まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

3.11のとき、あなたは何をしていましたか?

2013-06-07 20:37:46 | グローバル・エシックス
昨日の桜の聖母短期大学 「現代社会論Ⅰ」 の授業では、
最初に次のようなお題について書いてもらうことからスタートしました。
「3.11のときや原発事故直後、あなたは何をしていましたか?」
ただし全員に強制ではなく、
考えたり思い出したりするのがつらい人は書かなくてもいいことにしておきました。
実際には出席者全員が何かしら書いてくれました。
どこにいたかによって被災状況も違うでしょうけれど、
2年前といえばみんな高校1年生の終わり頃のはずですから、
それくらいの若者たちがあれをどう受け止めていたのか、
そういったことを150人近くの人から聞くのは私としても初めてです。
読んでみると本当にこちらまで心が痛くなってくるような話ばかりでした。
とても全部は載せきれませんが、記録のためにいくつかここに記しておきましょう。
まずは何が何だかよくわからなかったという人がやはり多かったようです。


「3.11のときは地震の揺れに驚き、さらに津波もテレビで見て、何がどうなってるかよくわかりませんでした。電気が通っていなく、ラジオを聞いて情報を得ていました。」

「地震が起こる前は学校の宿題をしていて家に1人でいました。そして聞いたことがない音が携帯からして、地震が起こり、犬をかかえて外に逃げ出しました。テレビで原発から煙が出ているのを見て、最初はなにが起きているのかわからなかった。私は原発のおそろしさがわからなかったので、今起こっていることがのみこめなかった。」

「インスタントラーメンを作っている時に災害に合いました。地震が起こっている中で、ラーメンとはしと一緒に持ち出して逃げようとしたら、母に怒られました。」

「家にただこもっていた。毎日震災関連、原発事故関連のニュースを見ていた。それ以外のことはあまり覚えていない。ただ恐怖と不安と焦りしかなかった。」


わけがわからなくなっていたのは高校の先生方も同じだったようです。


「3.11の地震の時、私は学校の3階にいて休み時間中でした。クラス全員が訓練の時のように机の下に入って地震がおさまるのを待っていました。しかし、机の下にいたため、見回りに来た先生方は私たちに気づかず、私のクラスは全員避難が遅れてしまいました。臨機応変に行動することの重要性を強く感じましたが、パニックになってしまってとても動ける状態ではありませんでした。」

「部活で高校近くのグラウンドで練習をしていました。地震が起きてからも、先生は災害の大きさを知らず、1時間くらい練習は続きました。練習が終わり帰るころには携帯はつながらず、電車は止まっていて、親と連絡をとるために何度も携帯にかけ直しました。」


地震によりけっこう危ない思いをした人もいたようです。


「地震があった日は、高校が休みで、家に姉と二人でいた。マンションの10階だったこともあり、すごい揺れで、家具はすべて倒れ、姉と2人で抱き合いながら、怖くて泣いていた。それから2、3週間は家にいるのが怖くなり、父の単身赴任先や山形の祖父の家にいた。地震直後の2、3日は車中泊だった。」

「大震災の時、私は学校の音楽室で部活の最中でした。音楽室が4Fだったこともあり、結構な揺れでした。私は、ピアノの下にもぐりこみましたが、ピアノまで揺れてしまって、棚も倒れてきてどうしたらよいか分からず、みんなで泣いていた。」

「高校1年生の3月で、夏のコンクールの自由曲が決まり、届いたばかりの譜面を学校の敷地内にある和室で練習していた。地震が発生し、部員は窓や玄関から脱出。譜面は地面に散らばり、部室の本棚は崩れ落ちていた。泣きじゃくる友達を目にし、ただ揺れる地面に立つしかなかった。それから2ヶ月近く高校は休校、家から一歩も出ずに放射能汚染と余震に耐えていた。」

「3月11日は、高校1年生で、入試で学校が休みだったため、家でテレビを見ていました。地震の直後は外に出て犬と一緒に地震がおさまるのを待ちました。その日のあの時は、たまたま家族がみんな出掛けていて、家に私一人だったので、とても不安でした。家族が帰ってきてからは家の中に入って掃除をしました。テレビを見ていた部屋もぐちゃぐちゃで、あの時にあのまま部屋にいたら危なかったと思います。その後は余震におびえながら、いつでも逃げられるようにくつを枕元において寝ました。夜はこわかったです。テレビは基本つけっぱなしでした。」


街の人々の狂乱の様子を目撃した人もいました。


「3月11日、風邪で体調を崩していて学校を早退。両親と姉がちょうど高校の近くにあるお店へ行く予定だったのでむかえにきてもらいました。お店へ行く途中にちょうど地震が発生。お店へ行くと商品が棚から落ちていてとても悲惨な状態でした。そんな状態の中で、たくさんの人がお店へ来て買い占めをしていました。はじめての経験だったので驚きと恐怖心でいっぱいでした。」

