- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

寺岡千代蔵『漁村教育』、洛陽堂、大正6

2018年09月04日 | 断想および雑談
漁村一般の事柄として論じたもので、場所が特定できるような地名表記はない。しかし、明らかに明治・大正期の沼隈郡島嶼部(走島の漁村)について地方改良の観点からルポした本だと考えたほうが良いだろ。



治山治水(周辺山地の禿山化)と漁村

石炭を積載する巨大運搬船(運炭船)を「黒船」と呼んで沿岸漁民たちは畏れていたらしい(25頁)
この漁民の龍王信仰と安永浜を造成した機織屋庄助の龍宮社を建立した心性とはどこかで繋がっているのだろうか。山路機谷は松永湾の望める藤江の丘の一角に森田節斎と二人三脚で進めていた「史記」研究への思い入れの深さの発露ともいえる龍門祠(『沼隈郡誌』、902-903頁)建立。これは単なる山路の自己満足の所産でここで紹介した龍王信仰とは無関係でした


この本は作田高太郎が言及しなかった点を含め、沼隈郡(現在福山市走島町)あたりの学校教育の現場から見た漁家の生活実態or漁村のフォークロアを知るのに格好のテキストになりそうだ。無論本書の狙いはそういうことを明らかにすることではなく、漁村における学校教育の現状とそれに対する地方改良という側面からの対策提言であったことは言うまでもない。
因みに、例えば寺岡は本書の中で(国策に沿う形で)学齢の繰り下げを提言し、幼童教育の必要性を主張している。参考までにこの地方における幼児教育に関し、村田露月編『松永町誌』(211-212頁)が松永末広町の東隣(旧益田屋の土地の一角)の民家を借り受け御調郡原田町最円寺住職三浦寂静が昭和4年4月に昭和幼稚園を、同年11月丸山茂助の支援で東町元松林庵を改造し東昭和幼稚園を開園している点に触れている。前述したような寺岡の提言は明治末から高島平三郎や倉橋惣三らが推進してきた児童学(or 幼児教育)思想子供文化の広島県における享受の在り方を知る貴重な手がかりともなろう。



洛陽堂刊『農村青年夜学読本』初版大正3年
洛陽堂に山本瀧之助や天野藤男が出入りしていたころの沼隈郡熊野尋常小学校長高山秀雄編の教科書だ。
これに比べると寺岡の『漁村教育』は独自の論理を展開。しかも文才のあった人物なのだろう、『漁村教育』はルポルタージュ系の読み物としてとても面白い。

壺網(坪網)
コメント    この記事についてブログを書く
« 洛陽堂刊行の雑誌『都会及農村』 | トップ | 寺岡千代蔵を調べていて随筆... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。