昨年度から相馬の看護学校で始めた 「病気が教えてくれたこと」 のワーク、
看護教員養成講座でもやってみました。
2週目の帰りがけに、例の本から4つぐらいエッセイを抜粋したプリントを配布し、
ワークシートも一緒に配って、読んだ感想と、
自分が病気から教わったことについてのエッセイを書いてくるように宿題を出しました。
そうしたらみんなワークシートの小さいスペースにびっしり書いてきてくれて、
中には数名、別紙参照ということでワープロで打ち込んできてくれた人もいらっしゃいました。
さすがにその場で書かせるよりも力のこもった作品が集まりました。
しかも、人生経験が豊富なだけに自分や家族が大病を患ったことのある人も少なくありません。
単純に病気が大きければ学びも大きくなるということではないのですが、
やはり経験に応じて病気から教わることの質も変わってくるのでしょう。
というわけで力作揃いの発表会となりました。
グループ内で発表しあったあと代表作を選んでもらい、
朗読係の人に全員の前で読み上げてもらいました。
こんな感じで発表会らしい演出もし、前でマイクを使って朗読してもらいます。
代表作は7つ集まりましたが、個人情報等の関係でブログ掲載不可という作品もいくつかあったので、
班の代表作と、まさおさまセレクトと区別せずにいっぺんにご紹介しちゃいます。
「父が病気になった時、私は親元から離れて暮らしていた。母の 「大丈夫だから、無理して帰ってこなくていいよ」 という言葉に甘え、私が帰省したのは、父が入院して1ヶ月が経とうとしていた。
帰省した時、母と久しぶりに色々話をした。その時、父の兄から責められたこと、父の病気のこと、本当は帰ってきて欲しかったということなど、母の想いや考えを知り、1人で大変だった事を考えた時、私はとても後悔した。
だが母は、私が思っている以上に強く、前向きに考える人だったので、私が帰省した時には、すでに病気を受け入れ、「自分がどうにかする」 と覚悟を決めていた。その後、母の看病と治療の甲斐あり、父は1度再発しただけで、現在では内服薬もなく定期健診だけで済んでいる。
現在私も家族を持っている。夫は病気を患っており、当初は、私1人でどうにかしようと思っていたが、上手くいかなかった。そんな時、「早くよくなるように、家族でサポートするよ」 と母が強く言ってくれた言葉がありがたかった。
普段は口うるさい母親としか思っていなかったが、父や夫が病気になった時の 「母のたくましさ」 を感じ、家を支える女性は、こうありたいと強く感じた。まだまだ母の足元におよばないが、母に近づけるように日々頑張りたい。」
「あれから何年経つだろう。仕事に疲れ、家事・育児に疲れ、無気力で、生きている意味を見失いそうになっていた。そんな矢先の出来事。同居している義母が肺炎で入院。翌日、息子がインフルエンザに感染し、学校へは出席停止となった。もちろん私も、である。その日からの生活は一変。家族一人ひとりの役割は増えたが、お互い協力し、助け合える関係になった。絆が深まった気がした。怒ってばかりいた私も、いつの間にか本来の自分を取り戻し、心から笑えるようになっていた。
その時の想いを、息子は、数年後の中学の卒業式に手紙で伝えてくれた。「苦しんでいる時に助けてもらったことに感謝しています。今まで15年間育ててくれてありがとうございました」と。私は、涙が止まらなかった。
生きていることの意味や、子供にとっての母親の存在の重大さを改めて考え直すことが出来た。それは、病気が教えてくれたのだと、私は信じている。」
「6年前の夏、私は病気を得て手術をした。麻酔からさめて朦朧としながら、家族の声が聞こえた。どうやら生きて病室にもどったことがわかった。いつからそうされていたのかはわからないが、手が握られていて、握っているのは息子の手だとわかった。肉厚で少し湿っていて温かい。息子の心根が伝わってくるようで、とてもうれしかった。「おかあさんが、痛い痛いって言いまくってますっ!」 ナースコールしているらしい。いつになく真面目な、切羽詰まったような口ぶりとへんな日本語が少しおかしかった。
