き情熱的な歌人という評価が定着しています。まあ事実そうなのですが、同時に二股をかける奔放な恋狂いというわけではなさそうです。彼女は初めは和泉の国司であった橘道貞の妻となりました。「和泉式部」という女房名は、この夫の官職に拠っています。後に歌人としてよく知られる、小式部内侍はこの二人の娘ですから、夫婦関係は最初の頃は順調だったのでしょう。小式部内侍は母より前に亡くなりますが、娘に後れた母の哀しみを歌った歌には、胸を打つものがあります。夫とは疎遠になったものの、娘に対する愛情は人一倍強いものがありました。

 その後和泉式部は冷泉天皇の皇子である為尊親王と恋愛関係になります。どちらかといえば、親王の方が積極的だったのでしょう。為尊親王はかなりのイケメンで知られていて、その道での軽々しい行動が顰蹙をかうこともあったようです。しかしこのカップルは、身分家柄が釣り合わず、式部は親から厳しく叱責されました。片方は親王であり、他方は大江氏という由緒ある氏族出身とはいえ、国司の娘です。国司の官位は四位か五位ですから、中級貴族にすぎません。ところが二人の関係は長くは続きませんでした。為尊親王は伝染病にかかり、26歳で病死してしまったからです。

 ところが為尊親王の死がきっかけになったのでしょうが、一年後、為尊親王の弟である敦道親王と相思相愛の関係になりました。兄弟ですから、敦道親王も相当のイケメンだつたのでしょうし、式部にしてみれば為尊親王の面影を感じ取ったのかもしれません。敦道親王は式部に相当の熱を上げたようで、藤原氏の正妻がいるにもかかわらず、式部を自邸に住まわせ、結果的に正妻は家を出てしまいます。さすがの式部にしても、藤原氏の正妻を追い出してしまうことは不本意だったでしょう。二人の間には男の子が一人生まれています。ところが偶然にも敦道親王も26歳で亡くなってしまいました。

 その後式部は藤原道長の家臣で、20歳も年上の藤原保昌と再婚し、保昌は丹後の国司となり、一緒に任国に赴いています。しかしこの結婚も長続きはしなかったようです。『後拾遺集』の1162番歌に、「男に忘られて侍りける頃、貴船に参りて御手洗川の螢の飛び侍りけるを見て詠める」という詞書きが添えられた、「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る」という式部の歌があります。この歌については、私のブログ「うたことば歳時記 遊離魂の螢」と題して既に投稿してありますから、そちらを検索して下さい。

 まあざっと式部の恋の遍歴をお復習いしてみました。そこで御質問の歌の件ですが、実はこの歌は友人の赤染衛門という女性が式部の恋に関わって送って寄こした歌なのです。その歌は、次の如くです。

 「うつろはでしばし信太の森を見よかへりもぞする葛の裏風」。これには「和泉式部、道貞に忘られてのち、程なく敦道親王かよふと聞きてつかはしける」という詞書きが添えられています。友人の式部が夫から疎遠にされているのを心配していたところ、敦道親王との恋が表沙汰になったので、さらに心配になって歌を詠んで寄こしたというわけです。歌の意味は、心変わりすることなく、しばらくは信太の森の様子を御覧なさい。葛の葉を裏返す風が吹いて、また返ってくるかもしれないから、ということです。ここで信太の森が重要なのですが、信太の森は当時は和泉国の歌枕として誰もが知っている所でした。式部の夫が和泉の守であったことはお話ししましたが、ここでは信太の森はその夫道貞を表しているのです。つまり歌の本当の意味は、葛の葉を裏返す裏風のように、夫が戻ってくるかもしれないから、敦道親王などに心を寄せずに、もうしばらく夫の帰りを待ってごらんなさい、ということなのです。恋多き式部を、やんわりとたしなめたのかもしれません。

 それに対して式部が赤染衛門に返した歌が次の歌です。「秋風はすごく吹けども葛の葉のうらみ顔には見えじとぞ思ふ」。意味は、秋風は恐ろしいばかりに吹いているが、風に裏返って裏を見せる葛の葉のように、恨んでいるとは見られないようにと思います、ということです。「秋風」は当時の歌の世界では「飽きる風」、つまり恋に飽きが来たことの象徴でした。「すごい」と言う言葉は現在では「とても」とか「大変に」とか言うように、善し悪しに関係なく程度が著しいことを表しますが、本来は寒々しい、ぞっとする、恐ろしいというような、あまり嬉しくないことが著しいことを表す言葉です。ですから私などは「すごく嬉しい」などと言われると、それこそものすごく抵抗感があり、素直に受け取れない言葉です。しかし現在ではそんなことを感じる人の方が少ないので、仕方がないと思いますが、自分自身の言葉遣いとしては、「すごい」「すごく」と言う言葉は、マイナスのイメージの時しか使わないように心掛けています。

