とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「根拠のない『でえじょうぶだ』しか、彼らがすがるものはない」

2019-07-01 11:18:06 | 演劇
 6月27日の「三谷幸喜のありふれた生活・幸猿愛それぞれの『芝居』」は私が先日見た『月光露針路日本』について書かれてあった。その中にとてもいい話があったので、一部引用して紹介する。

 この芝居には松本幸四郎、市川猿之助、片岡愛之助という人気役者が出演している。三谷氏のこのコラムはこの3人についての三谷さんの愛情のこもったコメントから始まる。そして次のように続く。

 彼らに感謝したいことがある。三幕三場。イルクーツクでの別れの場。船乗り仲間の猿之助さんと愛之助さんを残して、幸四郎さんは日本に旅立ってゆく、一番のクライマックス。幸四郎さんの、稽古を重ねて少しずつ育んできた、集大成としての「芝居」。劇場に入ってから劇的に変貌(へんぼう)した、愛之助さんのまっすぐな「芝居」。そして二人の熱演を見守りつつ、自分の役目を完璧にこなす、猿之助さんの冷静な目。三つの異なった演技形態が見事に絡み合う。息の合った役者同士でなければ、成立しない瞬間だ。

 幸四郎さんが去り、舞台に残された猿之助さんと愛之助さんが抱き合ったところで幕になるのだが、その直前、猿之助さんが「どうしよう」と叫ぶ。そして愛之助さんが「でえじょうぶだ」と返す。

 実はこの台詞、台本にはない。それは決して脚本家には書けない台詞。すべては自分が選んだ道なのだ。今さら「どうしよう」はないだろう。この先どうなるか、まったく見当がつかないはず。「でえじょうぶだ」はないだろう。頭で台詞を作る脚本家はそう考える。

 しかし、幸四郎さんとの永遠の別れの後、感極まった二人の口からつい出てしまったこの言葉の、なんという哀(かな)しさ。そうなのだ、ロシアに残された彼らが我に返った時、ふと思うのは「どうしよう」であり、根拠のない「でえじょうぶだ」しか、彼らがすがるものはないのだ。

 とてもいい話だ。もちろんこの芝居の骨格を作っていたのは脚本家だ。しかしこの芝居をさらにいい舞台にしていたのは優れた役者がいたからこそだったということもわかる。そして根拠のないことばにすがるしかない人間の姿は哀れでいとおしい。とてもいい話だ。これを紹介してくれた三谷さんも器の大きい人だ。

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