息子は中学3年生。何でも話してくれて気持ちが通じる姉とは違い、中学生になってめっきり言葉数が減って何を考えているのかわからず、男兄弟のいない私には先が読めず、たまに話すと言い争いになってしまう気の重い存在だった。小さな頃は甘えん坊で、女の子とは違った可愛らしさがあっただけに、思春期の変貌ぶりに閉口していた。
ある時息子が私に 「うるせぇ」 「くそばばあ」 と言い、翌日口の周りにアザを4個付けて学校に行ったことがあった。私に口をつねられたのである。その日の夜、「おめぇのかあちゃん、気合い入ってんなぁー」 と友達に言われたと小鼻を膨らませていたよと夫は笑いながら言っていたが、私の気持ちは晴れなかった。すれ違いが続いた。
私の手術は、そんな何年かを過ごしていた矢先のことであった。
手術から2日後、私は歩けるようになり、息子は猛暑日の中、毎日自転車で30分の道のりをやって来ては、一緒にアイスを食べながらテレビを観て帰って行った。
母親になってからずっと二足のわらじで、「早く、早く」 と言いながら子育てしていた。風邪をひいたことがなかった。幸か不幸か病気ですべて投げ出せた。そこがたとえ病院でも、子供たちとだらりと寝そべり、アイスを食べる時間はかけがえなく、心地よかった。
退院後、何事もなかったように、元の受験生とその母の生活に戻った。しかしもう言い争うことはなくなった。
それは息子が、親はいつか死ぬ存在だと知ったからかもしれない。しかしそれ以上に、少しだけ死を意識した私が、息子の手の温もりでその存在に気づかされ、子供たちの方に向き返れたことが大きかったのかもしれない。
病気は思いがけない気づきをもたらす。あながち悪いことばかりではないのである。」
「突然、右腕に違和感があった。気のせいかな、いつものように出勤する。字も書ける。箸も持てる。ただ違和感がある。そのうち指先が痺れる。手を使う時かばうようになった。なんだろう。こんな時、看護師だからかなあ、悶々と病名が駆け巡り、余計な事を考える。脳かな、頸部かな、なんだろうと数日が過ぎる。不安が募り、深夜勤中、先輩看護師へ話すと、「朝、先生が早く来るから相談すると良いよ」 とアドバイスをくれた。回診後、足早に階段を降りていく先生を先輩は追いかけて呼び止めてくれた。先輩に感謝。弱気な自分。
頸部のMRI検査をする。今日は白衣じゃない、病衣を着て検査室へ。検査ってこんなに不安なものなのだ。患者さんの気持ちを分かっていたつもりだった。検査中、看護師さん、技師さんが何度も声をかけてくれる。医療の仲間に感謝、患者さんの大変さに改めて気づいた自分。右手の違和感を気にかけてくれる家族に感謝。心配かけたくなくて、なかなか言い出せなかった自分。
頸部圧迫あるけど、日常生活に気をつければ良いと、痺れも徐々に良くなった。病気は自分を不安や弱気にさせる。だけど家族、仲間にありがとうと感謝の気持ちを持たせてくれる。患者さんの気持ちも知ることもできた。病気は色々な気持ちを運んでくる。ちょっと立ち止まらせる機会をくれる。悪化しないよう気をつけよう。無理しないよう気をつけよう。」
「子どもの病気から教わったこと
生まれて初めてのお正月、家族皆で楽しく過ごした。年が明けるとあなたは保育園デビューで、私は仕事復帰予定だった。しかし年明け早々、あなたは熱を出しまるで保育園に行きたくないのかな?と母を不安にさせた。かかりつけのお医者さんに行って風邪薬をもらって飲んだけど、熱は次の日も下がらない。いつもは熱さましを飲まなくても、熱は自然に下がったけど、今回は全然下がらない。3日も熱が続くと、さすがにあせる。
他の病院にも行って診察してもらっても 「風邪だね」 と言われる。だったら、どうしてよくならないの?と不安になり、泣けてきた。
