芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』を読みました。残念ながら私にはいまひとつ理解しがたい作品でした。しかしたくさんの人が絶賛していたので、おそらく私の鑑賞力が乏しく、また新しい表現を受け入れる器が足りないためなのではないかと思っています。悔しいので再読しています。
高校生女子の「あたし」の一人称小説です。そのため「あたし」を外から見た視点がありません。読者は「あたし」は「普通」の女子高生のように読み進めてしまいます。(ここで「普通」というのは差別用語になってしまいますが、説明のためにあえて使わせていただきます。)しかし、それが誤読であることがわかってきます。「あたし」はずいぶん変わった子であることがわかってきます。
主人公の「あたし」は、実はおそらく発達障害の傾向の強い高校生です。言われたことを頭の中に入れておくことが難しく、あらゆるものをメモする習慣を身に付けています。勉強の方でも漢字テストが苦手で、勉強をいくらしても合格できません。英語の三人称単数のsをつけることもすぐに忘れてしまいます。そしてとうとうあっさりと進級できずに退学してしまいます。それさえも簡単に受け入れるのです。
主人公の「あたし」が共感できるのが「推し」の「上野真幸」です。おそらく彼も現実に大きな違和感を覚えています。だから様々なトラブルを起こしてしまうようになります。そのトラブルがあるからこそ、逆に「推し」に共感していきます。現実に違和感を覚えるふたりだからこそ共感できるのです。
「普通」の読者は、なかなか「あたし」の語りにすっきりしません。自分と違う感覚の語りにしっくりこないのです。
しかし考えてみればわかりますが、発達障害の「あたし」が「普通」の人間を見る視点もおそらく違和感があるものなのです。「普通」の読者が「あたし」の感覚が理解できないよううに、「あたし」には「普通」のことが理解できない。「普通」の読者が、実は逆に「普通」ではないのではないかと思うようになります。差別をなくすというのはこの違和感を受け入れることなのです。
以上のような仕掛け施されている小説ではないかと思われます。そう考えればうまくできている小説です。
しかしそういう仕掛けがあるのだとすれば、逆に私にはあざとさを覚えてしまいます。
作品の良さがどこにあるのか、もう少し考えてみたいと思います。