ある大学の先生の講演があった。その先生は次のように言った。
「いじめは絶対になくならない。しかし、いじめによる自殺をなくすことはできる。いじめの問題にはそういう態度で立ち向かうべきである。」
同感である。
直接的ないやがらせや、暴力だけならばそれは戒めることによってなくしていくことは可能かもしれない。当然そうしなければいけないということは異論ないであろう。
しかし、今の「いじめ」の問題はそう言う次元の話でなくなっている。
例えばテレビのワイドショーを見ていても、誰かが問題を起すとその人に集中砲火を浴びせる場面が頻繁にある。確かにその人には何らかの落ち度があるのだからそういう立場に立たされるわけではあるが、しかしいくらなんでもやりすぎではないかと思われるように感じることがある。これは「いじめ」と言ってもいいのではないか。大人だってそうなのだから、まだ善悪の基準が揺れている子供たちに、常に的確な判断を求めることはむずかしいに決まっている。
もう一つ典型的な例をあげる。その子は人づきあいが苦手なタイプだったのだろう。グループに入るために「ダメキャラ」を演じることを覚えた。当然、その子は「いじられ」ることになる。もちろんその子はそれを喜ぶわけである。そうすることによって仲間を得ることになるわけであるから当然である。「いじ」っている方の人たちも、その子が喜んでいるわけであるから、どんどん「いじ」ってあげたくなる。エスカレートしていき、いつのまにか取り返しのつかない事故が生じる。みんなこの事故が事件であることに気が付かない。
はっきりと表に出ないケースもある。
人間である以上、競争心があるし嫉妬心もある。もちろん好き嫌いもある。それはどうしようもない。嫌いな人、苦手な人に対してうまく接することができないのは誰でも同じであろう。嫌な人とは口を聞きたくないし、自分の精神安定上どうしても陰で愚痴をいってしまうことがある。気づかれないようにやってもそれはいつか当事者はきづいてしまう。得体のしれない自分を避けている雰囲気を感じたら、それはつらいであろう。思考は悪循環を始める。
「いじめ」の定義が「その人がいじめを受けているという意識がある場合にはいじめである」というものになってしまった以上、世の中の多くの言動が「いじめ」になる可能性がある。それらをすべてやめさせることは不可能である。
もし無理やりこの定義のいじめをなくすとなってしまえば、怖くて普通の会話もできやしなくなってしまう。これでは人間社会が逆にストレスのるつぼになってしまう。
本当の意味で「いじめ」をなくすならば、一度この「いじめ」のレッテルをはがしてみる必要がある。「いじめ」は悪いに決まっている。しかし、なんでも「いじめ」になってしまうならば「いじめ」はなくなるはずはない。個別のケースを検証していくなかで、多くの人が「いじめ」について正確で共通した認識を構築していく作業が必要である。もちろんそれは常に検証を繰り返していく作業であろう。
また、もっと大切なのは「いじめ」で苦しんでいる人をどうやって見つけ、どうやって手を差し伸べていくかの研究である。さまざまな試みが始まっているいるようなのでそれを学ぶ場に積極的に参加していきたい。
「いじめ」の問題は、どこかの学校の問題なのではない。自分自身の問題なのだ。
(とてもいい話だったので、本来ならばその先生の名前を出してもいいのかもしれないが、「いじめ」はデリケートな問題であり、過剰な反応をしめすケースがあるようなので、ここでは差し控えたい。
ここでも私自身が周りを気にしながら、本来ならばしなくてもいいような気の回しすぎをしてしまっている。本音で議論することなどできやしなくなっているのだ。)