38.0°Cを超す熱が毎日続いて、時々だるそうな、あなたの顔を見るのがつらかった。うっすら体に発疹らしきものも出てきて、母はもしや…と思ったよ。そして、かかりつけの先生のところに行ったら、「川崎病ですね、入院が必要です」 って言われたね。熱がでて5日目のことだった。やっと本当の病気が分かった瞬間だった。ずっとつらそうだなとあなたをみてたから、言われた時は怖かったけど、本当の病気が分かってちょっとほっとした。でも、仕事復帰もしなくちゃいけないって焦ってたから、母もどうしていいか分からず気持ちだけが焦ってしまったよ。でもね、あなたが良くなるためには、病気と闘うしかない!って思ったから、メソメソしてられない!て思ったんだ。だから一緒に入院して頑張ろうて思った。入院して、点滴したらすぐよくなった。3週間後、無事退院して、あなたは保育園デビューできたね。3週間の入院で、人が健康でいるってことはありがたいことだなって感じたんだ。あなたの病気で母もいっぱい学んだよ。これからはもっともっと心も体も強くなってあなたを見守っていくからね。」
「私は以前、眼底出血で視力を失いかけたことと、突発性難聴で突然両耳が聴こえなくなった経験をした。眼底出血の時は娘が生まれ生後6ヶ月目に入ったときだった。新聞を見ていて、新聞の上半分が見えず視野が狭くなっていることに気づいた。痛みも全くなくすぐ治るだろうと軽い気持ちで受診したところ、視力を司る部分が大量に出血しているため、失明の恐れがあると説明され、すぐ治療を開始することとなった。生後6ヶ月の娘に、まだ授乳をしていたので、内服もしなければならず、母乳からミルクに変更せざるを得ない状況で、娘に対し申し訳ない気持ちと、失明してしまうかもしれないという恐怖で毎日不安な日々を送っていた。すぐ治療できたことで失明はまぬがれることができた。しかし見えなくなった視野が回復するまでには3年程の時間がかかった。今は問題なく日常生活を送ることができているが、また突然見えなくなってしまうのではないかと不安になることがある。
私は生死にかかわるような大きな病気ではないが視力を失いかけたことで、突然襲いかかってくるでき事の恐ろしさを体験することができた。この貴重な体験は同じ思いをしている方がいるならば、不安な気持ちをほんの少しかもしれないがりかいできるような気がする。現在、看護教員として働く中で実体験を学生に伝えることができる。辛い経験ではあったが、今はその経験を生かして生活できることに感謝している。」
「「普通に歩けなくなるかもしれないって言われたんだよ」 と母は口ぐせのように私を話す。2才の頃、股関節の病気をして、私の左股関節は変形している。だが自分で歩くこともできるし、何か薬を内服しているわけでもない。ただ人生のふし目ふし目で必ず足が原因であきらめたり、あきらめかけたりしたことは多々あった。学生時代の部活動、看護師という仕事、結婚・出産。少しずつあきらめたり、おりあいをつけたりしながら、今まで生きてきた。でも今考えると ”リスクがあってもやりたい” という覚悟をする試練だったのかもしれない。
私の足は一生治らない。でもまっすぐ歩けなくても、私にとっては 「普通」 に歩いている。妊娠も出産もがんばりぬいてくれた。「普通じゃない」 と言われながら34年間がんばってくれているこの足に今は 「ありがとう、これからも一緒にがんばろうね」 と言ってあげたい。」
「祖父が胃ガンで亡くなったのは私が看護師として働いて4年目の時だった。体調を崩し、病院で検査をした時には、もう末期の状態であった。抗ガン剤を内服したが副作用が辛く、体力を失っていく祖父に対して、祖母、母、おじ、おばが出した答えは 「もう何もしない」 という消極的安楽死の決断だった。告知をせずに入院していた祖父は不満も痛みも何も言わず、ただただ入院をしているように見えた。母はできる限り、お見舞いに行っては祖父の好きなものを差し入れたり、ガンに効くと言われるサプリメントを飲ませたり、祖父がして欲しい事を何でもした。しかし、何も食べられなくなっている祖父に1日500ml1本の点滴がどういう事かを看護師の私は解っていた。日々やつれていく祖父を見ながら、私は孫としての目線と看護師としての目線の両方から見ていて複雑な気持ちだった。「このままじゃおじいちゃん死んじゃう。もっと点滴してあげて」 「でも何もしないって方針なんだよね」 「おじいちゃんは何も知らないまま死んでいくのかな」 と様々な思いがかけめぐった。数日後、祖父が亡くなった時、家族は深い悲しみにつつまれ、母の泣く姿を今でも忘れない。母が言った。「死ぬのは解るけど、1日でも1分でも長く生きてて欲しかった。おじいちゃんはずっと私にとってはお父さんなんだよ」 という言葉に、家族の死を迫られた時の家族の心境は絶えず揺らぐもので、決断したとしても本当の決断ではない事を感じた。誰かの人生を誰かが決めること、ましてや家族にとっては、それは重圧な事である。そして親の死はどのような状態であっても決して受け入れ難い事を教えられた。」
