- 松永史談会 -

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無知と貪欲との狭間で-近世沼隈郡今津村にみる歴史制作の歪んだ実態-

2018年10月13日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
ここでは「無知と貪欲との狭間で-近世沼隈郡今津村にみる歴史制作の歪んだ実態」といったやや冷笑的なタイトルにしたが、久留島浩「村が『由緒』を語るとき‐『村の由緒』についての研究ノート‐」(久留島・吉田伸之『近世の社会集団-由緒と言説-』、山川、1995)では18世紀後半以後、19世紀にかけて村が自己主張を強め、主観的な(=歪んだ)歴史制作が横行していたようだ。

【参考】唐突だが用語解説をしておこう。
現代において「実際には決して起こっていないのに、事実として語られる話 (story which never happened told for true)」を意味するのが「都市伝説」。もうひとつ、ジェームズ・スティーヴンスとの論争の中で生み出されたのがいわゆる「フェイクロア(fakelore)」(本物として提示されたものだが、実際には捏造された民間伝承を指す言葉)。ここで再論する「近世沼隈郡今津村にみる歴史制作の歪んだ実態」というのはこのフェイクロアに関わる事柄。

ところで、近世を通じて庄屋・神主(今津宿本陣を含む)を一元的に世襲してきた河本氏は自身が神主を務める神社の由緒づくりに際し、貴種(新羅王)流離譚を創作し、自己のルーツをこれに関連付け、白鳳期の今津のムラオサ・田盛庄司安邦の子孫だと主張。また四郎左衛門の時代(天明期)には当該神社を「村史」(庄屋役用記録)の中で「当一ヶ(備後)国惣鎮守」だとしたり、薩摩藩に対する3000両貸付要請(実際に薩摩藩に提出されたか書面の控えか否かは不明)時には「私家の儀は白鳳年中より当所に居住にて、御太守様御通行の節、往古より相変わらずこれ相勤め来たり(後略)」といった誠に時代錯誤も甚だしい理屈を持ち出す始末(河本家文書研究会編『今津宿本陣 河本家文書解読集』、2018、18頁)。さらには折角伝十郎の時代に伊藤梅宇の撰文を得て完成した神社縁起を子や孫の時代には反故にするかのごとく、剣大明神の社名すら放棄し、安永8(1779)年には沼隈郡式内3社の内の「高諸神社」へと変更しようとした

注)『備後郡村誌』によると「備後一国惣鎮守」とは吉備津彦大明神(備後一宮)のこと(356頁).自分が神主をつとめる「剣大明神」が当一ヶ国総鎮守だと『村史』収録の書上帳に記載した河本四郎左衛門の心の<闇>の一端が透かし見えてきそうだ。



【解説】『福山志料』の論調は沼隈郡今津村の剣大明神を式内社高諸神社に変更したしたことを批判しているわけで、その点は正しいのだが、論理展開には問題があり、沼隈郡式内3座とは何の関係もない延喜式神名帳中の剣神社の有無を冒頭に持ち出し、その結果『式内社調査報告(第22巻、山陽道、)』、544-547頁(金指正三執筆「高諸神社」)、皇学館大学出版から上げ足を取られ、無用な剣大明神=式内社高諸神社説の肯定論を持ち出す余地を与えてしまっている。


馬屋原重帯『西備名区』(文化元年)や菅茶山ら『福山志料』(文化6、1809年)の編纂者たちからこの点について批判がだされると、一旦、その主張を引っ込めるそぶりは見せた(明治期に入り社名を延喜式に記載された「高諸社」と置換)が、(四郎左衛門の時代には)剣大明神境内に縁起の中で形象化された新羅国の王族関係者のならともかく、河本氏の祖先だと主張する田盛庄司安邦を祭神とする境内摂社まで造営し、そこでの祭礼を文化期には村落行事化したとの記録(文化15、1818)年「当村風俗問状答書」)を残す始末。この村落行事では神主河本家(今津宿本陣を兼ねる)屋敷に、近隣の村々(高須村・西村・東村)の村役人や社人ら関係者を招待し初穂米で造ったお神酒と精進料理を振る舞っている。こういう歴史の流れの中で、役得を最大限に利用する形で利益誘導をはかった結果が河本氏の家系と今津村鎮守・剣大明神(式内社高諸社)の二者に対する「格上げ」工作と「権威付けの承認取り付け」工作であった。


西国街道筋では福山城の西側にあって浅野芸州藩に対峙する位置に沼隈郡神村の今伊勢さんと共に同今津村のお剣さんが立地したことの戦略的重要性に言及した後代の記録(『西備遠藤実記』)もあることや藩領内3か所に限定された(祭礼時の)興行場の一つが剣大明神界隈に形成されたことからも伺えるように、恐らく、地政学的な要地として把握するするためには沼隈郡今津村に対して何らかの優遇策や支援策を講じる必要があったのだろう。そういう状況と近世沼隈郡今津村、就中、江戸期を通じて長らく庄屋・神主及び今津宿本陣を独占的に世襲した河本氏(特に、江戸中期の伝十郎~四郎左衛門までの3代)による慢心&傲慢さとが複雑に絡み合って、歴史制作面での逸脱(=腐敗堕落)したやり方の下地が作り出されていったのだろ。


「田盛庄司安邦61世孫」と言い出した河本四郎左衛門眉旨が村差出帳の中に書き加えた「創作=偽造された剣大明神に関する由緒」。四郎左衛門はこのような差出帳とか風俗問状答書のような公的な報告書のような場を活用して歴史制作を行っていた。四郎左衛門は当該差出帳の朱書された追記部分でわざわざ(自分たちがその作成に関与したはずの)「蓮花寺由緒書」なるものを意図的に持ち出し「田盛之社は剣社の境内にあり」と語らせている。こういう一連のやり方は誇るべき証文不在の中で創作した白鳳時代とか田盛庄司安邦なる架空の人物や単なる(新たに創建した)田盛之社の存在に、歴史的実体性を与えるための河本四郎左衛門眉旨が常用した巧妙な印象操作に他ならなかった。こうした江戸時代後期の日本人の生活倫理に則していえば道義を弁えぬ逸脱した行為、換言すれば自分に都合の良い形で行われる歴史制作が近世後半期には、数は多くはなかったにせよ、結構横行していたようだ(久留島浩「村が『由緒』を語るとき」、久留島浩・吉田伸之編『近世の社会集団』、山川出版、1995,3-38頁所収)。


次の書籍は出版されてからかなり時間が経過しているがこうした問題をアカデミズムの中で論じた画期的なものだった。



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