まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

福島、だいじょうぶ?

2011-08-04 07:19:40 | 生老病死の倫理学
先日飲んでいるときに話題になりました。
親戚や友人、知人をはじめ、県外の人と話すと必ず最初に聞かれる質問が、
「福島、だいじょうぶ?」 なのです。
福島県民はあの日以来ずっとこの問いにさらされ続けています。
私も何度こう聞かれたかわかりません。
しかし、聞かれるたびに答えに窮してしまいます。
こう聞かれてなんと答えればいいのでしょう?
こう聞く人はみな、地震や津波のことではなく、
原発事故の被害のことを心配してくださっているのでしょうが、
放射線の影響から福島は大丈夫なのかどうか、
むしろこちらがお聞きしたいです。
福島は大丈夫なんですか、そうではないんですか?

政府はあの日以来ずっと、避難区域以外は大丈夫だと言い続けています。
学者の方々も大半はそれを裏書きするような発言をしています。
しかし、なかには涙を流したり声を荒げたりしてそうではないと主張する学者もいらっしゃいます。
はたしてどちらが正しいのでしょうか?
科学的に言うならば、「今のところよくわからない」 というのが正確なところでしょう。
そもそも原発が水素爆発を起こし、大量の放射性物質を外部に撒き散らすなんてことは、
けっしてあってはならないはずのことだったのですから、
そうなった場合のデータがそうそうあるはずはないのです。
データがないことに関して科学はなにも言えません。
しかも問題は放射線なわけですから、
因果関係が短いスパンで簡単に判明するような事柄ではないわけです。
何十年も経って何%かの確率で影響が出るというようなお話です。
そのデータはまさにこれから、私たち福島や日本の住民が身をもって提供していくことになるわけです。

そういう事柄に関して、素人の私たちにそんな気軽に 「福島、だいじょうぶ?」 と聞かれても、
私たちはなんと答えればいいのでしょうか?
ていうか、お聞きになる方々はどんな答えを期待していらっしゃるのでしょうか?
ニッコリ笑って 「全然だいじょうぶだよ」 と答えてもらいたいのですか?
それとも、「もうムリです。福島には暮らせません。最近、鼻血が止まらなくて」 がお望みですか?

「福島、だいじょうぶ?」 と聞きたくなってしまう心情はとてもよくわかります。
私たちのことを心配してくださっているということも重々承知しています。
しかし、そう聞かれるたびに私たちは途方に暮れてしまうのです。
国家や東電や原子力関係者をさしおいて、私たちはこの問いに答えることができません。
そして、彼らもまたまったくこの問いに答えることはできないはずなのです。
なかには、こう問われるたびに無性に腹が立つという人もいました。
私は、そう聞きたくなる心情もわかるので腹が立つとまではいきませんが、
聞かれるたびに下手くそな質問だなあと思わざるをえませんでした。
私は教科教育法の授業のときに学生たちに、
質問するときは相手が答えられるような質問をしようねと指導しています。
聞かれたほうが返答に窮してしまってなんとも答えようのない質問は、
最初からすべきではないのです。
問いを発する前にほんのちょっとでも、もしも自分がそういう状況に置かれ、
そう聞かれたらなんと答えるだろうかと考えてみたならば、
その問いが答えられる質問かどうかということはわかるのではないでしょうか。
質問するというのは実はとても責任重大な行為なのです。
問いを発する人にはそのことをわかった上で、適切な質問をしてもらいたいと思います。