「妊娠して間もない頃、夜勤中に出血と、動くのも辛い腹痛に襲われた。我慢しながら仕事をしていたが、徐々に痛みは増し朝方には歩けなくなってしまった。その後病院に行くと 「切迫流産。どうなるかは分からない。薬を飲んで家で安静に過ごして経過をみていくしかない。」 と言われ自宅での安静を余儀なくされた。
家に居て安静にしていると、今まで行っていた日常動作全てが当たり前のことではなく、出来ていたことが幸せなことだったと気付いた。また、大変だと嘆いていた仕事も行けなくなると寂しいような気持ちにかられ、仕事がある幸せを感じた。そして、仕事復帰すると再度出血し再度安静を余儀なくされた。動けることが幸せで、仕事をしているとついつい自分のことは二の次にして無理してしまう自分がいたが、無理は禁物だと実感した。また、無理をすることでこんなにも自分やお腹の子に影響が出て、人間って強くないんだと気付いた。それからは、無理せず家族や職場の方々、友達など色々な人に甘えることが出来るようになった。
その後何度か休職を繰り返しながら出産した。人が生まれるということ、生きるということは当たり前のことでもなく、簡単なことでもないことが身に染みて分かった。自分がみんなを頼れるようになったのも病気になってからだ。みんなが私を支えてくれたことで息子は無事誕生することが出来た。そして、最近4歳になった息子。みんなのおかげでここまで元気に育ち、毎日一緒に過ごすことが出来ている。本当に有り難い。
これからも、無理せず、程よくみんなに甘えながら当たり前じゃない毎日を大切に過ごしていきたい。また、甘えるだけでなく私たちもみんなの支えになれればと思う。」
「あなたの 「夢」 がかなうように
あなたの成長を愛しむ叔母より
あなたに初めて会ったとき、お腹の胃瘻からミルクとお薬を注射器で入れていて、口から食べると吐いちゃうけど、自分で食べることをあきらめないことを知った。
あなたに初めて会ったとき、両腕を足の代わりにしてあちこち動き回っていて、まだ足の筋肉が弱いけど歩けるように頑張っていることを知った。
あなたに初めて会ったとき、唇が真っ青でびっくりしたけど、元気な笑顔を見せ大丈夫だよって安心させていたことを知った。
あなたは生まれてからずっと入院していて会えなかったけど、初めて抱っこして小さな体で毎日頑張っていたことを知った。
あなたはたくさんの検査や手術で入院しても、お利口さんで看護婦さんの人気者だったけど、寂しいことを我慢していたことを知った。
あなたは時々激しく泣いて、いい子に疲れたことを小さな体で大人たちに伝えていたことを知った。
あなたがだんだん歩けるようになって、お口から食べるようになって胃瘻がとれ、本当に頑張ったね。すごいね。偉かったね。
あなたがランドセルをしょって元気に小学校に行って、お友達もたくさんできてみんなとお勉強していることを教えてくれたね。
あなたが私に将来の夢は 「看護婦さん」 って教えてくれたね。すっごく、すごく嬉しかったよ。
あなたは身をもって私にたくさんのことを教えてくれたね。どんなに小さくても病気と向き合い、生きる力と強さがあるってことを。そして、夢に向かって進むことを。
また、すこし背が伸びたね。また、いっぱい、いっぱいお話聞かせてね。そして、あなたの夢がかなうように祈っているね。」
本当は全部ご紹介したいところですが、とりあえず以上10作品だけにしておきます。
ウルウル来てしまいますね。
皆さん、ありがとうございました。
実はちょうど今日、久しぶりに相馬の看護学校へ行って、同じワークをやってもらいました。
こちらは宿題ではなくその場で書いてもらったのでみんな苦労していましたが、
短い時間のなかでなかなかいいエッセイを書いてくれていました。
これも近々発表していきたいと思います。
