【鏡】
「哲学者」の意見に感化された苦沙弥は書斎に立てこもる。おそらかう心を自由にする修行ををしているのであろう。しかし苦沙弥が何をしているかというと、鏡を見つめているのである。つまり自分に執着しているのだ。これでは自由になれるはずがない。「吾輩」は、
「鏡はうぬぼれの醸造器である如く、同時に自慢の消毒器である。」
と評す。結果として苦沙弥先生の自慢の鼻は折れたようなので、少しはよくなったのかもしれない。
結局は自分に執着するのはやめられないから人間なのかもしれない。
【迷亭の叔父さん】
迷亭が叔父さんを連れてやってくる。叔父さんは次のように言う。沢菴禅師の「不動智神妙録」の一説を紹介する。
「心をどこに置こうぞ。敵の身の働きに心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思うところに心を置けば、敵を切らんと思うところに心を取らるるなり。わが太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるるなり。われ切られじと思うところに心を置けば、切られじと思うところに心を取らるるなり。人の構えに心を置けば、人の構に心を取らるるなり。とかく心の置きどころはない。」
これも、人間の執着について語ったものであろう。叔父さんは人に会いにひとりで出かける。
【八木独仙】
迷亭との会話から、「哲学者」が八木独仙という名であることがわかる。独仙は言うことは立派だが、実は大した男ではないことが迷亭から語られる。結局はそんなものだろう。人間にそんなに立派な奴はいない。いいところがあればダメなところがある。それが人間なのだ。
【苦沙弥の心理描写】
警察がやってくる。泥棒がつかまったのだ。そこで苦沙弥先生の心の中が語られる。
この小説の語り手は「吾輩」と名乗る猫である。猫が人間の心の中を描写できるはずがない。それなのにそのタブーを犯してしまっているのだ。わざわざそれを「読心術」を心得ているからできるのだと説明までしている。破綻しているのは確かだが、この小説はその破綻がおもしろいので許されてしまう。
【人間みんな気が狂ってる】
苦沙弥が考えるのは、人間なんてみんな気が狂っているのだということである。たしかにそう考えた方が心が自由になれるのかもしれない。