【落雲館戦争】
苦沙弥先生の家の隣に落雲館という私立の中学校がある。その生徒たちの態度がくしゃみは気に食わない。学校に抗議すると学校は垣を作る。その中学校の生徒たちが野球をする。ボールが垣を超えて苦沙弥の家に入ってくるので苦沙弥はやはり気に食わない。学校にさらに抗議する。このいざこざを「吾輩」は旅順戦争に譬えて語る。
【3人の来客】
落雲館とのいざこざもあり、苦沙弥の癇癪はひどくなる。そこに3人の来客がある。
【世渡り上手の勧め】
一人目は金田の知り合いで、金田から苦沙弥の様子を見てきてくれと頼まれた鈴木藤十郎である。鈴木は苦沙弥に次のように言う。
「人間は角があると世の中を転ころがって行くのが骨が折れて損だよ。丸いものはごろごろどこへでも苦くなしに行けるが四角なものはころがるに骨が折れるばかりじゃない、転がるたびに角がすれて痛いものだ。どうせ自分一人の世の中じゃなし、そう自分の思うように人はならないさ。まあ何だね。どうしても金のあるものに、たてを突いちゃ損だね。ただ神経ばかり痛めて、からだは悪くなる、人は褒めてくれず。向うは平気なものさ。坐って人を使いさえすればすむんだから。多勢に無勢どうせ、叶わないのは知れているさ。頑固もいいが、立て通すつもりでいるうちに、自分の勉強に障ったり、毎日の業務に煩はんを及ぼしたり、とどのつまりが骨折り損のくたびれもうけだからね。」
おっしゃる通りである。しかしそれができないから苦沙弥なのである。これは多くの人間が共通して持っている心の問題である。
【催眠術】
かかりつけ医の甘木が往診にくる。癇癪がなおらない苦沙弥は甘木に催眠術で治せないか尋ねる。
苦沙弥は催眠術にはかからなかった。苦沙弥は人間を信じられないのである。だからこそ催眠術にはかからない。私もそうだが、理屈でものを考える人間は頭の中に入ってくる前にフィルターがあるように思われる。他人も信じられないし、自分も信じられない。これが近代知識人の特色なのかもしれない。
【文明比較論】
3人目の来客は「珍客」の「哲学者」である。彼は苦沙弥に次のように言う。
「西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下もとに発達しているのだ。 (中略) いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日を回めぐらす事も、加茂川を逆に流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。」
西洋と日本の社会の文明比較である。あまりに的を射ている。世の中の理不尽さに腹を立てているよりも、心を自由にする訓練をしたほうがずっといいのだ。私に言われているような気がした。しかし、それができないから、私は私だし、苦沙弥先生は苦沙弥先生なんだよとも思った。