看護教員養成講座でもやってみました。
2週目の帰りがけに、例の本から4つぐらいエッセイを抜粋したプリントを配布し、
ワークシートも一緒に配って、読んだ感想と、
自分が病気から教わったことについてのエッセイを書いてくるように宿題を出しました。
そうしたらみんなワークシートの小さいスペースにびっしり書いてきてくれて、
中には数名、別紙参照ということでワープロで打ち込んできてくれた人もいらっしゃいました。
さすがにその場で書かせるよりも力のこもった作品が集まりました。
しかも、人生経験が豊富なだけに自分や家族が大病を患ったことのある人も少なくありません。
単純に病気が大きければ学びも大きくなるということではないのですが、
やはり経験に応じて病気から教わることの質も変わってくるのでしょう。
というわけで力作揃いの発表会となりました。
グループ内で発表しあったあと代表作を選んでもらい、
朗読係の人に全員の前で読み上げてもらいました。
こんな感じで発表会らしい演出もし、前でマイクを使って朗読してもらいます。
代表作は7つ集まりましたが、個人情報等の関係でブログ掲載不可という作品もいくつかあったので、
班の代表作と、まさおさまセレクトと区別せずにいっぺんにご紹介しちゃいます。
「父が病気になった時、私は親元から離れて暮らしていた。母の 「大丈夫だから、無理して帰ってこなくていいよ」 という言葉に甘え、私が帰省したのは、父が入院して1ヶ月が経とうとしていた。
帰省した時、母と久しぶりに色々話をした。その時、父の兄から責められたこと、父の病気のこと、本当は帰ってきて欲しかったということなど、母の想いや考えを知り、1人で大変だった事を考えた時、私はとても後悔した。
だが母は、私が思っている以上に強く、前向きに考える人だったので、私が帰省した時には、すでに病気を受け入れ、「自分がどうにかする」 と覚悟を決めていた。その後、母の看病と治療の甲斐あり、父は1度再発しただけで、現在では内服薬もなく定期健診だけで済んでいる。
現在私も家族を持っている。夫は病気を患っており、当初は、私1人でどうにかしようと思っていたが、上手くいかなかった。そんな時、「早くよくなるように、家族でサポートするよ」 と母が強く言ってくれた言葉がありがたかった。
普段は口うるさい母親としか思っていなかったが、父や夫が病気になった時の 「母のたくましさ」 を感じ、家を支える女性は、こうありたいと強く感じた。まだまだ母の足元におよばないが、母に近づけるように日々頑張りたい。」
「あれから何年経つだろう。仕事に疲れ、家事・育児に疲れ、無気力で、生きている意味を見失いそうになっていた。そんな矢先の出来事。同居している義母が肺炎で入院。翌日、息子がインフルエンザに感染し、学校へは出席停止となった。もちろん私も、である。その日からの生活は一変。家族一人ひとりの役割は増えたが、お互い協力し、助け合える関係になった。絆が深まった気がした。怒ってばかりいた私も、いつの間にか本来の自分を取り戻し、心から笑えるようになっていた。
その時の想いを、息子は、数年後の中学の卒業式に手紙で伝えてくれた。「苦しんでいる時に助けてもらったことに感謝しています。今まで15年間育ててくれてありがとうございました」と。私は、涙が止まらなかった。
生きていることの意味や、子供にとっての母親の存在の重大さを改めて考え直すことが出来た。それは、病気が教えてくれたのだと、私は信じている。」
「6年前の夏、私は病気を得て手術をした。麻酔からさめて朦朧としながら、家族の声が聞こえた。どうやら生きて病室にもどったことがわかった。いつからそうされていたのかはわからないが、手が握られていて、握っているのは息子の手だとわかった。肉厚で少し湿っていて温かい。息子の心根が伝わってくるようで、とてもうれしかった。「おかあさんが、痛い痛いって言いまくってますっ!」 ナースコールしているらしい。いつになく真面目な、切羽詰まったような口ぶりとへんな日本語が少しおかしかった。