「3.11直後はすぐにテレビをつけようとしましたが電力が通わなくなり、お風呂や電気、こたつなどほとんどの物が使えなくなりました。また、ガソリンを得るために何時間もガソリンスタンドに並び、食料などもできるだけ多く買いました。ほとんどの物資が取り合いになりました。スーパーに行くとほとんどの食材がなく、買い物のときはとても大変でした。夜はロウソクをたてて、冬で寒い時期だったので家族のお互いの体温でこたつに集まり寝ていました。」


家族が離ればなれになるというケースもありました。


「家族がバラバラになり、姉妹で祖母の家にいた。原発爆発後2、3日で母が実家から帰ってきて、4、5日後には長野の知人の家に姉妹3人と母の4人で向かった。今でも思うことは、震災後から新学期が始まるまでは半年以上たっているような気がしたが、実際は1ヶ月とちょっとしかたっていないことに驚く。」

「電車のなかにいてかたむいた電車の中で5時間くらいとじこめられていました。なんとか家に戻ることができたけど、原発で県内をてんてんとして今も家族は仮設住宅にいます。」


そしてもちろん、沿岸部であの震災を迎えた人も何人かいました。


「部活場所からひなんして、学校の上にあるグラウンドに逃げて、津波で街が流れていくのを見ていた。ケガ人の手当やぬれた人の看病。食料さがし。友達さがし。」

「3.11その日は、午後から母と一緒に病院に行く予定だった。午前中、母は、母の友人の家に行っていた。午後の1時をすぎても帰ってこなかったので、私は、いつものことか…と思い、DVDを観ていた。2:46、今まで経験したことのない揺れにおそわれた。父が仕事場から帰ってきて、避難するために車に乗り、父の仕事場へむかった。車の中から流れるラジオでは、『荒浜・深沼海岸、上空から300人ほどの遺体確認』。自宅から車で15分ほどの場所。異常なほどの渋滞、建物の崩壊、ライフラインの停止。現実に起こっていることだと信じられなかった。」

「私は相馬市に住んでいたため2週間くらい家には帰れなかったのですが、波が引いてから、自宅に戻り、大量の荷物を家族で運び、二本松や福島市などに避難しました。数日後には海沿いから遠い親せきの家で生活しました。」

「電気や水道が使えなくなり、ワンセグでニュースを見ていました。充電がなくなりそうだったので、見るのをやめて、家の片付けをしていたら津波が来て、近所の人と車に乗って山に逃げました。車の中で一晩過ごして、次の日には水が引いていたので家に帰りました。でも、電気や水道が使えないので、冷蔵庫にある食材を食べました。」


原発事故により外に出してもらえなくなり、家のなかで何もすることがなく、
ただニュースを見たり、マンガや小説を読んで鬱々としていたという人が多かったです。
が、直後からみんなの安否確認をしたり、ボランティアに携わっていたという人もいたようです。


「地震の直後は家族や友達などかたっぱしから電話やメールをして安否確認をしていました。最終的には全員無事だと分かり、ほっとしました。震災から2週間くらいは原発の影響もあり、家から出ないようにしていました。家から出ないことでストレスがたまり、色々と大変でした。」

「震災の直後は、学校で部活をしていたので、グラウンドに避難して下校途中の小学生をグラウンドに避難させて、気持ちが落ちつくように親さんがくるまで一緒に待っていた。断水・停電 (どっちも1週間近く) で本当に辛かった。震災の3、4日後、自宅の近くに避難所があるということを知ったので、支援、お手伝いをしに行きました。家で余っている布団を寄付したり、米がたくさんあったので、おにぎりを作って持って行きました。」

「3.11の日は、部活でグラウンドのどまん中だった。顧問の携帯に地震速報がきて、『地震くるぞ~』 って言ったとたんに大きなゆれがおこった。学校や周りの家がぐわんぐわんゆれてあ然とした。私たちはグラウンドにいたので、ケガなどはなかった。しかし、電話やメールが全くつながらず、帰るのにすごく時間がかかった。それからは、地元のボランティアに参加して、料理作ったり、荷物を運んだりしていた。地元はそんなに被害がなかったので、浜通りの方から来た人たちのお手伝いなどをしていた。」

「父と祖母の家に行き、無事か確認した。連絡がつかなかったので友達の安否が心配だった。水も出ず、ガスも使えず不便な日々を送っていた。何か役に立ちたいと思い、自分が通っていた高校へ行き、ボランティアをした。被災している人たちに比べたら私たちはありがたかったとその時感じた。ガソリンもあまり使わないようにし、水は近所が井戸水だったのでその家に何回ももらいに行っていた。食料などは知り合いのお店にもらったりした。」


本当にみんな大変な思いをしていたようですね。
思い出すのもつらい経験だったろうと思いますが、
一生懸命思い出して書き留めてくれて、ありがとうございました。
まだつらいという人もいるでしょうから今すぐにとは言いません。
しかし、あれだけの経験を誰にも伝えずにしまいこんでしまうというのはもったいないですから、
時々思い出してみては書き留めたり、誰かに少しずつ話してみてください。
そしてもちろん、私たちは今も原発事故の影響下にいるわけですから、
そのことも時々意識して、考え続けていくようにしましょう。
けっしてあの震災と原発事故を風化させてしまわないように、
私たち1人ひとりが語り部としてこの人類史上に残る大事件を語り継いでいきましょう。


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