とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「羅生門」⑨〔直接話法? 間接話法?〕

2019-02-18 16:07:25 | 国語
 「羅生門」における「語り」の問題として、次の点もよく取り上げられる。

 ラストに近い、老婆が自分の行為を正当化する場面である。少し長くなるが引用する

「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘かずらにしようと思うたのじゃ。」

 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。

「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯たてわきの陣へ売りに往いんだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、飢死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、飢死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

 老婆は、大体こんな意味の事を云った。

 以上の場面、「語り」に注目すれば、すぐに「語り」のおかしな点に気づくであろう。カギ括弧の中は老婆が実際に話したように書いている。しかしこれを受けた語り手は「大体こんな意味の事」といっている。もし「こんな意味の事」ならば、カギ括弧などは使わずに、しかも老婆の話し方を描写するような書き方をしないはずだ。老婆の言ったことを語り手が要約して内容だけを書くはずである。直接話法のような記述をしないで、内容だけをまとめて間接話法で書くべきなのである。作者がこの不自然な書き方を選んだのはなぜなのだろうか。

 いくつかの可能性が考えられる。

①作者の芥川龍之介は現在私たちが読んでいる「定稿」になる前は、この老婆のセリフはカギ括弧のない間接話法で書かれていたことがわかっている。そこで、芥川龍之介が話法の乱れに気が付かず、そのままにしてしまったという可能性があげられる。

 しかしこの説はちょっと情けない。この作品においても様々なところで注意を払っている芥川が、これを見逃すとは思えない。

②老婆は「蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら」言ったのであり、それを正確に聞くことはできなかった。それゆえに、直接話法のように老婆のニュアンスを正確に記述する方法をとりながら、細かいところまでは正確には伝えられていないということをしめすために、「老婆は、だいたいこんな意味のことを言った。」と書いた。

 この説はそれなりに納得できる説である。

③そもそも老婆のセリフはこの部分とその直前の
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘かずらにしようと思うたのじゃ。」
しかない。このセリフも「その時、その喉から、鴉の鳴くような声が、あえぎあえぎ、下人の耳へ伝わってきた。」とあるように、下人の耳に伝わってきた音の描写ととらえることができる。そもそも「作者」と名乗る「語り手」は、この場面において下人にしか焦点をあたえていないのではないか。老婆は下人のフィルターを通した後の存在なのである。とすれば、ここの話法の乱れはそれほど重要ではない。下人にとって老婆の言ったことを描写したらこうなったということなのだ。

 この説が一番説得力がある。

 もしこの説が多くの人の支持を得られるようであったら、「語り手」の視点の問題も浮き上がり、授業において取り上げるべき事柄になる可能性が広がる。つまり「語り手」がだれの心に入り込むことができるのかを考えることができるのだ。

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