息子は中学3年生。何でも話してくれて気持ちが通じる姉とは違い、中学生になってめっきり言葉数が減って何を考えているのかわからず、男兄弟のいない私には先が読めず、たまに話すと言い争いになってしまう気の重い存在だった。小さな頃は甘えん坊で、女の子とは違った可愛らしさがあっただけに、思春期の変貌ぶりに閉口していた。
ある時息子が私に 「うるせぇ」 「くそばばあ」 と言い、翌日口の周りにアザを4個付けて学校に行ったことがあった。私に口をつねられたのである。その日の夜、「おめぇのかあちゃん、気合い入ってんなぁー」 と友達に言われたと小鼻を膨らませていたよと夫は笑いながら言っていたが、私の気持ちは晴れなかった。すれ違いが続いた。
私の手術は、そんな何年かを過ごしていた矢先のことであった。
手術から2日後、私は歩けるようになり、息子は猛暑日の中、毎日自転車で30分の道のりをやって来ては、一緒にアイスを食べながらテレビを観て帰って行った。
母親になってからずっと二足のわらじで、「早く、早く」 と言いながら子育てしていた。風邪をひいたことがなかった。幸か不幸か病気ですべて投げ出せた。そこがたとえ病院でも、子供たちとだらりと寝そべり、アイスを食べる時間はかけがえなく、心地よかった。
退院後、何事もなかったように、元の受験生とその母の生活に戻った。しかしもう言い争うことはなくなった。
それは息子が、親はいつか死ぬ存在だと知ったからかもしれない。しかしそれ以上に、少しだけ死を意識した私が、息子の手の温もりでその存在に気づかされ、子供たちの方に向き返れたことが大きかったのかもしれない。
病気は思いがけない気づきをもたらす。あながち悪いことばかりではないのである。」
「突然、右腕に違和感があった。気のせいかな、いつものように出勤する。字も書ける。箸も持てる。ただ違和感がある。そのうち指先が痺れる。手を使う時かばうようになった。なんだろう。こんな時、看護師だからかなあ、悶々と病名が駆け巡り、余計な事を考える。脳かな、頸部かな、なんだろうと数日が過ぎる。不安が募り、深夜勤中、先輩看護師へ話すと、「朝、先生が早く来るから相談すると良いよ」 とアドバイスをくれた。回診後、足早に階段を降りていく先生を先輩は追いかけて呼び止めてくれた。先輩に感謝。弱気な自分。
頸部のMRI検査をする。今日は白衣じゃない、病衣を着て検査室へ。検査ってこんなに不安なものなのだ。患者さんの気持ちを分かっていたつもりだった。検査中、看護師さん、技師さんが何度も声をかけてくれる。医療の仲間に感謝、患者さんの大変さに改めて気づいた自分。右手の違和感を気にかけてくれる家族に感謝。心配かけたくなくて、なかなか言い出せなかった自分。
頸部圧迫あるけど、日常生活に気をつければ良いと、痺れも徐々に良くなった。病気は自分を不安や弱気にさせる。だけど家族、仲間にありがとうと感謝の気持ちを持たせてくれる。患者さんの気持ちも知ることもできた。病気は色々な気持ちを運んでくる。ちょっと立ち止まらせる機会をくれる。悪化しないよう気をつけよう。無理しないよう気をつけよう。」
「子どもの病気から教わったこと
生まれて初めてのお正月、家族皆で楽しく過ごした。年が明けるとあなたは保育園デビューで、私は仕事復帰予定だった。しかし年明け早々、あなたは熱を出しまるで保育園に行きたくないのかな?と母を不安にさせた。かかりつけのお医者さんに行って風邪薬をもらって飲んだけど、熱は次の日も下がらない。いつもは熱さましを飲まなくても、熱は自然に下がったけど、今回は全然下がらない。3日も熱が続くと、さすがにあせる。
他の病院にも行って診察してもらっても 「風邪だね」 と言われる。だったら、どうしてよくならないの?と不安になり、泣けてきた。
38.0°Cを超す熱が毎日続いて、時々だるそうな、あなたの顔を見るのがつらかった。うっすら体に発疹らしきものも出てきて、母はもしや…と思ったよ。そして、かかりつけの先生のところに行ったら、「川崎病ですね、入院が必要です」 って言われたね。熱がでて5日目のことだった。やっと本当の病気が分かった瞬間だった。ずっとつらそうだなとあなたをみてたから、言われた時は怖かったけど、本当の病気が分かってちょっとほっとした。でも、仕事復帰もしなくちゃいけないって焦ってたから、母もどうしていいか分からず気持ちだけが焦ってしまったよ。でもね、あなたが良くなるためには、病気と闘うしかない!って思ったから、メソメソしてられない!て思ったんだ。だから一緒に入院して頑張ろうて思った。入院して、点滴したらすぐよくなった。3週間後、無事退院して、あなたは保育園デビューできたね。3週間の入院で、人が健康でいるってことはありがたいことだなって感じたんだ。あなたの病気で母もいっぱい学んだよ。これからはもっともっと心も体も強くなってあなたを見守っていくからね。」
