まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

人の死とは何か?

2009-11-05 18:54:41 | 生老病死の倫理学
看護学校でこのところずっと死の話ばかりしています。
・死んだらどうなるか?
・どこから人の死と言えるのか?(=人の死とは何か?)
・死を望んでいる人を死なせてあげるべきか? 等々。

学生たちにいろいろ考えさせているのにこんなこと言うのもなんですが、
死の問題って本当に難しいです。
とりあえず今日は、どうなったら確実に死んだと言えるのか?
つまり、どこからが人の死なのか?
という問題についての自分の考えを述べてみます。

私は立花隆の 『脳死』 に影響を受けてしまっているのかもしれませんが、
死の構成要素としては、
①回復不可能性 (=不可逆性)
②残存意識の消滅
の2点は少なくとも含まれるべきであろうと思っています。
どちらも当たり前といえば当たり前の気もしますが。

まずは、絶対に生き返らないということ。
もしも息を吹き返すようであれば、それは死んではいません。
脳死の人がもしも回復可能であるならば、
それはそもそも脳死ではないし、
ましてやけっして人の死と判断されてはならないでしょう。
しかし同様に、心臓死に関しても同じことが言えます。
ジュリエットは一時的に心臓死と同じ状態に陥りましたが、
それは仮死状態であって、本当に死んだのではありませんでした。
仮死状態は回復可能なのであって、
それを死と判断するようなことがあってはならないと思います。
しかし、この絶対に回復不可能であるという不可逆性はどうやって保障されるのでしょうか。
脳死の場合の脳機能の停止、心臓死の場合の呼吸や心拍の停止などは、
要するに働きが止まっているということですから、
働きが戻ってくるかこないかを外からいくらじっと見守っていても、
どれだけ時間が経過しようが、
それが一時停止なのか、不可逆的停止なのか決定することはできません。
回復不可能な機能停止であるということを立証するためには、
働きがあるかないかということとは別の次元で証明する必要があるでしょう。
いかにしてそれを立証するかということはここでは論じませんが、
いずれにせよ、絶対に回復不可能である場合以外は 「死」 とは呼べないのは確かでしょう。

では、回復不可能性が証明されればただちに 「死」 と呼べるのでしょうか。
これも立花隆が論じていた点ですが、
「もう助からない」 はイコール 「もう死んだ」 ということなのでしょうか?
例えば、末期ガン患者でもう絶対に助からないという人はいますが、
その人はまだ死んではいません。
確実に生きています。
では、心臓死の場合に、心臓や呼吸の機能が不可逆的に停止して、
絶対に回復不可能であるということが証明された場合はどうでしょう。
それはもう死んだと言ってもいいような気がしますが、
もしもそのとき、その人の脳がまだ生き残っていて、意識が残っていたらどうでしょう?
心臓も呼吸も不可逆的に停止しているのですから、
いずれその生き残っている脳も死んでしまい、意識も失われてしまうでしょう。
しかしそれでもまだ意識が残っているうちは、
死んだと言ってはいけないのではないでしょうか。
それは先ほどの末期ガン患者の場合と同じなのではないでしょうか。
つまり、残存意識が消滅したことが確認できて初めて死んだと言えるのではないでしょうか。
もちろん意識も脳の機能のひとつにすぎませんので、
その消滅は一時的かもしれないし、不可逆的かもしれません。
したがってこの場合も、残存意識の不可逆的消滅が証明される必要があります。
それは意識があるかないかの検査だけでは立証不可能で、
別の次元での証明が必要になるでしょう。

とにかく、この、
①回復不可能性 (=不可逆性)
②残存意識の消滅
の2つが死の構成要素としては不可欠だと思うのです。
たんに死として受け入れるだけのためにもこの2つはなくてはならないと思いますし、
ましてや、心臓その他の臓器を摘出していいと言えるのは、
この2つが満たされたときだけではないでしょうか。
この2つが満たされていない段階での臓器摘出は、
本人にとっては殺人以外の何物でもないでしょう。
脳死・臓器移植という最先端医療技術は、
これまで以上に厳密かつ確実な死の定義や判定方法を必要とするようになったのだと、
私は理解しており、①と②がどこまで確実に保障されるか、
それが何よりも重要な時代になったのだと思います。

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