- 松永史談会 -

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東京帝大医学部長時代の永井潜

2018年10月12日 | repostシリーズ
東京帝大の学生の描いた戯画の中の永井先生は・・さてさてどれでしょ?

医学部卒業記念写真。▲印の人物は夏目漱石の主治医でもあった帝大総長・長与又郎。その向かって右隣が生理学者で東条内閣時代の文部大臣となる橋田。その隣が生理学者永井潜だ。長与の向かって左隣りが病院長なのに医学部長の永井が橋田に席を譲ったのは何故なのか。医学上の業績の差???????  長与は癌研究の世界的権威、橋田は実験生理学の我が国における権威だった。彼らに比べると永井の医学面での業績はやや少なかったとされる。ただ一高⇒東京帝大医科という典型的な秀才コースを歩んだ人だけに、その存在はかなりgreatだったらしい。
そのことはともかく民族衛生とか優生学の方面に注力していた頃のなんとなく険しい永井の表情が印象的。

戦後東京都知事となる東龍太郎が二列目。小野田寛郎少尉の長兄敏郎(その後軍医)はこの卒業アルバム作成委員会の中心的人物(前列中央)


永井は松永浚明館(松永西町の石井竹荘が子弟教育のために建てた漢学塾、明治16-18年 沼隈郡内の頭の良い農村青年たちが入門した漢学塾、ただ時代は沼隈郡あたりでもキリスト教の布教が活発化し、かつ近代科学の流入時代を迎えていた)で長谷川櫻南の教えを受け、途中、高島平三郎の忠告で広島師範付属小学校に転入学し、その後福山中学(誠之館)⇒第一高校(ドイツ語専修、無試験で)⇒東京帝大に進学した秀才だった。長谷川櫻南の浚明館には恩師をしたって教え子の高楠順次郎(東京帝大教授・文化勲章受章者)らも時々訪れていたようだ。
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