「私は以前、眼底出血で視力を失いかけたことと、突発性難聴で突然両耳が聴こえなくなった経験をした。眼底出血の時は娘が生まれ生後6ヶ月目に入ったときだった。新聞を見ていて、新聞の上半分が見えず視野が狭くなっていることに気づいた。痛みも全くなくすぐ治るだろうと軽い気持ちで受診したところ、視力を司る部分が大量に出血しているため、失明の恐れがあると説明され、すぐ治療を開始することとなった。生後6ヶ月の娘に、まだ授乳をしていたので、内服もしなければならず、母乳からミルクに変更せざるを得ない状況で、娘に対し申し訳ない気持ちと、失明してしまうかもしれないという恐怖で毎日不安な日々を送っていた。すぐ治療できたことで失明はまぬがれることができた。しかし見えなくなった視野が回復するまでには3年程の時間がかかった。今は問題なく日常生活を送ることができているが、また突然見えなくなってしまうのではないかと不安になることがある。
私は生死にかかわるような大きな病気ではないが視力を失いかけたことで、突然襲いかかってくるでき事の恐ろしさを体験することができた。この貴重な体験は同じ思いをしている方がいるならば、不安な気持ちをほんの少しかもしれないがりかいできるような気がする。現在、看護教員として働く中で実体験を学生に伝えることができる。辛い経験ではあったが、今はその経験を生かして生活できることに感謝している。」
「「普通に歩けなくなるかもしれないって言われたんだよ」 と母は口ぐせのように私を話す。2才の頃、股関節の病気をして、私の左股関節は変形している。だが自分で歩くこともできるし、何か薬を内服しているわけでもない。ただ人生のふし目ふし目で必ず足が原因であきらめたり、あきらめかけたりしたことは多々あった。学生時代の部活動、看護師という仕事、結婚・出産。少しずつあきらめたり、おりあいをつけたりしながら、今まで生きてきた。でも今考えると ”リスクがあってもやりたい” という覚悟をする試練だったのかもしれない。
私の足は一生治らない。でもまっすぐ歩けなくても、私にとっては 「普通」 に歩いている。妊娠も出産もがんばりぬいてくれた。「普通じゃない」 と言われながら34年間がんばってくれているこの足に今は 「ありがとう、これからも一緒にがんばろうね」 と言ってあげたい。」
「祖父が胃ガンで亡くなったのは私が看護師として働いて4年目の時だった。体調を崩し、病院で検査をした時には、もう末期の状態であった。抗ガン剤を内服したが副作用が辛く、体力を失っていく祖父に対して、祖母、母、おじ、おばが出した答えは 「もう何もしない」 という消極的安楽死の決断だった。告知をせずに入院していた祖父は不満も痛みも何も言わず、ただただ入院をしているように見えた。母はできる限り、お見舞いに行っては祖父の好きなものを差し入れたり、ガンに効くと言われるサプリメントを飲ませたり、祖父がして欲しい事を何でもした。しかし、何も食べられなくなっている祖父に1日500ml1本の点滴がどういう事かを看護師の私は解っていた。日々やつれていく祖父を見ながら、私は孫としての目線と看護師としての目線の両方から見ていて複雑な気持ちだった。「このままじゃおじいちゃん死んじゃう。もっと点滴してあげて」 「でも何もしないって方針なんだよね」 「おじいちゃんは何も知らないまま死んでいくのかな」 と様々な思いがかけめぐった。数日後、祖父が亡くなった時、家族は深い悲しみにつつまれ、母の泣く姿を今でも忘れない。母が言った。「死ぬのは解るけど、1日でも1分でも長く生きてて欲しかった。おじいちゃんはずっと私にとってはお父さんなんだよ」 という言葉に、家族の死を迫られた時の家族の心境は絶えず揺らぐもので、決断したとしても本当の決断ではない事を感じた。誰かの人生を誰かが決めること、ましてや家族にとっては、それは重圧な事である。そして親の死はどのような状態であっても決して受け入れ難い事を教えられた。」
