- 松永史談会 -

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松本恒吉日記@明治37年8月広島病院

2016年08月31日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
明治37年8月22日日記にある松本と河本テルとの会話

2,3年前東京赤十字社看護婦養成所を修了したとある。こまめに日記を書いている松本をみてそれを原稿にまとめ本にしてみないかと。
この中で河本テルは重要なことを書いている。それは新聞雑誌の原稿は聞き書きだが、実地を踏んだ方が筆まめに書いたものは面白いという下りだ。リアリズムを重視する雰囲気が当時国光社内にはあったのだろう。



看護婦は名誉芸妓・娼妓か戦用醜業婦同然だといわれ、それに対する河本テルの反論。



赤十字の看護婦は15年間は、子供や夫など家族を残して義務に服する必要があるという事を口にした後、、河本テルは涙ぐんだ。恒吉は女の涙によれよれになり、一転慰めごとというか同情に転じる、いやはやいやはや





築地の印刷所とは国光社のそれを指すが、松本はテルに言われた通り、ここから著書を出している。
それがこちら
奥付をみると


国会図書館が公開する『征露土産
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洛陽堂は一人の著者の本を複数冊出版するということをよくやっている。松本恒吉の場合もしかりだが、あきれるほどこの出版社が駄作を量産した背景には河本テルが松本に持ち掛けた話からも分る様に印刷工あがりの河本らの営業手法があったのだろか。参考までに河本亀之助は明治末に高島の弟子:下沢瑞世に対してこんな感じの原稿依頼をしている。

その15年後に当たる大正7年の松本恒吉・もと子著『新婚初養蚕記』(養蚕学校出身の妻もと子の書いた農事日記・・・・・中身は河本テルの希望にはそった個別具体的で即物的な内容だが、内容をあまり吟味することなく、こんなものをいとも簡単に公刊してしまう洛陽堂の在り方には聊か首をかしげる・・・案の定、洛陽堂は大正7,8年の不景気に続き河本亀之助の死(大正9年12月)なども災いし創業15年記念セールにこぎ着ける前には倒産)

袖珍本(岩波文庫サイズ)・・・・こんなのが千葉県農村部のあるあるネット古書店で¥5000、2か月前に入手したが、どこにしまったかわからず昨日から探し回っていたが、古書を入れた箱と箱の間の床に落ちていた。




【松本恒吉日記@明治37年8月広島病院】の話題は河本亀之助研究で先鞭をつけた田中英夫「洛陽堂雑記 不定期刊行10号」、2009年11月2日、1-22頁中のある記述(田中恒吉『日露戦役夫人の力』、洛陽堂を引用した河本テル情報)に接したことが契機となっている。
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