 その秋風がすごく吹くというのは、夫の道貞が妻の式部に飽きがきて、冷たく当たっていることを意味しています。そして風に吹かれた葛の葉は裏に返って裏を見せるので、「返る」や「恨み」(裏見)を連想させます。そのように飽きる風が吹いて夫が冷たくするので、それを恨みに思って敦道親王に心を寄せていると思われないようにしましょう、ということになるわけです。

 まあそうは言っても結果としては敦道親王に入れ込んで行くのですが、それはともかくとして、当時の教養ある人の歌は、なかなか手がこんでいて、理解するのが難しいものです。現代短歌を詠む人たちは、このような手の混んだ歌を退けるでしょうが、私自身はむしろこのような歌を詠めるようになりたいものと思っています。

 連日猛暑が続き、先日は41度を超えてしまいました。我が家は猛暑で知られる埼玉県熊谷のすぐそばですから、ほぼ同じ暑さです。それでもクーラーが無いので、扇風機だけで過ごしています。開け放った窓からは、ちょうど葛の花やクサギの花の甘い香が漂ってきます。窓を閉め切っていたらわからない風情でしょう。葛の花を摘んできて、酢の物に添えたりしてこの季節を楽しんでいます。


藤波(藤浪)

2018-04-22 15:26:08 | うたことば歳時記
藤の花が盛りとなっています。古歌には春と夏とに跨がって咲くと詠まれていますから、ちょうど今頃から見頃になるのでしょう。そうするとすぐに思い浮かぶ歌があります。「我が宿の池の藤波咲きにけり山ほととぎすいつか来鳴かむ」(古今集 夏 135)これは『古今集』夏の歌の巻頭歌ですから、立夏と聞くと、藤の花を見ながら、ほととぎすが来るのを待ち焦がれるというのです。

 「我が宿」は旅の宿ではありません。その頃「我が宿」と言えば、自分の家を意味しました。作者は柿本人麻呂とも伝えられているのですが、この際それは重要なことではありません。作者の家の庭には、池があり、その辺に藤が咲いている場面です。「藤波」と言う言葉は、「藤の花房が風に靡く様子を波に見立てたもの」と説明されることが多いのですが、この場合は池があることがわかっていますから、池の縁語として選ばれていると同時に、実際に藤の花が水面に映っているのでしょう。

 『狭衣物語』の冒頭部分には、「少年の春は・・・・、弥生の二十日余りにもなりぬ。御前の木立、何となく青み渡れる中に、中島の藤は、松にとのみも思はず咲きかかりて、山ほととぎす待ち顔がほなるに、池の汀の八重山吹は、「井出の渡り」にやと見えたり。」と記されていて、庭園の中島に松とそれに絡む藤が植えられていたことがわかります。藤波といううたことばを理解しようという場合は、やはり当時の貴族の邸宅の植栽を参考にするべきだと思います。山ほととぎすが待たれるというのは、古今集のこの歌の影響でしょう。

 藤を詠んだ古歌を読んでみると、水辺の藤が詠まれていることがよくあります。
①み吉野の大川のへの藤波のなみに思はば我が恋ひめやは(古今集 恋 699)
②我が宿の影とも頼む藤の花立ち寄り来とも浪に折るな(後撰集 春 120)
③水底の色さへ深き松が枝に千歳をかけて咲ける藤波(後撰集 春 124)
④限りなき名におふ藤の花なれば底ゐも知らぬ色の深さか(後撰集 春 125)
⑤手もふれで惜しむかひなく藤の花底に映れば浪ぞ折りける(拾遺集 夏 87)
⑥水底も紫深く見ゆるかな岸の岩根にかかる藤波(後拾遺 雑夏 155)
⑦池にひつ松の延枝に紫の波折りかくる藤咲きにけり(金葉集 春 85)
⑧年れどかはらぬ松を頼みてやかかりそめけむ池の藤波(千載集 春 120)