「妊娠して間もない頃、夜勤中に出血と、動くのも辛い腹痛に襲われた。我慢しながら仕事をしていたが、徐々に痛みは増し朝方には歩けなくなってしまった。その後病院に行くと 「切迫流産。どうなるかは分からない。薬を飲んで家で安静に過ごして経過をみていくしかない。」 と言われ自宅での安静を余儀なくされた。
家に居て安静にしていると、今まで行っていた日常動作全てが当たり前のことではなく、出来ていたことが幸せなことだったと気付いた。また、大変だと嘆いていた仕事も行けなくなると寂しいような気持ちにかられ、仕事がある幸せを感じた。そして、仕事復帰すると再度出血し再度安静を余儀なくされた。動けることが幸せで、仕事をしているとついつい自分のことは二の次にして無理してしまう自分がいたが、無理は禁物だと実感した。また、無理をすることでこんなにも自分やお腹の子に影響が出て、人間って強くないんだと気付いた。それからは、無理せず家族や職場の方々、友達など色々な人に甘えることが出来るようになった。
その後何度か休職を繰り返しながら出産した。人が生まれるということ、生きるということは当たり前のことでもなく、簡単なことでもないことが身に染みて分かった。自分がみんなを頼れるようになったのも病気になってからだ。みんなが私を支えてくれたことで息子は無事誕生することが出来た。そして、最近4歳になった息子。みんなのおかげでここまで元気に育ち、毎日一緒に過ごすことが出来ている。本当に有り難い。
これからも、無理せず、程よくみんなに甘えながら当たり前じゃない毎日を大切に過ごしていきたい。また、甘えるだけでなく私たちもみんなの支えになれればと思う。」
「あなたの 「夢」 がかなうように
あなたの成長を愛しむ叔母より
あなたに初めて会ったとき、お腹の胃瘻からミルクとお薬を注射器で入れていて、口から食べると吐いちゃうけど、自分で食べることをあきらめないことを知った。
あなたに初めて会ったとき、両腕を足の代わりにしてあちこち動き回っていて、まだ足の筋肉が弱いけど歩けるように頑張っていることを知った。
あなたに初めて会ったとき、唇が真っ青でびっくりしたけど、元気な笑顔を見せ大丈夫だよって安心させていたことを知った。
あなたは生まれてからずっと入院していて会えなかったけど、初めて抱っこして小さな体で毎日頑張っていたことを知った。
あなたはたくさんの検査や手術で入院しても、お利口さんで看護婦さんの人気者だったけど、寂しいことを我慢していたことを知った。
あなたは時々激しく泣いて、いい子に疲れたことを小さな体で大人たちに伝えていたことを知った。
あなたがだんだん歩けるようになって、お口から食べるようになって胃瘻がとれ、本当に頑張ったね。すごいね。偉かったね。
あなたがランドセルをしょって元気に小学校に行って、お友達もたくさんできてみんなとお勉強していることを教えてくれたね。
あなたが私に将来の夢は 「看護婦さん」 って教えてくれたね。すっごく、すごく嬉しかったよ。
あなたは身をもって私にたくさんのことを教えてくれたね。どんなに小さくても病気と向き合い、生きる力と強さがあるってことを。そして、夢に向かって進むことを。
また、すこし背が伸びたね。また、いっぱい、いっぱいお話聞かせてね。そして、あなたの夢がかなうように祈っているね。」
本当は全部ご紹介したいところですが、とりあえず以上10作品だけにしておきます。
ウルウル来てしまいますね。
皆さん、ありがとうございました。
実はちょうど今日、久しぶりに相馬の看護学校へ行って、同じワークをやってもらいました。
こちらは宿題ではなくその場で書いてもらったのでみんな苦労していましたが、
短い時間のなかでなかなかいいエッセイを書いてくれていました。
これも近々発表していきたいと思います。
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