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とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

藤井聡太は本当にすごい

2023-03-20 07:38:17 | 社会
 藤井聡太五冠が渡辺明棋王に挑戦した棋王戦五番勝負で藤井五冠が勝利し、棋王位を奪取しました。これで史上2人目にして最年少での六冠を達成したとのことです。「異次元」というのは、こういう場合に使う言葉なのだろうと思います。

 藤井六冠は当たり前のように勝っているような印象ですが、決して必ず勝っているわけではありません。勝率は高いのですが、もちろん負ける場合もあります。渡辺名人との直近の対戦では終盤に勝ちを見逃してしまい負けてしまったということでした。勝っても負けても紙一重なのです。それでいながらこれだけタイトルを取れるというのは、単純な強さを超える力がある気がします。

 私は今回インターネットで時々生中継をのぞいていました。将棋のレベルが違いすぎて何がいい手なのかはわかりません。だから見ても意味がないなとは思いながら、ルール自体がわからないわけではないので、結構おもしろく見ることができました。最近はコンピューターによる勝敗予測まで出てきます。一手一手でクルクル変わってきます。それを見ているだけでもおもしろい。

 かつて将棋棋士がコンピューターソフトと対戦し、人間が負けてしまうのでこれで将棋も終わりかという風潮になってしまった時期がありました。しかし逆にそこから将棋は盛り上がっています。将棋中継はコンピューターにはない人間の力を発見できるのです。人間の力のすごさを感じさせてくれます。

 藤井聡太六冠をはじめとする将棋棋士のみなさんの並々ならぬ努力に敬意を表します。

 
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『吾輩は猫である』の読書メモ⑨「第九章」

2023-03-16 07:29:20 | 夏目漱石
【鏡】
 「哲学者」の意見に感化された苦沙弥は書斎に立てこもる。おそらかう心を自由にする修行ををしているのであろう。しかし苦沙弥が何をしているかというと、鏡を見つめているのである。つまり自分に執着しているのだ。これでは自由になれるはずがない。「吾輩」は、

「鏡はうぬぼれの醸造器である如く、同時に自慢の消毒器である。」

と評す。結果として苦沙弥先生の自慢の鼻は折れたようなので、少しはよくなったのかもしれない。

 結局は自分に執着するのはやめられないから人間なのかもしれない。

【迷亭の叔父さん】
 迷亭が叔父さんを連れてやってくる。叔父さんは次のように言う。沢菴禅師の「不動智神妙録」の一説を紹介する。

 「心をどこに置こうぞ。敵の身の働きに心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思うところに心を置けば、敵を切らんと思うところに心を取らるるなり。わが太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるるなり。われ切られじと思うところに心を置けば、切られじと思うところに心を取らるるなり。人の構えに心を置けば、人の構に心を取らるるなり。とかく心の置きどころはない。」

 これも、人間の執着について語ったものであろう。叔父さんは人に会いにひとりで出かける。

【八木独仙】
 迷亭との会話から、「哲学者」が八木独仙という名であることがわかる。独仙は言うことは立派だが、実は大した男ではないことが迷亭から語られる。結局はそんなものだろう。人間にそんなに立派な奴はいない。いいところがあればダメなところがある。それが人間なのだ。

【苦沙弥の心理描写】
 警察がやってくる。泥棒がつかまったのだ。そこで苦沙弥先生の心の中が語られる。

 この小説の語り手は「吾輩」と名乗る猫である。猫が人間の心の中を描写できるはずがない。それなのにそのタブーを犯してしまっているのだ。わざわざそれを「読心術」を心得ているからできるのだと説明までしている。破綻しているのは確かだが、この小説はその破綻がおもしろいので許されてしまう。

【人間みんな気が狂ってる】
 苦沙弥が考えるのは、人間なんてみんな気が狂っているのだということである。たしかにそう考えた方が心が自由になれるのかもしれない。
 
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『ヒトラーのための虐殺会議』を見ました。

2023-03-14 05:45:34 | 映画
 第2次世界大戦時、ナチス政権が1100万人のユダヤ人絶滅政策を決定した「バンゼー会議」の全貌を描く映画『ヒトラーのための虐殺会議』を見ました。権力の圧力は民主的な会議が「忖度」会議になってしまうことを分からせてくれます。今の日本の状況を考える上でも重要な映画です。

 ナチス政権はユダヤ人を絶滅させる計画をたてます。それを会議で決めていくのですが、一部ではその方針について異論を唱えるものもいます。法律の解釈を変更することへの反論を堂々と主張します。観客はこの男に期待します。しかしそれは人道的な意味でも正義のためでもなく、より効率のいい方法を提案しているにすぎなかったことに気付きます。結局はヒトラーに逆らう気持ちなどまるでありません。自分の存在意義を示しただけだったのです。