松と共に詠まれることに特徴がありますが、松は「千代の松」と言われるように長寿のシンボルであり、また皇室をも表していますから、松に絡む藤は、皇室との姻戚関係によって繁栄する藤原氏を表すこととなり、藤原氏が好んで詠む題材でした。彼等の邸宅には『狭衣物語』の冒頭部のように池が営まれ、水際に松が植えられ、藤がそれに絡んで咲き、藤の花が実際に水面に映ることがあったのでしょう。紫色が濃いことを「色が深い」と詠むのは、池の深いことと色の深いことを意図して掛けているわけです。また波が藤を折るとも詠まれていますが、実際に折れてしまうはずはなく、水面に映る影が乱れることを「折る」と詠んだものと思います。

 そんなわけで、「藤波」と言う言葉は、ただ単に長い花房が風に揺れる様子を波に見立てたというだけでなく、実際に水面に影が映り、さざ波が立って影が乱れるような場面をも表したものとよむことができるのです。ですから、もし現在、池の辺に松が植えられていて、そこに藤が絡み、藤の花の影が水面に映っている場面があれば、それは古来藤原氏の貴族達が好んで歌に詠んだ、値千金の場面なのです。

 藤波ついでに、もう一つ。平安時代の歌には「北の藤波」という言葉をときどき見かけます。これは藤原不比等の4人の子の中で、北家と呼ばれた房前の子孫に冬嗣・良房・基経らが現れ、摂関家として繁栄することから、摂関家の繁栄を波打つ藤の花に擬えた言葉です。しかしそれなら「北の藤」だけでもよいのですが、「北の藤波」と詠まれるのは、藤は池の辺に植えられるものという理解があったからなのでしょう。

星の林

2017-12-18 12:46:11 | うたことば歳時記
先日、双子座流星群が見えるというので、久しぶりに星空を見上げました。我が家は埼玉県のど真ん中辺り。市街化は及んでいませんが、昔のように満天の星というわけにはいきません。かつてイスラエルに住んでいた頃に見た星空には、とうてい比べられません。

 日本の古歌には月を詠んだ歌は数限りなくあるのですが、星が詠まれることは極めて少ないのです。建礼門院(安徳天皇母、平清盛娘)に仕えた建礼門院右京大夫の「月をこそながめ慣れしか星の夜の深きあはれを今宵知りぬる」(建礼門院右京大夫集 252)という歌は、そのことをよく物語っています。その少ない星の歌の中でも、最もよく知られているのが柿本人麻呂の次の歌でしょう。

①天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ  (万葉集 1068)

この歌には「詠天」という題がありますから、星だけを詠んでいるわけではありません。夜空を海に、雲を波に、月を舟に、一面の星を林に見立てています。舟に見立てられる月は、おそらく満月ではないでしょう。天の川を牽牛や織女が舟で渡るという理解は『万葉集』の頃には広く共有されていましたから、夜空を海に月を舟に見立てることは、柿本人麻呂の独創ではなさそうです。また漢詩には当時からそのように見立てた表現があり、日本最初の漢詩集である『懐風藻』にも見当たりますから、漢詩の影響が濃厚です。しかし一面の星を林に見立てることは、他に例を知りません。私の力不足で知らないだけかもしれませんが、もしあったら御免なさい。しかしあったとしても広く共有される理解ではなかったでしょう。

 この詩情豊かな独特の表現は、例歌は多くはないのですが、その後も歌い継がれています。

②月の舟さし出づるより空の海ほしの林は晴れにけらしも  (新後拾遺 秋 379)
③冴ゆる夜の雲なき星の林より霜吹きおろす木枯らしの風  (夫木抄 7699)

②は、月が上って明るくなったために、それまでよく見えていた「星の林」がよく見えなくなったという意味にとれますが、反対に、月が出る夜となって、「星の林」がよく見えるようになったとも理解できます。③は霜の降りるような寒い冬の夜の木枯らしを詠んだ歌で、地上の霜は「星の林」から木枯らしが吹き下ろしたものと見ているわけです。霜は古くは「結ぶ」という動詞を導くものでしたが、次第に「降る」とか「降りる」という動詞を導くようになります。厳寒の夜空に輝く砂子のような星と、地上で月明かりにきらきら反射し見える霜の印象が似ていることから、そのように理解したものなのでしょう。歌としては、「星の林」の語感を活かしている点で、③の歌の方が成功していると思います。

 空気が乾燥する厳寒の今頃は、星の観察には適しています。無数の冬の星を眺めながら、それを「星の林」に見立てて御覧になって下さい。もし歌をお詠みになるのでしたら、「星の森」もよいかもしれませんね。「星の林」より奥行きが感じられて、無窮の宇宙を感じ取ることが出来るかもしれません。

○奥深き星の森より降る霜の音なき音の冴ゆる小夜中