 おそらく現在の会議というものはそういうものなのでしょう。方向性がすでに決まっているからこそ会議は行われるのです。日本の会議をみていると、もはや会議は報告会でしかありません。もめることさえなくなりました。

 安倍政権以来、官僚もマスコミも権力におもねるようになりました。最近話題になっている、総務省の放送法の解釈変更のニュースもそれを裏打ちします。権力者に忖度する現在の姿はナチスに近づきつつあるのではないかと感じてしまいます。。

 私たちは言論の自由を守るために常に努力しなければいけないということを強く感じさせる映画でした。。
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『吾輩は猫である』の読書メモ⑧「第八章」

2023-03-12 16:32:30 | 夏目漱石
【落雲館戦争】
 苦沙弥先生の家の隣に落雲館という私立の中学校がある。その生徒たちの態度がくしゃみは気に食わない。学校に抗議すると学校は垣を作る。その中学校の生徒たちが野球をする。ボールが垣を超えて苦沙弥の家に入ってくるので苦沙弥はやはり気に食わない。学校にさらに抗議する。このいざこざを「吾輩」は旅順戦争に譬えて語る。

【3人の来客】
 落雲館とのいざこざもあり、苦沙弥の癇癪はひどくなる。そこに3人の来客がある。

【世渡り上手の勧め】
 一人目は金田の知り合いで、金田から苦沙弥の様子を見てきてくれと頼まれた鈴木藤十郎である。鈴木は苦沙弥に次のように言う。

 「人間は角があると世の中を転ころがって行くのが骨が折れて損だよ。丸いものはごろごろどこへでも苦くなしに行けるが四角なものはころがるに骨が折れるばかりじゃない、転がるたびに角がすれて痛いものだ。どうせ自分一人の世の中じゃなし、そう自分の思うように人はならないさ。まあ何だね。どうしても金のあるものに、たてを突いちゃ損だね。ただ神経ばかり痛めて、からだは悪くなる、人は褒めてくれず。向うは平気なものさ。坐って人を使いさえすればすむんだから。多勢に無勢どうせ、叶わないのは知れているさ。頑固もいいが、立て通すつもりでいるうちに、自分の勉強に障ったり、毎日の業務に煩はんを及ぼしたり、とどのつまりが骨折り損のくたびれもうけだからね。」

 おっしゃる通りである。しかしそれができないから苦沙弥なのである。これは多くの人間が共通して持っている心の問題である。

【催眠術】
 かかりつけ医の甘木が往診にくる。癇癪がなおらない苦沙弥は甘木に催眠術で治せないか尋ねる。

 苦沙弥は催眠術にはかからなかった。苦沙弥は人間を信じられないのである。だからこそ催眠術にはかからない。私もそうだが、理屈でものを考える人間は頭の中に入ってくる前にフィルターがあるように思われる。他人も信じられないし、自分も信じられない。これが近代知識人の特色なのかもしれない。

【文明比較論】
 3人目の来客は「珍客」の「哲学者」である。彼は苦沙弥に次のように言う。


「西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下もとに発達しているのだ。 (中略) いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日を回めぐらす事も、加茂川を逆に流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。」

 西洋と日本の社会の文明比較である。あまりに的を射ている。世の中の理不尽さに腹を立てているよりも、心を自由にする訓練をしたほうがずっといいのだ。私に言われているような気がした。しかし、それができないから、私は私だし、苦沙弥先生は苦沙弥先生なんだよとも思った。
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真実が力で書き換えられる国

2023-03-07 15:59:00 | 社会
 先週の金曜日、立憲民主党の小西洋之参院議員が安倍政権当時の総務省作成として放送法の「政治的公平」に関する内部文書を公表した。小西氏は「個別の番組に圧力をかける目的で法解釈を変えた」と批判。それに対して当時総務相だった高市早苗経済安全保障担当相は「全くの捏造文書だ」と主張した。捏造でなかった場合は閣僚や議員を辞職するかどうかを問われ「結構だ」と明言した。

 今日、その文書は総務省の行政文書だということが判明した。しかし高市大臣は理屈をこねくりまわし、辞任を拒否した。

 このことが辞任に値するのかどうかは別として、少なくとも捏造文書ではなかったのだら、謝罪をすべきなのは当然であろう。

 そもそも安倍政権になってから、マスコミは安倍政権に対して批判的な言動を避けるようになった。それは誰もが感じたいたことだ。この原因がそこにあったのだとしたら大変な問題であろう。

 批判ばかりするマスコミは確かによくない。しかし批判すべきものも批判できないマスコミならもっとよくない。それでは言論統制された国家であり、現在のソ連や戦時中の日本と同じである。

 さらにはこの問題もすぐにネット右翼がコメントを連発して、何事もなかったことにしようとしている。もはや真実まで力づくで書き換えられようとしているのである。さすがにこれは批判に値するものであろう。

 健全な批判があり、健全な議論があり、前に向かった行く国にならなければならない。

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